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痛いの痛いの飛んでけ

作者: 安達ちなお

 最初は、5歳の夏だった。


 保育園の庭を走っていると、真夏の暑さで足がもつれて転んだ。

 じくじくと痛む膝には、砂と血がにじんでいた。


 あんまり痛くて泣きそうになったが、私にかまけてくれる大人は見つけられなかった。


 お母さんがしてくれたことを思い出した。真似をして、傷を手のひらで押さえながら「いたいの、いたいの、とんでけ」と言ってみた。


 手を離すと、擦り傷が跡形も無く消えていた。


 先生に話したら、「そう、すごいね」と言うだけだった。お母さんもお父さんも、「一人で痛いの痛いの飛んでけ、できたんだ」と褒めてくれたけど、信じてはくれなかった。


 誰に話しても信じてもらえなかった。


 それからしばらくは、怪我をするたびに一人で「いたいの、いたいの、とんでけ」を試していた。

 上手くいくときもあったけど、大抵は何も起こらなかった。


 あんまり成功しないから、そのうちにやらなくなっていき、小学校を卒業するころには、すっかり忘れていた。


 思い出したのは、結婚をして子どもが出来てからだ。


 上の娘が3歳のとき。ソファから落っこちておでこをしたたか打った。

 痛みと驚きだろう。いくらあやしても泣き止まなかった。


 それだから何の気なしに娘の額を撫でながら、「いたいの、いたいの、とんでけ」と言ってみた。

 するとぴたりと泣き止んだ。


 目元に涙が滲んでいなければ、泣いていなかったんじゃないかと錯覚するくらいだ。


 そして台所から「いてっ」と聞こえてきた。

 夕食の準備をしている夫が指でも切ったかなと覗いてみると、額をさすっていた。


 「なんか、急に痛くなったんだよ」と言う夫のおでこは、さっきの娘と同じように、わずかに赤くなっていた。


 もしかして、飛んでいった「いたいの」が夫のおでこに移ったのだろうか。

 もしかして、今までも「いたいの」を誰かに押し付けてしまっていたのだろうか。


 そんな考えが頭をよぎりもしたが、まさかね、と心中で呟いて、そのときは終わった。


 それから3年が経ち、下の子が産まれて1歳を迎えようという頃になった。

 上の娘にねだられたので、昼寝中の下の子を夫に預けてアパートの近くを散歩することになった。


 8月の昼過ぎは暑い。

 日曜だというのに住宅街に人影は少なかった。


 だからかも知れない。少しぼうっと歩いてしまった。

 ふと気づくと、娘が歩道の縁石の上を歩いていた。


「危ないよ、降りよう」

「やだ」


 ときどき出る娘のあまのじゃくに、暑さのせいか妙にいらいらする。

 腕を掴んで引っぱると、思いのほか強く抵抗された。


「いいから、降りなさい」

「やぁだぁ」

「じゃあ、ずっとそうしてなさい」


 娘を残して、さっさと歩きだす。

 すると後ろから「まってぇ」と娘が泣きべそをかきながら追いかけてくる。ほら、結局そうなるんだから最初から言う事を聞いてくれればいいのに。

 溜飲が下がると、優しさが戻ってくる。


「ほら、おいで。帰るよ」


 手をつなごうと振り返ると、ちょうど娘が転ぶところだった。

 地面には、ちょうど缶詰の空き缶が落ちていた。錆びた切り口が見えた。

 そこへ、顔から倒れ込む。


「あぶない!」


 抱きあげた娘の顔は、右目が真っ赤に染まっていた。

 びっくりするくらいさらさらと血が流れていく。


 娘の激しい鳴き声が耳を打つと、どっと後悔が襲ってきた。目を離さなければよかった。手をつないでおけばよかった。なんであんなに、いらいらしてしまったんだろう。

 傷口を手で押さえながら、思わずつぶやいていた。


「いたいの、いたいの、とんでけ」


 びっくりするくらいあっさりと、怪我が消えていた。

 手のひらには血の一滴すら付いていない。


 娘は目をぱちくりとさせている。目元には傷跡すらない。

 夢か幻でも見たのだろうかと思えてしまう。


 すっかり大人しくなった娘の手を引いて、家路に着く。

 歩きながら、胸の中に不安が広がる。


 もしあの怪我を「とんでけ」したのであれば、誰かに押し付けてしまったのではないだろうか。見ず知らずの誰かが、どこかで痛い思いをしているのかもしれない。

 そう思うと、心臓が痛くなる。


 そんなはずはない。きっと大丈夫。

 そう自分に言い聞かせる。


 家の前に着くと、下の子の泣き声が聞こえてきた。

 お昼寝から起きて、お母さんがいないと不満をぶつけているのかもしれない。


 最初はそう思ったのだけれど、泣き声が尋常ではなかった。喉が破れんばかりの勢いで泣いている。


「すごく泣いてるね。どうしたんだろ」


 娘のつぶやきが、怖かった。


「大丈夫よ、きっと」


 口ではそう言いながらも、私は家に向かって走っていた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 痛いの痛いの~ ついつい誰でもやってしまう行為なだけに、こんな力がもし自分にあったら、もしくは周りの誰かにあったらと思うと、「ひぇっ」っとなります。 身近にありえそうなホラーをありがとうご…
[良い点] ラストが怖かったです……!((( ;゜Д゜))) ハイクオリティですね。 印象的な作品をありがとうございました。
[良い点] めっちゃ切なく、恐いお話でした!
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