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二人きり


 事務所が雪花と陽奈梨のために一室ずつ借りてくれたマンションに到着した。

 二重島からの追っ手の件がなかったとしても、メディアに顔を晒す以上、セキュリティがいいに越したことはない。

 それは社長である金丸の言葉だった。


 オートロックという自動で締まる鍵付きのマンションで、雪花は五階に部屋を用意してもらっている。

 陽奈梨はもっと上の八階なので、エレベーターでは先に雪花が降りることになる。

 一階で同じ箱の中に乗り込み、ボタンを押すとゆっくり浮上していく。

 隣に立つ陽奈梨は、どこかぼんやりとした表情で階数が移ろっていく表示を眺めていた。


 本島の交通手段に詳しくない二人は、必ず移動のときはマネージャーの堺が送迎してくれている。

 レッスンのときには講師がいるし、動画撮影の際にもカメラやメイク担当などたくさんの人が周りにいる。

 そして冴島の家から連れ出し、疲れ果てた陽奈梨を、自宅まで運んだのもマネージャーと雪花の二人がかりだった。


 エレベーターの中だけの、短い時間。

 二重島にいた頃は、二人きりになることなんてたくさんあったのに、雪花はやけに緊張していた。


 せっかく久しぶりに二人きりになれたのに、何も会話をすることなく、終わりの時間は訪れた。

 五階に辿り着き、ドアが開く。

 雪花はエレベーターを降りて、陽奈梨へ呼びかける。


「じゃあ、ゆっくり休んでね。ドアも窓も、ちゃんと施錠するんだよ」

「うん。ありがとう」


 またね、と笑う陽奈梨。

 雪花も笑い返すが、ドアが閉まる瞬間、陽奈梨の表情が翳ったことに気づいてしまった。

 気づいたら、雪花はエレベーターのボタンを押して、ドアを再び開けていた。

 驚いたような表情で目を丸くする陽奈梨に、雪花は慌てて言葉を取り繕う。


「えっと、やっぱり、部屋の前まで送る。心配だし」

「………………ありがとう、雪花くん」


 再び乗り込んだエレベーターの中で、二人は黙り込む。

 不思議なことに、心地のいい沈黙だった。


 八階につき、陽奈梨の部屋の前まで立ち止まる。

 鍵を開けてもなかなか家の中に入ろうとしない陽奈梨に、どうしたの、と雪花は訊ねた。


「雪花くん……あのね、」

「ん?」

「もう少し一緒にいてほしいなって。…………ダメかな?」


 ちょこんとかわいらしく首を傾げて、陽奈梨が問いかける。

 雪花は頰が熱くなるのを感じ、その場で顔を押さえて座り込んだ。


 雪花くん!? と慌てる陽奈梨の声が聞こえるけれど、それどころではない。

 今顔を上げてしまえば、絶対に頰が赤く染まっている。

 陽奈梨にかっこ悪いところを見られたくない気持ちと、心配をかけたくない気持ちがせめぎ合い、雪花は観念して顔を上げた。


 自分のちっぽけなプライドよりも、陽奈梨に余計な心配をかけたくないという気持ちの方が強かったのだ。


「…………雪花くん、顔赤いよ?」

「言わなくていいから。一緒にいるって、陽奈梨の部屋?」

「うん」


 社長の金丸に契約のときに言われた「恋愛禁止」という言葉が頭をよぎる。

 しかし、これは雪花の片想いだ。

 それに二重島にいるときは、互いの家を行き来することなんてしょっちゅうだった。

 間違いが起こるようなことは絶対にないと言い切れる。


 それでもどこか浮き足立つ心を鎮め、平静を装いながら、雪花は頷いた。


「少しだけだからね」


 雪花の答えに、陽奈梨はきらきらと輝く笑みを浮かべた。



 陽奈梨の部屋は物が少なかった。

 それもそのはず。この家を借りてもらってからまだ大して日が経っていないのだから。


 しかし陽奈梨の部屋には、見覚えのあるものが一つだけ飾られていた。

 二重島にいたとき、陽奈梨の家の玄関に飾られていた絵。

 雪花が昔描いた、ひまわりの絵だった。


 どうしてこれがここにあるのか、と雪花が絵を眺めながら考えていると、陽奈梨が照れたように笑って言った。


「それ、島から持ち出したの。雪花くんが言ってたでしょ? クーラーボックスに荷物を詰めるとき」


 三日分の着替えと、絶対になくしたくないもの。

 確か雪花は、陽奈梨にそう言ったはずだ。


「え、ってことは陽奈梨、この絵をわざわざ持ってきたの?」

「うん! 私の宝物だもん!」

「この下手くそな絵が?」

「雪花くんは覚えてないかもしれないけど、私にとっては宝物なの!」


 絵そのもの、というよりは、絵にまつわる思い出を大事にしている。そんな印象だった。

 ひまわりの絵を描いたとき、雪花と陽奈梨の間に何か特別な会話があったのだろうか。

 思い出そうとしてみても、いかんせん古い記憶なので、陽奈梨が泣きながら絵を欲しがったことしか覚えていない。

 何かあったんだっけ、と雪花が訊ねると、陽奈梨はいたずらな笑みを浮かべ、内緒! と人差し指を口に押し当てた。


