夜闇
「……マリー?」
みすぼらしい黒衣の男は淀んだ瞳でルナを見つめた。
身の危険を感じハルキが一歩前に出る。
敵意は感じられない。むしろ感情があるのか疑問に思うほど虚ろだった。
その姿に廃人という言葉が頭に浮かぶ。
数秒の緊張。先にそれを破ったのはルナだった。
あろうことか自ら男に歩み寄ったのである。
膝をつきじっと目を合わせると、全身を観察する。
身長はルナやハルキの倍近い。灰色の髪と眼鏡が印象的であった。
一目で栄養失調だとわかるほど痩せているものの目立った外傷はない。
そのことを確認しほっと一息つく次の瞬間、男がルナに飛び掛かるように抱きついた。
それを見るや否やハルキは瞬時に拳を固め間合いを詰める。
「ハルキ、待って!」
「本気⁉︎」
「……この人、少し様子がおかしいよ」
男はルナの胸に顔を埋め表情は読み取れない。しかし背に回す両手は酷く震えており、害意はありそうにない。
「マリー……マリー……」
うわ言のように同じ単語を呟く姿は精神病患者を想起させた。
この状態ではまともに生活することは難しい。食事も碌に取れていないだろう。
不憫というしかない。このままでは野垂れ死ぬだろう。
しかし、それはこの男の問題だとハルキは思う。少なくとも子供であるハルキ達がどうにかすることではない。
ハルキは男の腕を引き剥がすと、いくつかの食べ物をその場に置きルナの手を引いた。
「可哀そうだけど、俺たちにできることはないんだ」
「でも、このままじゃいつか死んじゃうよ。そんなの絶対ダメ。辛いよ。助けなきゃ」
「気持ちはわかる。でも、助けるのは難しいことなんだ。この人は心が壊れてしまってる。その傷が癒えるには長い時間が必要なんだ。その間彼を支えることはできないよ」
せめて支援制度があればできることもあるかもしれないが、この国はそこまで発展していない。
厳しいことだが、食事を分けるくらいしかできることはないのだ。
世界を見てきたハルキは、向こうでも同じような人間を見てきた。
生きることすら難しい人間は多い。それらを助けるには膨大な金銭と人材、資源が必要となる。
幼い旅人二人にできることではない。
故にハルキは見捨てるという正解を導き出した。
「マリー」
淀んだ瞳がルナを見上げる。弱弱しく手を伸ばす。
その姿を隠すようルナの前に立ち、ハルキは元来た道に戻るよう促す。
「ルナ。これは俺のわがままだけど、聞いてほしい。まずは宿を取ろう。そしてどうするか一緒に考えよう」
「ごめんなさい。私は――」
「ガキがこんな時間に何してやがる。さっさと家に帰んな」
口論になりかけたその時、路地のさらに奥から酒瓶を持つ一人の男が現れた。
明らかに浮浪者だが、目の前の男と比べると幾分か身なりがしっかりしている。
「お騒がせしてすみません。すぐに帰りますので」
ハルキはそういってルナの手を取る。しかし彼女の意思は固いようで、申し訳なさそうながらも動こうとしない。その姿を見て何があったのか察したのだろう。浮浪者は不機嫌そうに鼻を鳴らしルナを睨む。
「金も力もないくせに、慈愛だけはいっちょ前か。そういう人間はここにもごまんといるよ。皆最後は見捨てるがな。兄ちゃんの話を聞いた方が賢明だぞ」
「それでも、助けなきゃ」
「なら俺も助けてもらおうか。俺だって生活に困ってる。いや、このあたりの連中は皆そうさ。働きもしないこいつなんかよりよっぽど価値がある。そいつらも助けてくれるのかい?」
「…………」
ルナは口をつぐんでしまう。皆を助けることはおろか、一食ずつ分けることすら厳しい。
瞳は潤み決壊寸前だった。
ハルキとてルナの気持ちは理解はできる。ルナもまたハルキや浮浪者の考えが現実的だとわかっていた。しかし、優しすぎる彼女は見捨てるという選択肢を選ぶことはできなかった。
このままでは議論は平行線。最悪暴力沙汰に発展したり、ルナが泣き出す可能性があった。
ハルキは内心溜息をつきながら、妥協案もとい先送りを提案する。
「じゃあルナ、こうしよう。この人を一晩宿に泊めてどうするか一緒に考えよう。そしてそこのおじさん、この食べ物はおじさんにあげる。とりあえずこのあたりでどうです? これ以上の口論は意味がないかと」
「……」
「……ガキから施しうけるほど俺は落ちぶれちゃいねぇよ」
