旅立
雲を超える高度。当然酸素は薄く、凍えるように寒い。
それだというのにルナは何一つ問題ないと言わんばかりに笑顔を向けていた。
こうしてみると本当に彼女は人間ではないのだと感じさせる。
「そろそろだよ」
目を凝らしてみると、夜空に走る亀裂が見える。
ソフィア曰く「穿孔」と呼ばれるその向こうにハルキの暮らす世界がある。
向こうで何が起きているのかは想像に難くないので、予め用意したハンカチで顔を覆う。
ルナはそれを不思議そうに眺めるが、何も問いかけることはなかった。
ルナとともに穿孔を抜ける。
その先に広がっていたのはさびれた公園。そこを埋め尽くすのは人、人、人。
皆統一された制服を着ており、草の根をかき分けるように何かを探していた。
警察ではない。しかしハルキにとっては見慣れた組織だった。
突然現れる少年少女に驚愕の目が向けられる。
ちらりと後ろを覗くと奇妙なことに、こちらからは穿孔や亀裂といったものは視認できない。
制服の一団は何もない空間から突然自分たちが現れたように見えるのだろう。
一団の方に視線を戻すと、日本だというのに銃に手を伸ばす者もいる。
そんな中、二人ほど異様な人物がいた。
一人は白衣を纏いルナへと視線を送る男。
もう一人は高級そうなスーツに袖を通すハルキへと視線を送る男だ。
ハルキは後者の方へ一礼して口を開く。
「Sorry I have not been able to get in touch with you. I will get back to you later with more details.(連絡が取れず申し訳ありません。詳しいことは後程)」
少年のものとは思えない、低く特徴のない声だった。
スーツの男はうなずくと一団に撤収するよう指示を出しどこかへと去ってしまう。
何一つ理解が追い付かないルナは事情をハルキに尋ねようとするが、それよりも早くハルキが駆け寄り耳元でささやく。
『詳しいことは説明できないんだ。ごめん』
助けてくれたことの礼もしっかりと伝える。
再開の約束を確認すると、夜も遅いので早く帰るよう促した。
手を振る彼の指には翻訳のための指輪ははめられていなかった。
結果から言えば、異世界への旅は了承された。
ソフィアは反対したがハルキの両親が説得する形で押し切ったのである。
当のハルキは話し合いに参加することすらできなかった。
詳細は不明だが、ソフィアがげっそりとしていたため、容赦のない交渉がされたことは想像に難くない。
何か条件が設けられたということもないため、ハルキとしてはこれでも問題はなかった。
そんな出来事から数日後。旅の準備を終え、旅立ちの日を迎えた。
ハルキは家族と共に例の公園に訪れていた。
公園といっても今やその面影は見当たらない。遊具は撤去され、穿孔を囲むように一つの建物が建てられていた。周囲には強固な無人機による警備が敷かれ、関係者以外は一人も通さない。
そんな中を我が物顔で歩くのは四人の人物。
月守家長男のハルキ、妹の直美、母の海夕、父の理明の計四人である。
「お土産はお菓子がいいなぁ」
「私は何か面白い食材をお願いね」
「……記録を頼む」
「余裕があればね」
軽い会話をしつつも緊張の色はない。まるで旅行にでも行くような雰囲気であった。
何重に敷かれたセキュリティを超え、穿孔が存在する部屋に到着する。
そこにはすでにルナとソフィアの姿があった。
『ごめんルナ。待たせちゃった?』
「ううん。ワクワクして早めに来ちゃったの。気にしないで」
異世界の言葉でやり取りする二人。先日までハルキがつけていた翻訳の指輪はルナの指にあった。
ここ数日異世界を行き来したハルキはほぼ完全に異世界の言語をマスターしていた。故にルナが利用した方が効果的なのである。
これからの旅立に無言で色めき立つ二人。その間に割り込んでくる人影があった。
「ルナさんおはよー!」
「おはようスグミちゃん! 今日も元気いっぱいだね!」
「ルナさんもね! 旅立当日に風邪とか引いてなくてよかったよ」
ルナに飛びついたのはスグミであった。
ハルキが異世界を訪れていたように、ルナもまたこの世界を見て回っていた。その間案内をしていたのがスグミだったのである。二人は性格が合うのかすぐに意気投合し、今や親友といっても良いほどの関係になっていた。
「次に会えるのは最短でも一か月後かぁ。長いよ」
「そうかな? でも私たちずっと友達だよ」
「もう! ほんっとうにいい子! いい子だよ! お兄ちゃんだけズルい! ルナさん独占禁止法で訴えてやるんだから!」
「変な法律作らないの」
ルナの胸に顔を埋めながら恨めしそうにハルキを睨む。
それを適当に流しつつ、ソフィアをさりげなく見た。
色々思う所もあるようだが、今は娘が目標達成に向けて一歩前進したことが嬉しいのだろう。楽し気に語り合うルナに笑みがこぼれていた。
「ルナ。少しこっちにいらっしゃい」
「うん? 急にどうしたの?」
言葉に従い、ソフィアの前に立つルナ。その姿に何を見たのか、感慨深気に口を開いた。
「…………まさか、こんな日が来るなんてね」
「どういうこと?」
「帰ってきたら全部話すわ。それはともかく——」
ぎゅっと。優しく、強く抱きしめて。
「頑張ったわね」
「うん」
「危険そうなら飛んでいくから」
「剣聖がいうと冗談にきこえないよ」
「何言ってるの。本気よ」
ソフィアは見てきた。
毎日休まずコツコツと旅の資金を貯めていたのを。
毎日休まず修練を積んできたことを。
それはひとえに彼女の優しさから来るものだった。両親に感謝を伝えたいという一心でここまで来たのだ。
その思いが、努力が報われようとしている。不思議とそれが自分のことのように嬉しかった。
――本当の親ではないというのに。
幸せに浸りつつ、しかし内心では一線を引いて。
ソフィアはルナをめいいっぱい愛した。
それに対し、月守家に大きく変化はない。異世界への旅だというのに、まるで普段通りであった。
そこに冷たさはない。彼らの目には、ハルキが無事帰ってくるという確信が滲んでいた。
恐れず、変わらず。それがこの家族にとって一番の信頼なのだ。
だからハルキも気負わない。不安などないのだと、その自信に溢れた顔でただ笑みを返すのみである。
名残惜しくも時間は流れていく。
もう出発の時間である。
準備を整え、ルナは翼を開く。
「行ってきます」
ハルキはためらうことなく穿孔に飛び込んだ。
そのあとを追おうとしてルナも一歩踏み出す。しかし寸前で踵を返しソフィアに照れくさそうに言った。
「行ってきます――お母さん!」
にっこりと笑顔を浮かべ勢いよく穿孔に飛び込む。
たくさんの愛を受け、二人は旅立つ。最初の目的地、フィーニスへと。