月下
地面が崩れ、天地が混ぜこぜになったような錯覚を覚える。
ハルキは試合の終わりを認識すると大の字になり目を回した。
「……え。ハルキ君、大丈夫?」
「ハルキ⁉︎」
予想外の結果に二人は慌てて駆け寄る。
ソフィアの太刀を受けたわけでも、何か疾患を抱えているわけでもない。
低血糖だ。簡単に言うならエネルギー不足である。
ハルキの力のほとんどは、その頭脳に由来する。
人間なら誰しもが持つ記憶力と情報処理能力。ハルキのそれは常人を圧倒的に上回っていた。
故に全力を出せばその分多くのエネルギーを使ってしまうのだ。
「……申し訳ないですが、何か甘いものを頂いてもいいですか?」
その言葉に従い急いで家に戻るルナ。
それを見送るとハルキはソフィアに事情を説明するのだった。
糖分を取りしばらく休めば体調は改善するだろう。
その後、今朝寝ていた部屋で横になる。
呑気にいい試合だったねと漏らすソフィア。
対照的に、ルナはハルキの体を隈なく観察しようとあちこち捲っている。
「まったく。子供を傷つけるなんて剣聖の名が泣いちゃうよ」
「事故なので不可抗力ですー。そもそも一太刀たりとも入れてないわ」
「それでも手加減のしようはあったでしょう? 本当に大人げないんだから」
「反省してまーす」
「もう!」
二人の気の置けないやり取り。まるで親子、姉妹のようにすら見える。
しかし二人はまったくと言っていいほど似ていない。血のつながりはないのだろう。
二人の関係は一体どういうものだろうかと気になったが、知りたがりは大抵嫌われるものだ。
ハルキはあえて別の質問をした。
「あの、剣聖というのは?」
「うん? そういえばいってなかったね。剣聖っていうのは、とある武闘会の優勝者に与えられる称号なんだ」
地を斬り、空斬り、魔を斬った。そんな大昔の剣士の二つ名にあやかり、大会の優勝者には剣聖の名が与えられるという。
様々な国の腕自慢が集まるその大会は、本戦に出るだけでも超一流。
上位10人ともなればそれぞれが一国の戦力と対等といわれるほどの腕利きとなる。
「強いとは思っていましたが、そんな大会の優勝者とは。道理で勝てないわけです」
「それをいうなら君だって。初見の魔術によく対処できたわね。こんなに可愛いのにびっくりだわ」
「恐縮です」
初見での魔術への対応など、剣聖の説明後では霞んで見える。
この世界の個人が持つ武力に心底あきれた。
一国と比較できるなど現代兵器も真っ青である。
そんな人外の中のさらに規格外が子供相手に剣を向けるなど、本当に大人げないとハルキは思った。顔には出さないが。
とはいえ。
そんな剣聖様も欲に抗うのは難しいらしい。
ルナとやり取りをしつつ、ちらちらとこちらに視線を向けている。
捲れたシャツの隙間から覗かせるしなやかな腹。胸元の鎖骨に火照った耳。透き通るような肌。
ルナは何とも思っていないようだが、ハルキの容姿はかなり優れている。
誰にでも好まれるよう研究し努力しているのだ。故に老若男女関係なく視線を引き付ける。
しかしソフィアのそれは少々特殊だった。
その双眸は危機感を感じさせる怪しい何かを宿していた。
ある程度体力が戻るとルナを止め服装を正す。
ソフィアは残念そうな顔をするが、こっちだって恥ずかしい。
上体を起こすと、一つ気になっていたことを尋ねる。
「俺はこの世界でどの程度戦えると思いますか」
月闘流の名は決して軽いものではない。
なかなか意識することはないが、本来であれば敗北など許されないのだ。
だからこそ今回の結果には思うところがある。仮に戦えないのであれば、正直ちょっとショックだ。
「……今のままでもいい線いくんじゃないかしら。さらに魔術を学ぶなら、正直想像もできないわ」
意外な高評価に内心驚く。
試合最後の動きから、かなり手加減されていたのがわかる。
それでこの評価ということは、剣聖という存在が他と隔絶した強者であると推測できる。
うれしい反面、壁の厚さにあきれてしまう。
「魔物との戦闘はどうです?」
「そっちは基本集団戦よ。個人でどうこうって考えはないの。でも、君は賢いし腕もあるから、戦い方を覚えたらどこでも戦力にはなると思うわ」
「つまり、旅に出ても自衛できるということですね?」
「む……」
試合の理由を完全に忘れていたソフィア。
あまりにもペラペラと話しすぎてしまい、旅を止める理由を自身で否定してしまった。
心理戦ではまったく勝てていないことを思い出し、どうしたものかと思案する。
その沈黙の中、むっとした表情を「作り」ハルキが畳みかける。
「正直、剣聖と呼ばれるような偉大な方が子供に実力行使するなんて、大人げないと思うんです」