 陽奈梨が淹れてくれたお茶を飲みながら、二人でのんびりと話をした。

 もう少し一緒にいたい、と雪花を引き留めたわりには、陽奈梨には特別用件があるわけではなさそうだ。

 雪花としても、冴島の一件のせいで陽奈梨の精神面が心配でたまらなかったので、そばにいられるのはありがたかった。


「そういえば今日金丸社長が言ってたよ。私たちの曲ができたんだって。アイドルらしい明るくてかわいい曲なんだって」

「へぇ……じゃあ明後日からのレッスンは、曲覚えたりダンスの振り入れをしたりするのかな」

「楽しみだよね! 衣装もかわいいといいなぁ」


 ほら、かわいい衣装なら雪花くんもうっかりかわいいって言ってくれるかもしれないし!

 そう言って笑う陽奈梨に、雪花も思わず笑みをこぼした。


「うっかりってなんだよ」

「だって雪花くん、絶対にかわいいって言ってくれないから」


 心の中では、いつもかわいいと思ってるよ。

 雪花はその言葉でさえも心中で呟くだけにとどまった。


 かわいいと言えば、陽奈梨は喜んでくれるのだろう。

 でもその言葉を口にすれば、雪花の恋心も一緒に露わになってしまいそうで、こわかった。

 陽奈梨は知らないままでいい。

 雪花の気持ちを知ってしまえば、陽奈梨を二重島から連れ出したことも、重荷になってしまう気がした。

 命を救ってもらったから、と恩返しのように雪花の気持ちに応えてくれるかもしれない。


 そんなことを、雪花は望んでいなかった。

 ただ陽奈梨が、好きになった人と幸せに笑っていてくれればそれでいい。

 できるのならば、すぐそばで陽奈梨の幸せを見守っていたいけれど。

 多くを望むつもりはない。

 陽奈梨が生きて、幸せになってくれるのならば、雪花はそれだけで幸せなのだから。



 しばらく話していると、疲れが出たのか、陽奈梨はうとうとし始めた。

 眠そうな陽奈梨に「俺はもう帰るから、ベッドで寝なよ」と声をかけるが、陽奈梨は首を横に振った。


「…………寝たくないの」

「どうして? 疲れてるでしょ」

「眠って目が覚めたら、またあの場所にいる気がして、こわい……」


 あの場所。

 最初は二重島のことかと思ったが、それなら陽奈梨は言葉を濁したりはしないだろう。

 冴島の自宅のことだ、と気がついて、雪花は静かに息を飲んだ。


「雪花くんには……ちゃんと説明しておきたくて……。あのね、本当に何もなかったの。襲われたりそういうことがあるかもしれないってずっと怯えてたけど、何もなくてね」

「…………うん」

「妻にしたいって言ってたけど、一緒に食事をして、ひたすらあの人の話を聞くだけ。家を出たらいけない、とは言われたけど、それ以外はずっと自由だったし、優しかったの。でも機嫌を損ねて何かされるのがこわくて、ずっと笑顔を作って顔色を伺ってた」


 手を出されることがなかったのは、不幸中の幸いだった。

 しかし陽奈梨の立場からすれば、恐ろしくてたまらなかっただろう。

 いつ殴られるか。いつ襲われるか。

 何をされるのか分からない恐怖。

 街中で堂々と誘拐をするような気の狂った男だ。

 何もされず、ただ普通に過ごすことを要求されるだけですら、こわいに違いない。


「気味が悪かった。用意された服も、下着も、なぜか私のサイズにぴったりなの。採寸されたわけでもないのに全部ぴったりなの。それがすごく気持ち悪かった…………」


 その場面を想像して、背中に怖気が走った。

 服のサイズなんて、冴島が知っているはずのない情報だ。

 それなのに、陽奈梨のために、ぴったりのサイズの服が用意されている。


 雪花は陽奈梨の手を握り、励ます言葉を口にした。


「こわい思いさせてごめん。もう大丈夫だから、ベッドで休もう」


 陽奈梨は雪花を見つめ、静かに頷いた。

 ベッドのある部屋に足を踏み入れるのはためらわれたが、陽奈梨が手を離そうとしなかった。

 布団に潜り込む陽奈梨の隣で、床に座り込み、雪花はなるべく優しい声で呼びかけた。


「陽奈梨が眠るまで、隣にいるよ。それならこわくないでしょ」

「うん…………ありがとう、雪花くん……」

「鍵はオートロックだから自然に締まるはずだけど、不安だから一度だけ、ドアを閉めた後にドアが開かないか確認する。もし玄関の方から音がしたら、その音だと思っていいよ」


 とろんとした瞼の陽奈梨が、こくんと小さく頷く。

 あたたかい手が雪花の手を確かめるように、何度かきゅう、と優しく握りしめてくる。

 そのたびに雪花は小さな声で、ここにいるよ、と呼びかけた。


 すうすうと静かな寝息が聞こえてきたのは五分くらい後だろうか。

 陽奈梨が寝入ってからも、雪花はしばらく隣で見守っていた。

 叶うことならば、陽奈梨が幸せな夢を見られますように。


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