たぴおか
陽奈梨の着替えが詰まったクーラーボックスは、魚を獲りに行くときに乗せてもらう船の中に隠した。
自分の荷物と数日分の食料は、すでに積荷に紛れさせてある。
船の操縦の仕方は、漁師を生業にしている島民のおじさんに教えてもらった。ときどき操舵させてもらうことがあるので、船に乗り込めさえすれば、まず大丈夫だろう。
雪花は諸々の準備を終えた後、紺色の浴衣を身にまとい、陽奈梨を再び迎えに行った。
本当は浴衣ではなくもっと動きやすい格好の方がいいのだが、神慰撫祭に参加する者は浴衣でないと目立ってしまう。
陽奈梨に指示したのと同じように、雪花も浴衣の下に薄手の服を着ている。
事を起こすときには、浴衣を脱いですぐに動けるようにするためだ。
陽奈梨の家に行くと、すでに祭の支度を終えた彼女は玄関で本を読んでいた。
読みかけの小説は、本島で流行っているミステリーらしく、最新刊が出るたびに陽奈梨は取り寄せてもらっている。
「もう読み終わるの?」
「あ、雪花くんおかえり。まだ半分くらいだよ」
それならクーラーボックスの方に入れた方がよかったんじゃない、と言いかけて言葉を飲み込む。
陽奈梨はまだ、『あれ』を何に使うのか知らないのだ。
それにどうせ向かう先は本島なのだから、もし続きが読みたくなったならまた手に入れればいい。
「お待たせ。祭、もう始まってるかな」
「さっき始まりの鐘が鳴ってたよ」
海辺で船に積荷をしていたせいで、鐘の音が聞こえなかった。
もし村の人の前で今の発言をしていたら危なかったな、と雪花は冷や汗をかく。
狭い島なので、村の鐘の音が聞こえない場所なんて限られている。
どうして海辺にいたのか、と怪しまれては堪らない。
一年半もかけて、十分に準備をしてきたのだ。
こんな些細なことで、計画を台無しにするわけにはいかない。
もっと気を引き締めなければ。
雪花の表情がわずかに強張ったことに気づき、陽奈梨が首を傾げる。
「どうかした? 雪花くん。なんか険しい顔になってるよ」
「ん? 別に。今年は何の屋台が出てるのか考えてただけだよ」
五年に一度の神慰撫祭。
大人たちが屋台を出して盛り上げてくれるが、出し物に決まりはないので、どんな屋台があるのか、祭が始まるまで分からないのだ。
わたあめが食べたいなぁ、とのんびりした声を上げる陽奈梨の隣で、雪花は大人たちの動向に注意を払うのだった。
見慣れた島の風景が、神慰撫祭の日だけは違って見える。
雪花は陽奈梨から離れないよう気をつけながら、辺りを見回した。
村を囲む山はいつもなら厳かに見えるのに、今日は無数の赤いちょうちんが飾られて、どこか華々しい。
夜になれば男たちが山の中のちょうちんに火を灯していくので、今度は神秘的な雰囲気になるのだ。
山から村に続く小道に、屋台は立ち並んでいた。
大きな白い旗に、りんご飴、金魚すくいなど出し物の内容が書かれている。
毛筆で書かれたそれらは全て同じ字で、祭の屋台旗に書くには達筆すぎるくらいだ。
きっと村一番の書道家、稲次郎じいさんが書いたものだろう。
「雪花くん、『たぴおか』だって!」
「たぴおか? 何それ」
「分かんない! 見に行こうよ!」
陽奈梨の細い指が、雪花の手をさらう。
夏だというのに陽奈梨の手は少し冷たかった。
陽奈梨に触れられて、緊張で思わず汗ばんでしまう雪花とは大違いだ。
「あれ、千夏くんのおじさんだ」
『たぴおか』と書かれた謎の屋台を覗き込むと、見知った顔がそこにいた。
雪花の同級生である千夏という男子の両親だ。
千夏は屋台の手伝いをしていないようだが、両親は浴衣姿でジュースを作っている。
「あら、雪くんに陽奈ちゃん。浴衣姿、似合ってるわね」
「ありがとうございます。この、『たぴおか』ってなんですか?」
「ふふふ、これはねぇ、美味しいわよ」
全く答えになっていない言葉を返しながら、透明なコップの中にカラフルな小さな球体をたくさん流し込む。
「うわ……、何それ。なんかの卵?」
「違うわよ、大丈夫、美味しいから!」
「……答えになってないんだよな」
ため息をこぼす雪花とは対照的に、陽奈梨はやや前のめりになっておばさんの手元を見つめている。
新しいものや知らないものに対して、消極的になってしまう内気な雪花とは違う。
陽奈梨は未知の文化に出会っても、迷わず飛び込んでいくタイプだ。
好奇心旺盛なのはいいことだが、少々無鉄砲のきらいがあるので、そこだけは注意してほしいと思う。
でも陽奈梨のその無邪気さも、無鉄砲さも、雪花には眩しく見えてしまうのだ。
「陽奈ちゃん、ジュースは何がいい?」
「オレンジ!」
「雪くんは?」
俺はそんな意味の分からないもの、口にしたくないんだけど。
……とはさすがに言えない。
陽奈梨の隣にいるので、カッコつけて「アイスコーヒー」と答えたのに、おばさんにあっさり却下されてしまう。
「ブラックのコーヒーより、牛乳が入ってる方が『たぴおか』には合うのよ」
それなら最初から聞くなよ、と思ってしまう。
結局手渡されたのはコーヒー牛乳だった。コップの下には陽奈梨のオレンジジュースと同じように、カラフルな球体が沈んでいる。
やけに太いストローで、おそるおそるそれを吸い上げてみると、もちもちした卵のようなものが口の中に飛び込んできた。
「すごーい! なにこれ、もっちもち!」
「それになんか……甘い?」
「そうなのよぉ。不思議でしょ?」
雪花は勇気を出して『たぴおか』を噛んでみるが、中からは何も飛び出してこない。どうやら本当に卵の類ではないらしい。
陽奈梨の言う通り、食感はもちもちとしていて、白玉だんごに似ているな、と雪花はぼんやり考える。
『たぴおか』の正体は気になるところだが、雪花はすぐに諦めた。
頰に手を当てて、おいしい、と微笑む陽奈梨が横目に見えたからだ。
陽奈梨が楽しそうならば、別に『たぴおか』が何かの卵だったとしてもまあいいか、と思えてしまう。
「おいしいね、雪花くん!」
いつもの太陽みたいな笑顔を浮かべ、陽奈梨が呼びかけてくる。
カッコつけようとしていたことも忘れ、コーヒー牛乳を一口飲んで、雪花も微笑み返した。