震える身体
事務所を出ても陽奈梨と電話を続けるため、マネージャーである堺のスマートフォンを借りた。
冴島の自宅に着信履歴として電話番号が残ってしまうため、雪花のスマートフォンは使わない方がいい、と言われたのだ。
配信用のカメラと、視聴者からのコメントを見るためのタブレット、そして陽奈梨と電話の繋がったスマートフォン。
電子機器をたくさん装備し、雪花は堺の運転する車で、陽奈梨のいる住所へ向かっていた。
目黒区に一番近いところにいた事務所のスタッフは、すでに陽奈梨がいるマンションの前にいるらしい。
雪花は電話越しに「ベランダに出て、外に手を振ってみて」と陽奈梨に指示を出した。
そこでようやく、スタッフが陽奈梨の姿を遠目に確認する。
マンションの下から順番に数えていき、陽奈梨がいるのは七階だという情報が得られた。
「マンションの七階って……高いよね? 飛び降りたのをキャッチ…………無理かな、さすがに」
分かりきったことだが、考えを整理するために呟いたひとりごとに、たくさんのコメントが寄せられる。
それやったらヒナもユキもどっちも死ぬよ!?
三階くらいならギリいけるかもだけど七階は無理。
住所分かってるならレスキュー呼ぶとか?
非常階段から降りる、って思ったけどそもそも玄関を出られないんだった。
小さな川って目黒川か!
警察は無理でも消防なら頼れない?
七階は厳しいなぁ。でもあとちょっと。頑張れ、ユキとヒナ!
火事とかじゃないから呼べないのでは? しかも警察沙汰にできないわけだし。
オレンジ色のコメントを見つめながら、そうだよね、と雪花は呟く。
陽奈梨が怪我をしたり、万が一にでも命を落とすようなことがあってはいけない。
雪花が悩んでいると、運転をしてくれているマネージャーの堺に声をかけられた。
「ユキちゃん、着いたよ。あのマンションだ」
堺が指をさした方向にある大きなマンション。
さすがにライブ配信で冴島のマンションを映すわけにはいかないので、雪花はカメラは向けずに目視で確認する。
下から七つを数えなくてもすぐに分かった。
ベランダに見える人影。
遠目なのではっきりと顔は見えない。
それでも雪花には、人影が陽奈梨だと確信を持って言うことができた。
「ヒナ! 着いたよ。こっちから見えてる」
『ユキちゃん……!』
「大丈夫、あとちょっとだから!」
雪花の言葉に、陽奈梨が頷いた。
マンションまで辿り着いてから、十分が経過しようとしている。
陽奈梨が冴島の自宅からどうやって抜け出すか。
策がないまま、時間ばかりが過ぎていた。
コメント欄では、視聴者が今も案を出し続けてくれている。
目黒川が見えるなら飛び込むとか。ワンチャンない?
せっかく近くまで来たのに……。
落下予想地点にトランポリンを用意する。
だから飛び降りるのは危険過ぎると何度言えば分かるんだ。
役員会議って何時までなんだろう。犯人が帰ってきそうでひやひやする。
ふと思ったんだけど、ベランダに避難器具あったりしない? その部屋か、隣の部屋か。
隣の家をピンポンしてベランダから隣の家に移って玄関から出る!
すぐそこにいるのに助けられないのもどかしすぎる。
避難グッズあるんじゃない!? ハシゴとか!
七階だったら滑り台とか救助袋かも。探してみて!
