冴島の提案
冴島菊人の勤めている会社はとても大きかった。
入り口の扉を入ると、美人な女性が二人立っていて、用件を訊いてくる。
陽奈梨がハキハキとした口調で答えた。
「すみません。この会社に、冴島菊人さんという方がいらっしゃると思うんですけど、お会いすることってできませんか」
女性は慣れた様子でメモを取り、アポイントの有無を訊ねた。
アポイントというのは、会うための事前の約束みたいなものだ、と八雲が言っていた。
これがなければ大抵の場合は会うこともなく、弾かれてしまうらしい。
「約束はしてないんですけど、俺たちの名前だけでも伝えてもらえませんか」
雪花の声を聞いて、女性は一瞬驚いたような表情を浮かべた。
しかしすぐにその表情はリセットされ、元の華やかな笑顔に戻る。
第一印象で雪花のことを女だと思っていて、声と言葉遣いで男だと気づいたのかもしれない。
二重島にいるときは、女顔だと揶揄われることはあっても、勘違いされることはなかった。
島民全員が顔見知りだからだ。
雪花がなるべく気にしないように自分に言い聞かせていると、陽奈梨が再び口を開く。
「ニエジマの、陽奈梨です。冴島さんは父の知り合いなので、父の『良貴』という名前も一緒に伝えて欲しいんですけど」
ニエジマヒナリ様ですね、と女性が復唱したが、陽奈梨は訂正しなかった。
二重島で生まれ育った者たちには、苗字がない。
本島に出るときなど、苗字が必要になる場合は、『二重』か『二重島』を名乗ることが多いのだ。
「かしこまりました。冴島に確認を取りますのでおかけになって少々お待ちくださいませ」
案内されたソファーはふかふかで、座り心地がいい。
陽奈梨は物珍しそうに辺りを見回している。
机も椅子も、島で使っていたものとは素材から違うようだったので、身の回りのものが気になる陽奈梨の気持ちも、雪花には分かる気がした。
しばらく待っていると、最初に対応してくれた女性がやってきて、お待たせいたしました、と丁寧に声をかけてくれる。
「冴島もぜひお二人にお会いしたいそうです」
「本当ですか!?」
陽奈梨が嬉しそうな顔で立ち上がる。
冴島が協力してくれるかどうかはまた別の話だが、会って話を聞いてくれるだけでも、一歩前進と言えるだろう。
一時間ほど待てば、今日でも少し時間を作ってくれると言われた。
明日以降の予定も簡単に教えてもらったが、陽奈梨は迷わずに「待たせてください」と答えた。
女性はかしこまりましたと答え、雪花と陽奈梨を別室に案内してくれる。
応接室という札が書かれた個室で、紅茶とお茶菓子まで出してもらった。
「すごいねぇ。お客様に紅茶を出すっていう発想がおしゃれだもん」
「島だと緑茶だよな」
「それにお茶菓子がケーキだよ! これが噂に聞くケーキかぁ……!」
お茶菓子にケーキを出してもらったのだが、差し出された一覧に載っているケーキの種類も豊富だった。
いちごのショートケーキ、チョコレートのケーキ、チーズケーキ、フルーツタルト、モンブラン。
写真に映るケーキはどれもおいしそうで、陽奈梨の目がきらきらと輝いた。
なかなか一つには選べなそうだったので、「俺の分も選んでいいよ、半分こしよう」と雪花が言うと、「雪花くん大好き!」と贅沢すぎる返しをもらってしまった。
半分どころか、丸ごとあげよう、と雪花は心の中で呟いた。
二重島への物資は船で運ばれてくるため、生菓子などの保管の難しいものは届けられないのだ。
ケーキというお菓子があることは知っていたが、実物を見るのは初めてだった。
陽奈梨が選んだのは、女性がおすすめしてくれたいちごのショートケーキとフルーツタルト。
応接室に紅茶とケーキを運んできてくれた女性が退室すると、陽奈梨がはしゃいだ声をあげる。
「わあー! すごいすごい! 雪花くん、半分こね!」
「食べられるなら陽奈梨が二つとも食べちゃっていいよ」
「えっダメだよ! 一緒においしいねって共有したいもん」
ぷく、と頰を膨らませる陽奈梨がかわいくて、雪花は思わず頭を抱えてしまった。
「…………じゃあどっちも一口ずつ食べる」
雪花の言葉に、陽奈梨が嬉しそうに笑った。
冴島菊人は、初老と呼べるくらいの年の男だった。
顔には皺が刻まれているが、髪には白髪一つなく若々しい。
服装にも清潔感があり、外見から得られる情報としてはかなり好印象だった。
「初めまして。冴島菊人です。二人とも良貴さんのお子さんなのかい?」
「あ、俺は違います。こっちの陽奈梨が良貴さんの娘で、俺は幼馴染です」
「君の名前は?」
「…………雪花です」
冴島は頷きながら陽奈梨と雪花の名前を呼び、会いに来てくれてありがとう、と言ってくれた。
それから陽奈梨のことをまじまじと見つめ、目に涙を浮かべる。
「陽奈梨ちゃん。君はお母さんに似ているね……そっくりだ」
「そう、なんですか……? 私は両親に会ったことがなくて……」
「会ったことがない?」
冴島は驚いたように目を見開き、雪花たちに説明を求めた。
陽奈梨の両親に協力していただけあって、冴島は二重島について多少の知識を持っている。
しかし、陽奈梨の両親が島に連れ戻された後のことは知るはずもない。
陽奈梨本人に説明をさせるのは酷なので、雪花の口から語った。
二重島に連れ戻された陽奈梨の母は、島姫として殺され、山に埋められてしまったこと。
逃亡を助けた陽奈梨の父は、罰として嫁と娘、そして自由を奪われ、今も島に監禁されていること。
そして新たに陽奈梨が島姫として選ばれ、雪花と二人で島を逃げ出してきたこと。
冴島は眉を寄せて雪花の話を聞いていて、話が終わると悲しそうな声で呟いた。
「そうか……突然いなくなってしまったから心配していたんだが……そんなことになっていたとは」
辛かったね、と冴島は陽奈梨に呼びかける。
陽奈梨は眉を下げて笑い、ありがとうございます、と答えた。
「良貴さんと響さんの子どもだ。私の出来る限り、力を貸そう」
「本当ですか!? ありがとうございます……!」
響、というのは陽奈梨の母の名前だ。
いくら陽奈梨の親の知り合いとはいえ、こんなにもすんなり話が進むとは思っていなくて、雪花は安堵のため息をこぼした。
そのときだった。
冴島の口から信じられない言葉が紡がれた。
「陽奈梨ちゃん。君は私の妻になりなさい」
「…………えっ」
「本当は響さんを嫁に迎え入れたかったんだが、あの頃の私にはそこまでの力がなくてね」
雪花の背中に、ぞわりと悪寒が走った。