千花街
フィーニスは、ルナが暮らしていた街から一つ山を越え、さらに丘陵地帯を超えた先にある街である。
別名 千花街とも呼ばれ、色とりどりの花々と養蜂で有名な観光名所であった。
日が落ちるのを眺めつつ、ハルキ達は行商人の馬車に乗せてもらっていた。
フィーニスの入口はもう目前である。
「あ、ファーラだ」
「ファーラ?」
「あの光ってる花の名前だよ」
ルナの視線を辿ると、そこには丘に咲く花々に交じり仄かな光を灯す不思議な花があった。
日が沈みかけ暗くなるにつれその姿は鮮明に浮き上がる。
「ほう。ルナちゃんは物知りだね。まさしくあれはファーラの花さ。本来ならネムル周辺で咲く花なんだが、誰かが種を持ち込んで自生し始めたんだよ」
好々爺然とした行商人が解説する。
彼はルナの知人であり、たまたまフィーニスに寄るということで運んでもらうよう依頼したのである。
老人は話し出すと後が長いというのはこの世界でも同じらしい。門につくまでの間、ここの花々について語る。
ハルキが絶妙に相槌を打ちつつ話を聞いていると、一つ気になる単語が飛び出てきた。
「お前さん、ファーラの花言葉を知っているかね?」
「花言葉? そんなものがあるんですか?」
「最近の子は知らないんだね。なら教えてやろう。ファーラの花言葉は、『貴方の未来に祝福を』。お前さんたちの旅を祝福しているようで縁起がいいねと思ったのさ」
「なるほど。確かに縁起がいい。きっといい旅になるでしょうね」
「そうなるようワシも願っとるよ」
そのやり取りを最後に、三人はフィーニスへと入る。
行商人は荷を下ろすためどこかへ行ってしまい、二人は出入口に降り立った。
「流石フィーニスだね! 花がたくさん! 屋台もあるよ!」
千花街と呼ばれるだけあり、どこを見ても花が目に入る。その中には先ほどのファーラの花もあった。
屋台も充実しており、未知の香りが空腹を刺激する。
ルナに手を引かれ、ハルキは屋台通りに繰り出した。
蜜漬の果実や飴で固めた花といったフィーニスの特色を生かした食べ物や、ハチノコといったゲテモノ寄りなものまで様々な品が並ぶ。そんな品々をハルキはそれぞれ少しずつ、ルナは気に入ったものをたくさん買い込み、近くのベンチに腰を下ろす。
「花飴はハルキのだったよね」
ルナは鞄の中から飴で固めた花を一輪取り出す。
この鞄は、ゲームでいうところのアイテムボックスという概念と似ている。見た目以上に容積があり、物資の重量を無視できるという物理学に喧嘩を売っているような代物なのだ。なんでも今回旅をするにあたりソフィアからプレゼントされたものだという。貴重な品なようで、丁寧に扱うよう言われている。
美味しいね、と感想を言い合いながら二人は喧噪に浸る。
屋台通りを行き交うのはほとんど観光客らしい。人種――いわゆる人間――のほか、獣人種や妖精種もおり、みな目を輝かせ屋台や花々を楽しんでいた。
どこからともなく聞こえる音色は笛の類だろうか。軽やかでエキゾチックなリズムはなんだか癖になる。
そんな雰囲気に当てられたのか、ルナが音色に合わせ鼻歌を口ずさむ。
真冬の夜空のように澄んだ、しかし情緒を揺さぶる熱を持つ歌声にハルキは自然と耳を傾けた。
決して上手いわけではない。それだというのに何故こうも魅力的なのか。
きっと彼女は胸の内を、感じたものを思うままに奏でるのだ。彼女が感じた世界が美しいから、こうも魅かれるのだと、ハルキは思った。
気付けば周囲の喧噪は増し、道行く人は足を止め彼女の歌声に聞き惚れる。鼻歌に合わせ踊りだす者もいた。
一曲を歌い終えた後、心深くに沈んだルナの意識を万雷の拍手が迎えた。
「え、え? どうしたの?」
「みんなルナの歌声に感動したんだって」
状況が飲み込めないのか困惑気味のルナ。
ハルキの解説で状況を理解すると顔を真っ赤にしながら一礼し、そそくさとその場を去った。
とにかく人目から逃げたいようで、屋台通りからぐんぐん離れていく。
「歌声を聞かれるのは嫌だった?」
「そうじゃないの。ただびっくりしただけ。……それに上手くないし」
「でも、綺麗だった」
ハルキの素直な感想にルナの頬はさらに熱を帯びた。
屋台通りの喧噪がかすかに聞こえる程度には大きく離れ、二人は人気のない道に出た。
すでに夜ということもあり視界は悪い。ハルキはルナに悟らせないよう周囲に気を張り巡らせた。
いかに観光地といえど日本ほど安全ではないだろう。こういう暗がりならなおさらである。
案の定、建物の物陰や裏路地には潜むような気配がある。
彼らがただの浮浪者か犯罪者かは知らないが、ここはあまり治安のいい場所ではないらしい。
それに気づいていないのか、ルナは足を止め一息つく。
「落ち着いた?」
「うん。急にごめんね」
「こっちは色々見れて楽しかったよ。気にしないで」
この場に長居してもいいことはない。ハルキはそろそろ宿を取ろうと提案し、安全な場所へ誘導しようとする。
ひらり、と。
まるで月が溶け出したような光が目の前をよぎった。
それはファーラの花びらであった。どこからか風に乗ってここまで来たのだろう。
それを気にすることもなく来た道を戻ろうとする二人。
その背後から声が聞こえた。まるで生気を感じさせない、低く掠れた男の声であった。
「……マリー?」
振り向くと、そこには一人の男がいた。
警戒していたというのに、ハルキですら気づけなかったほど生物としての気配がなかった。
みすぼらしい黒衣を纏い、棺桶を抱える男。
まるで夜のような闇がそこにはあった。
まったくもって忌々しい――と口に出さなかったのは、目の前の男に首輪をされているからに他ならない。
フィーニスを治める領主、スースは月光すら届かない部屋でその醜い顔を歪ませた。
目の前の小綺麗な黒衣を纏う優男を消せるなら、それだけで楽になれるというのに。
心底不快そうにスースは口を開いた。
「密偵から連絡が入った。今夜、白髪白肌の女子が町に入ったらしい。おそらく貴様が探していた『天使』というやつなのだろう」
「嬉しいしらせだね。でも、それは直接見てみなきゃ分からない。だからさ、その子をこの城に招いてよ」
「貴様が直接見に行けばいいだろう」
「生憎僕の容姿はノーティス教に割れてるからね。気づかれれば計画はご破算だ。そうなれば君だってただじゃ済まない。いや、済ませない」
優男はノーティス教というこの世界最大の宗教に追われる身であった。
そんな男を領地内に入れていたと知られれば、ほぼ確実に首が飛ぶ。
最初からこうなることを知っていたなら、決してこの男には近づかなかったというのに。
後悔先に立たず。不愉快だが過去は変えられない。だからこそ、この男の指示に従わなくてはいけなかった。
優男はそれだけ言い残すと夜闇に溶けるように姿を消す。
スースは昔より質の良くなった蜂蜜酒であらゆる不愉快を飲み込んだ。