避難器具。その単語に、雪花の心が騒いだ。
慌ててコメントを読み上げると、陽奈梨がこれかな、と小さく呟く。
『ベランダに大きい箱? があるよ。救助袋って書いてあるけど……これ、誰かを助けるものでしょ? 私も使えるの?』
「救助袋があるって! 待って、すぐに調べるから!」
雪花が陽奈梨からの情報を繰り返す。
視聴者が雪花よりも早く救助袋の使い方を調べてくれて、コメント欄に書き込まれた。
「ヒナ、外の箱みたいなやつを取り外せる?」
『ん、っしょ、! 外れたよ!』
「よかった。そしたら、袋を下に降ろして。重たいかもしれないから気をつけてね」
『分かった。ちょっと一回電話置くね』
ことん、という電話を置く音。
しばらく緊張しながらベランダを眺めていると、ベランダから白い何かが降りてくる。
救助袋らしきそれは、まっすぐ下まで降りてきた。
雪花もコメントで教えてもらったことだが、下で設置が必要な型のものと、袋を降ろすだけで降りることができるものがあるらしい。
設置が必要であればすぐにでも動けるように、雪花はベランダの真下で待っていた。
「設置は……必要ないのかな。堺さん、この袋映してもらえますか?」
カメラを持っている堺に頼み、配信画面に袋の出口を映し出す。
すると、コメント欄を使って親切な視聴者が教えてくれた。
必要ないやつだ!
そのまま降りて大丈夫だよ。
避難訓練で使ったことあるけど、意外と緩やかに降りていくからこわくないよ。
そのタイプはたぶん下で設置しなくて大丈夫だと思う。
こわいかもしれないけどヒナ頑張れ!
役員会議が終わりました。あの人が帰ります。急いでください。
救助袋なんて使ったことないよ……高所恐怖症には絶対無理……。
おいおいおい今やばいコメントあったぞ。ユキちゃんに伝えて!
ユキ!! 犯人帰ってくるよ!
ヒナちゃん思い切って飛び込んで!
喉が大きく鳴った。
冴島が、帰ってくる。
千代田区にある会社から、自宅のある目黒区まではどのくらいで辿り着くのだろう。
本島には自動車や電車などたくさんの移動手段があるらしいので、到着予想時間は分からない。
それでも急がなければいけないことは確かだった。
『ユキちゃん、これってちゃんと一番下まで降りてるの?』
「下まで降りてるよ。大丈夫。救助袋を実際に使ったことある人が教えてくれたんだけど、結構緩やかに降りられるんだって。安心して降りてきて、ヒナ」
ユキ!? ヒナに急いでって伝えないと!
のんびりしてたら犯人帰ってきちゃうよー!
待ってこわい。俺が降りるわけじゃないのにこわい。
ユキちゃん優しいな。ヒナちゃんが焦らないように、わざと伝えてないんでしょこれ。
ヒナに語りかけるときのユキの声の優しさがやばい。尊い。
「電話を置いて、降りてこられる? ヒナ」
『う、うん……。やってみる!』
「下で待ってるから」
上を見上げて、陽奈梨に呼びかける。
救助袋の横から、ひょこ、と陽奈梨が顔を出す。
遠くて表情は見えないけれど、どうやら雪花の姿を確認したらしかった。
電話、切るね。という言葉と共に、通話が終わる。
スマートフォンを堺に返し、雪花は祈るような気持ちで見守っていた。
陽奈梨に何かあったら、と思うといてもたってもいられなくて、雪花は瞬きも忘れてじっと見つめていた。
どうしようもなく、長い時間に思えた。
カメラが回っていることも忘れ、生配信だというのに無言の時間が続く。
でもマネージャーの堺も、視聴者も、誰も雪花を責めたりしなかった。
この状況を見ている誰もが、陽奈梨の安全を祈り、固唾を飲んで見守っていた。
陽奈梨は少しずつ救助袋の中を降下していき、ついに脱出口まで辿り着いた。
一呼吸置いて出口を開くと、大きな目に涙をためた陽奈梨が、雪花を見上げていた。
赤い唇が何か言葉を紡ぐよりも先に、雪花は陽奈梨を抱きしめていた。
「ごめん、こわい思いさせて、ごめんな……っ」
これはユキとしてではなく、雪花の言葉だった。
細い肩が震えていて、陽奈梨がどれだけこわかったのか、雪花にも伝わってくる。
それでも陽奈梨は、雪花を責めたりしなかった。
泣きそうな、それでいてやわらかい声でありがとう、と呟いた。
世界一大切な女の子が、雪花の背に手を回す。
震える身体は、壊れてしまいそうなほど、細く感じた。