緊張の糸
よろける陽奈梨を支えながら、堺の出してくれた車に乗り込む。
そこでようやく雪花はカメラの存在を思い出した。
「わ! すみません、ヒナのことに必死で喋るの忘れてました。今、無事にヒナを車まで連れてくることができました! みなさん、知恵を貸してくれて本当にありがとうございました」
カメラに向かって雪花が頭を下げると、隣に座る陽奈梨がもぞもぞと動く。
堺が用意してくれていた毛布にくるまっているが、陽奈梨は雪花の方をじっと見つめている。
どうする? 一言、喋る? と雪花が訊ねると、陽奈梨は小さく頷いた。
「…………あの家に閉じ込められてた間、ずっとこわかったの。でも、ユキちゃんの動画を見せてもらって、たくさん……私を心配してくれるコメントを見て、励まされました」
「ヒナ…………」
「たぶん、ユキちゃんだけでも、私だけでも逃げられなかったと思うの。だからみなさん、心配してくれて、助けてくれて、ありがとうございます」
消耗しきっているのだろう。
陽奈梨が見せたのは、いつもよりも弱々しい笑顔だった。
太陽のような眩しい笑顔ではない。
でも、やわらかな光を思わせる、優しい笑顔だった。
コメントがたくさん書き込まれていくが、雪花は迷わず口を開く。
「ヒナを休ませたいので、今日はここで終わりたいと思います。コメント、全部後で読むからね。みなさん本当にありがとうございました!」
「ありがとうございました」
「ヒナが元気になったら、また動画をアップします。次もまたぜひ見にきてください!」
雪花の締めの言葉を最後に、動画配信を終わりにする。
隣に座る陽奈梨の頭が、とすん、と雪花の方に倒れてきた。
慌てて陽奈梨の顔を覗き込むと、真っ白な顔からは静かな寝息が聞こえてくる。
緊張の糸が解けたのかもしれない。
気を失うように眠りに落ちた陽奈梨を、起こしてしまうことがないよう、雪花は小声で運転席の堺に呼びかけた。
「堺さん、すみません」
「どうしたの、ユキちゃん」
「ヒナ、眠っちゃったので、なるべく揺れないようにしてもらえると嬉しいです」
「うん、了解。安全運転で帰るよ」
緩やかに走る車が、冴島のマンションから遠ざかっていく。
救助袋を使ったことで、周囲の家から何かあったのかもしれない、と勘繰られるかもしれないが、そんなことは雪花の知ったことではない。
冴島が再び接触してこないようにするため。
そして仮に同じようなことが起きたとしても、警察を頼れるようにするため。
当初の目的であった二重島から陽奈梨を守るため、という目的に加え、さらに急がなければいけない理由が増えた。
一刻も早く、陽奈梨の身の安全を確保しなければ。
陽奈梨の小さな寝息だけが響く車内で、雪花は次に取るべき行動を考えていた。
翌日になると、陽奈梨はソレイユプロダクションの社長である金丸と面談をすることになった。
冴島に攫われてから救出までの間、何があったのかを詳細に聞くためだ。
冴島の家で、陽奈梨の身に何が起きたのか。
それを聞くのは恐ろしかった。
暴力を振るわれていないか。
こわい思いをさせられなかったか。
辱めを受けていないか。
もしも陽奈梨の同意なしに、そういう行為を無理強いされていたら。
少し考えるだけでも、はらわたが煮えくり返りそうだった。
金丸は雪花が同席することを許さなかった。
女同士でないと話しにくいこともあるから、という理由だったので、雪花も納得して身を引いた。
何があったのか知りたい、という気持ちは確かにある。
しかしそれ以上に、陽奈梨が全てを打ち明け、相談できる環境を作ることの方が大事だと思うからだ。
雪花がいることで、陽奈梨が全てを話すことができず、一人で抱え込んでしまうようなことは、あってはならないのだ。
陽奈梨が金丸と話をしている間、雪花は所属タレント宛てのファンレターの仕分けを手伝っていた。
陽奈梨の救出に手を貸してもらう代わりに、雪花が裏方の仕事を手伝う、という約束を果たしている最中だ。
タレントの数が多いので、仕分けする量もたくさんある。
ファンレターは薄いものから少し重みのあるものまで様々だ。
しかしどんな手紙も共通して、愛情がこもっているのが伝わってきた。
仕分け作業に集中し、陽奈梨のことを考えないようにと必死だった。
そうしないと、最悪の事態を想定してしまい、気が狂いそうだったのだ。
「ユキちゃん……!」
陽奈梨の声が作業スペースに響いたのは、面談が始まって二時間ほど経過した頃だった。
ぱたぱたと足音を立てて駆け寄ってくる陽奈梨に、お疲れ様、と雪花は声をかける。
昨日まで冴島に監禁されていて、やっと救出されたと思えば今度は社長と面談だ。
すっかり疲れているに違いないのに、陽奈梨はやわらかく雪花に笑いかけた。
「社長がね、今日はもう帰っていいって。レッスンは明後日から再開だから、今日と明日はゆっくり寝なさいって言われちゃった」
「それはそうだよ。精神的にも体力的にもしんどいでしょ?」
「私、そんなに疲れた顔してる?」
困ったように眉を下げて、陽奈梨は自分の顔を確認するようにぺたぺたと手で触っている。
「疲れて見えないから心配なんだよ。ヒナはそういうの、うまく隠しちゃうから」
「そうかなぁ?」
よく分からない、という表情で陽奈梨が首を傾げる。
雪花は陽奈梨と話しながら、ひそかに安堵していた。
面談が始まる前、金丸がこっそりと雪花に伝えた言葉。
「必要なら、陽奈梨をすぐにでも病院に連れていくからね」
「どういう意味ですか? 陽奈梨が無理をしているなら、ってことだとしたら、まず間違いなく無理してますよ」
「メンタル面も心配だけど、…………たとえば冴島に性的な暴行を受けていた場合。緊急避妊薬、性病の検査、もろもろ必要になるから。その辺りは覚悟しておいて」
頭を金属バットで殴られたかのような衝撃だった。
冴島が陽奈梨を『女性』として見ている以上、そういう可能性があることは雪花も分かっているつもりだった。
しかし、金丸にはっきりと言葉にされると、息ができなくなるほどに胸が苦しくなった。
このまま病院に行かないということは、つまり陽奈梨は『そういう意味』では無事だったのだろう。
安堵で崩れ落ちそうになるのをなんとか堪えて、雪花は陽奈梨に笑いかける。
「送ってもらうんでしょ? ちゃんと家の鍵かけて、窓も全部閉めてね。家に帰ったら連絡して」
「えっ、ユキちゃんは帰らないの? まだお手伝いしていく?」
雪花は裏方の作業を手伝うと言ってしまった手前、帰るわけにはいかない。
しかし陽奈梨が不安そうな表情を浮かべ、雪花と社長を交互に見つめると、折れたのは金丸の方だった。
「はあ…………。いいよ、雪花も一緒に帰ってあげな」
「いいんですか?」
「私は金の卵には弱いのよ」
その言葉の意味が分からず、雪花と陽奈梨は顔を見合わせて首を傾げた。
一緒に仕分けをしていたスタッフが、くすくす笑いながら教えてくれる。
「ヒナちゃんとユキちゃんなら売れる、って社長は確信してるのよ」
陽奈梨が目をまたたかせ、それから嬉しそうに微笑んだ。
「迷惑かけちゃった分、一生懸命頑張りますね!」
「そうね。でもまずは休むこと。分かった?」
金丸の言葉に陽奈梨は大きく頷き、二人は先に帰らせてもらうことにした。