「いや、それは」
「もちろんソフィアさんの気持ちもわかります。この世界での旅は危険そうですし、それ以外にもリスクはありますよね」
思考する隙を与えない。交渉の心得がないものであればそれだけで優位を取れる。
「しかし俺には自衛能力があり、旅の経験も豊富です。そこで、どうでしょう。もう一度、俺の家族も含めしっかりと話しあってみませんか」
先ほど交わした約束はソフィアに勝てばルナと一緒に旅に出ていいというもの。
結果が引き分けである以上、約束を守るなら旅には出られない。
能力の有無はどうあれ相手の方に正当性があるため、ここで旅をさせろというのは無理がある。
そのため条件を振り出しに戻す。
むしろ今回はさらに踏み込み自身に有利な条件を含ませた。
家族を含め、という点に反応しソフィアはうなずく。
「それもそうね。丸1日いなくなった説明もしなくちゃいけないし」
「ではまた後日こちらに伺います」
これで旅はほぼ確実なものとなった。
心の中でガッツポーズをしつつ、今後の計画について煮詰めていく。
「大気圧、気温、酸素濃度。どれも操作できるなんて、魔術ってすごいんだね」
「いや、すごいのはハルキの方だよ。今日魔術を知ったばかりなのに、なんで私に教えられるの?」
時刻は日が沈みかける頃。
帰宅と好奇心を満たすため、庭でルナの魔術を観察していた。ソフィアは近くでその様子を見ている。
魔術とは、指輪の特定の場所に魔力というものを通すことで生じるものらしい。
Aという場所に魔力を通せばaという魔術が放たれるように、基本的には定型的なものとのことだ。
しかし稀に細部まで魔力の流れを操作し、細かな調整ができる者がいるという。
ルナはその一人だった。
「ゲンシロン? っていうのもすごいけど、それ以上に教えるのが上手いよね。サンソなんてよくわからないものを操作できちゃうなんてびっくりだよ」
ルナは満面の笑みで風を操ってみせる。仮にそこに火を投げ入れたら大爆発が起きるだろう。
酸素に理解が深いとは言えないルナだが、ハルキの助言があればなんとか空気中の酸素を集めることができる。
どのような仕組みが働いているかは不明だが、恐ろしいほどに便利だ。
ぜひいつか手に入れて原理を解析してみたい。
楽しい時間というものは早く過ぎてしまうもの。
気づけば日が沈みかけていた。
帰宅における不安要素は今回の実験で解決できた。あとは帰るだけである。
その前に。
「一つお願いがあるんだ。いいかな」
「どうしたの?」
「何か顔を隠せるようなものを貸して欲しいんだ」
「顔を? ハンカチくらいしかないけどいい?」
「ありがとう。問題ないよ」
顔を覆える程度のハンカチを借りると、後日返す約束をして帰る準備を始める。
ルナがこちらに掌を向けると何かを呟く。
するとハルキの周りに温かい風が渦巻き、ふわりと体が浮いた。
その状態でソフィアの方へ向くと一礼した。
「では、ソフィアさん。今日はお世話になりました。三日後にまた伺いますので、その時もよろしくお願いします」
「律儀ねぇ。じゃあ三日後を楽しみにしてるわ。またね」
ルナに視線を送り、準備ができたことを伝える。
「飛ぶよ」
その一言とともに彼女の背に白翼が現れ大気を掻く。
その瞬間、ぐっと夜空が近づいてきた。
徐々に遠くなる大地。
さらに加速する。
下を見ると、この街の全貌が把握できた。
平な地形の内陸側には畑らしきもの。
海へと流れる多くの水路。
街を囲むような大きな港。
沖にはちらほらと船の明かりが見える。
高度を上げるにつれて、街並みが小さくなる。
やがて雲を抜け、さらに上へと飛んでいく。
その景色を綺麗……と思うより先に、少しだけ身が竦んだ。
実はハルキ、完全に他人に命を預ける経験は物心ついて以来これが初めてである。
何度か命の危機を経験してきたが、常に自力で対処してきた。
そのため恐怖はひとしおである。
(ルナを信じていない訳じゃないけど……)
予め覚悟はしていたが、落ち着かない。
慣性で内臓が沈む感覚にぞっとする。
想像してしまうのだ。
ちょっとした事で、自分は落ちてしまうのではないか、と。
「大丈夫」
ふわりと、何かが晴樹の手を包む。
ルナが手を握っていた。
下ばかり見ていたハルキは、その手を視線で辿る。
「大丈夫。今度は私が守るもの」
その瞳は底なしの決意と優しさで満ちていて。
その手からは温かさが伝わってくる。
そのあり方は恐怖という暗闇を払う光のようで。
月下、微笑む彼女は、彼の知る何よりも美しかった。
胸に何かが灯る。
「ありがとう」
気づけば恐怖も消えていた。
今胸に灯ったものの正体に、少年は気づかない。
ハルキは無意識に手を握り返した。