男は食事を受け取ることなく路地裏へと消える。ルナはどこか悔しそうに男へと駆け寄り体を支えた。
二人の姿を見ながらハルキは思う。花言葉なんてあてにならないな、と
宿探しには苦労した。
原因は黒衣の男にあった。
この男、フィーニスではちょっとした有名人らしい。
それを語るには、フィーニスで起きたとある事件について説明せねばならない。
今から十数年前、この街は魔物の大群に襲われた。
その被害は甚大で、数千に届く人間が死に、責任を問われ当時の領主は処刑されたほどである。
その日から男はフィーニスを彷徨っていたらしい。
棺桶を引きずり誰かの名をうわ言のように呟く姿は幽鬼その者であったという。
当時こそ皆から同情され助けられてきたものの、心が癒えることはなく、街の住民から見捨てられて今に至るようだった。
多くの住民はかつて見捨てた負い目があり、彼の顔など二度と見たくなかったのである。
とはいえそれは地元住民の話。ごく少数の新参者の宿屋には関係なかった。
運よくそういう場所を見つけられた三人は、何とか屋根と寝床を確保できた。
ハルキは運んだ棺桶を丁寧に床に置いた。人一人分の重さはあると踏んでいたが、少年一人でも運べるほど軽かった。それに腐臭もしない。てっきりマリーという人物が眠っていると思っていたが違うようだ。
ほっと一息つくと男を見る。
ルナの差し出す匙を口に含む。男は彼女の呼びかけにのみ反応し、辛うじて食事を取れていた。
食事を終えると安心したのかうつらうつらし始め、そのまま寝てしまう。そんな男をベッドに運ぶと、ようやく今後について話合う時間ができた。
先に切り出したのはルナだった。深々と頭を下げる。
「わがまま言ってごめんなさい。ハルキに迷惑かけたよね」
「いや、君は人として正しい判断をしたよ。謝るようなことじゃない」
「でも」
「この話はここでお終い。それよりも、これからについて話し合わなきゃ」
この男をどうするか。二人で悩ましそうに男を見つめた。
男の黒衣。円の中に三角というマークが特徴的なそれは、彼がノーティス教の関係者であることを示していた。
この世界に来て日が浅いハルキでも知っているほど強大な宗教である。
宗教国家コーペランテを総本山とする弱者救済を目的に活動する集団。時には大国間の戦争にすら介入し和平させてしまえるほどの圧倒的な力を持つ。
そんな存在があるのならそっちに男を任せればよいのだが、生憎彼らは基本的に世界中を旅しているため助けを求めるのは難しい。
故に話し合いは今後男にどう生活してもらうかが焦点となった。
最初にルナが案を出す。
「まず働いてもらう必要があるよね。どうにか仕事を斡旋できないかな」
「この状態で働くのは厳しいと思う。治療が先だね。でも、この世界って心を癒す仕事ってないよね?」
「傷を治す治癒師ならいるんだけど……」
精神疾患という概念すらないこの世界に精神科医やカウンセラーなど存在しない。
大抵の患者は餓死、裕福な家庭なら座敷牢に監禁といった結末を辿る。
治療や支援は困難で時間もかかる。
しかし、ハルキには見捨てるという選択肢はなかった。
一度助けた人物を簡単に見捨てられるほどハルキも非人間ではない。
とはいえ何度も言うように子供にできることなどたかが知れている。
だから、少々人には言えない手を使うことにした。
「無理やりだけど、俺がどうにかするよ。だからルナは心配しないで」
「何かいい案があるの?」
「うん。正直あまり使いたくない手だけど」
いつかはする予定だったのだ。情報不足なのが不安要素だが、いつ行うにしても多少はリスクを負う必要があるだろう。もちろんリスクは極力減らすつもりだが。
「その代わり、一つ約束して。今後この人に近づかないでほしい。絶対に」
「……理由はよくわからないけど、それでこの人が助かるのなら、約束する」
「ありがとう。じゃあ、今日はもう寝ようか」
明かりを消すと二人はベッドに入る。
ちなみに余談ではあるが、この世界において子供は大人の半人前という扱いを受ける。
そのためか、ベッド一つに対し子供二人が利用できるよう設計されている。
故に二人は同じベッドで寝ることとなった。
ルナはすぐに寝てしまったが、ハルキは不思議と中々寝付けなかった。