二重島の授業
それは雪花がまだ成人の儀を受ける前のこと。
「今日は二重島の歴史について勉強するぞ」
二重島唯一の学校で、数少ない教師である太一の言葉に、生徒たちは「またー?」と声を揃えた。
六歳で学校に入学し、十八歳で卒業。教師の数も限られているので、学年別の授業ではなく、全ての子どもに同じ勉強を。
そんな学校なので、必然的に何度も同じ授業を受けることになる。
『二重島の歴史』は、最も繰り返されている授業だ。
雪花もさんざん聞いてきた授業。
一言一句漏らさず、とまではいかないが、島の歴史を知らない相手にでもしっかりと説明できるくらいには、雪花の頭に叩き込まれている。
「もうききあきたー! たいいくにしようぜー!」
「体育より音楽がいいなぁ」
「お前らバカだなぁ。本島に行って大学に進学するなら、数学も必要だぞ?」
「ご本読みたいー」
「そんなことより理科の実験の続き!」
無法地帯のようになる教室も、いつものことだ。
わざわざ声を上げたりはしないが、正直なところ、雪花も別の科目がいいと思ってしまう。
姿勢よく隣に座っている陽奈梨に視線を移すと、二重島の歴史と書かれた教科書を取り出している。
「陽奈梨は他の教科、やりたくねえの」
教師は生徒たちをなだめるのに必死なので、ささいなお喋りを咎められることはない。
雪花が声をかけると、陽奈梨は眉を下げて笑った。
「まあ正直、他の授業の方が楽しいよね。二重島の歴史なんて聞き飽きてるもん」
「掟に至っては、文面見なくても言えるもんな」
「あはは! ちっちゃい頃からさんざん聞かされてきたからね」
陽奈梨の明るい笑い声に、自然と教室の中の視線が集まる。
特別声が大きいわけでもないのに、陽奈梨がみんなの視線を奪ってしまうのは、いつものことだった。
「体育も球技とかなら楽しいけど、山中マラソンになったら嫌じゃない? それなら歴史の方がいいなぁ」
陽奈梨の言葉に、子どもたちは顔を見合わせた。
それもそうだね、と頷き合い、教師に向かって呼びかける。
「太一先生、早く授業始めて!」
「おまえらが騒いでたんだろうが」
「いいから早くー!」
まだ若い教師は、自由な子どもたちに振り回されてしまっている。
大きなため息をこぼし、二重島の歴史についての授業が始まった。
二重島は、日本の国土ではあるものの、本島から迫害されている。
日本地図に載っていないのは、そのせいだ。教師は黒板に日本地図を貼り付け、雪花を名指しする。
「じゃあ雪花。二重島のある場所を答えて」
何度も聞いている授業なので、間違えることもない。
雪花は「千葉県の南東四百キロ」と答える。
「正解。地図には載っていないけど、この地図でいうとこの辺りだな」
地図の何もないところを指差し、太一はとんとん、と黒板を叩いた。
そして教室を見渡し、子どもたちに言い聞かせるような口調で語り始める。
「みんなも十八歳になったら、成人の儀を受けることになる。簡単に言えば大人になった、っていう証明だな」
「成人の儀って何をするの?」
生徒の一人が何気なくした質問に、太一は眉をひそめる。
それから「それはそのときまで教えられない」と答えた。
「でも一つだけ言えるのは、成人の儀を受けると、自分は二重島の住民だっていう意識が強くなる。それだけは確かだ」
今は本島に移住したいと思っている者も、きっと二重島に残るという選択をするんじゃないかな。
そう続いた言葉に、子どもたちはまた騒ぎ出す。
成人の儀がどんな内容なのかは知らない。
それでも、島に生まれた子どもたちのほとんどは、本島に移り住みたいと思っているはずだ。
二重島での暮らしは、不自由なことが多い。
きっと本島に移り住めば、その場所がどんなに田舎だったとしても、二重島よりはマシな暮らしができるはずだ。
少なくとも、子どもたちはそう信じている。
「話が逸れたな。成人の儀を終えると、二重島を出る権利が与えられる。もしも本島で暮らすことになっても、二重島については絶対に喋ってはいけないからな」
これは先生との約束だぞ、と太一が厳しい表情で言った。
二重島の外で、島について口外してはいけない。
それは島の掟でも決められていることだが、二重島出身者を守るための掟なのだという。
二重島は本島から迫害されている。
生まれが二重島だとバレると、それだけで本島に住む人たちからは、冷たい目で見られてしまうらしい。
だから子どもたちは必ず教えられる。
もしも本島に移住した場合、出身地は他の都道府県を答えるように、と。
「できれば、大きな都市じゃない方がいい。同じ土地の出身者がいたら困るだろ?」
東京に住むならば、できるだけ東京から離れたところを出身地ということにする。
それが太一からのアドバイスだった。
雪花は自分が本島に移住したら、とぼんやり考える。
大人になったら絶対に二重島を出ると決めてはいるものの、陽奈梨のように両親を探す、という目的があるわけではない。
大学に進学をして、適当な企業に就職する。そんなふんわりとした目標があるくらいだ。
でも、と隣に座る陽奈梨を盗み見る。
できることなら、その隣に陽奈梨がいてほしい。
本島に移り住んだ後も、陽奈梨との関係は保ち続けていたいと思ってしまう。
ただの幼馴染でいいから。
恋人にはなれなくてもいいから。
それでも、そばにいたい。
陽奈梨の幸せを近くで見守っていたい。
そう思ってしまうのは、過ぎた願いだろうか。
雪花がそんなことを考えていると、陽奈梨がまっすぐに手を挙げる。
太一が陽奈梨の名前を呼ぶと、赤い唇が質問を紡いだ。
「太一先生。そもそもどうして二重島は、本島に嫌われているんですか? 人種差別とか?」
「…………人種差別ではないよ。本島に住む人たちと俺たちに、生まれながらの違いはない」
「じゃあどうして?」
陽奈梨のきらきらした黒い瞳に、少しだけ不安の色が混ざる。
迫害されている、という事実は知っていても、その理由を気にしたことがなかった。
どうして今までその理由が気にならなかったのか、不思議に思うくらい、雪花も太一の答えを待っていた。
「うーん、説明が難しいな。強いていうなら、本島のあり方と二重島のあり方が、相容れなかったからじゃないかな」
島のあり方。それは、暮らしの話だろうか。
それとも、他の何か?
雪花が首を傾げて考えていると、太一と目が合ってしまう。
困ったような表情で、太一は言葉を続けた。
「詳しいことは、成人の儀を迎えれば分かるよ」
教師である太一も、両親も、島に長く住む老人も。
島のことや、本島のことを訊ねると、大体同じ言葉が返される。
『成人の儀を終えたら分かるよ』
『雪花が成人の儀を迎えたら教えてあげる』
『成人の儀も終えていない若造には教えられん』
成人の儀とは何なのか。
雪花が大人たちの言葉の本当の意味を知るのは、成人の儀を終えた後のことだった。