月守明希という少年
「他の世界があるなんてびっくりだよねー」
ジャムが塗られたパンを口にしながらルナは言った。
食卓はミルクやフルーツで彩られ、見たことある物ない物が入り混じっていた。
この世界においても異世界という概念は存在しないものとされているらしい。
そうなると何故穴と異世界を関連付けることができたのか疑問だが、それはソフィアが答えてくれた。
なんでも、この世界の古い遺跡の壁画や書物には異世界について言及されているものがあるという。
空が割れ世界が繋がり人や物が出入りする場所が古くからあると。
あまり知られていない事実だがソフィアは仕事上それを知っており、そのためハルキが異世界人だとわかったらしい。
「ハルキの世界ってどんな感じなの?」
ルナは新しいパンを手にして問う。
よほどお腹が減っていたのか既に5枚目に突入していた。
いってはなんだが儚げな印象なわりによく食べる子だ。
「一言で言えば科学の世界かな。向こうには魔物も魔術も架空のものとされていて、代わりに科学という技術を利用して生活しているよ。場所によっては例外もあるけどね」
「魔術も魔物も言葉としてはあるんだ」
「不思議だよね」
ソフィアの話が本当ならこの世界の誰かが向こう側に飛ばされたのかもしれない。
となると向こうでも魔術が広まっていてもおかしくないのだが、科学の方が便利だったのだろうか。
真っ赤な野苺を食べながらそんなことを考えていると、ルナが何かを思い出したかのように言った。
「向こうにも山はあるの? ハルキは登ったことある?」
不思議な質問にハルキは首を傾げた。
普通なら生活や人種なんかをきくだろうに、何故山なのだろう。
この世界の山は特別なのだろうか。
「たくさんあるよ。その中でも8000m峰って山が有名だね。実は登ったこともあるんだ」
「その話きかせて!」
山に興味があるのかやけに食いつくルナ。
ならばとハルキはいくつかの思い出を話した。
クレバス(氷河の割れ目)だらけの危険地帯を超えたり、高さ十数メートルの氷塊をよじ登ったり。
断崖絶壁でテントを設営することもあった。
体力的に厳しいところもあったが、そこは仲間たちの助けもあって乗り越えることができた。
そして何より、登頂した瞬間は忘れられない。
どこまでも澄んだ空に、遥か遠くに見える街。
込み上げてくる達成感は苦労するほど堪らないものとなる。
「そこが人間が自分の足で登れる最高地点なんだ。頂上からの眺めは最高だったよ」
ハルキは懐かしそうに語った。
当時の仲間にはもう会えないが、助けられた恩は忘れない。
ルナは食事の手を止めて食い入るように話を聞いていた。
そして話が終わると目を輝かせていった。
「私、ハルキと旅がしたい!」
「いいね。いつ行く?」
「ちょっと待ちなさい!」
弾かれたようにソフィアは言った。
「さっきも説明したけど、私達は別々の世界の存在なのよ?」
口調を改めて優しく諭すが焦りは隠せていない。
ルナは言葉の意図がくみ取れないのか首を傾げていた。
ソフィアが止めるのも当然である。
二つの世界の接触は互いに良くも悪くも必要でない大きな変化をもたらす。
必要ないならリスクの方に目が向くのは人として当然といえる。
今ならまだ間に合うからこそ彼女は必死で二人を止めているのだ。
それに気づけないほどハルキは愚かではない。
その上でこう答えた。
「大丈夫です。このことは秘密にしますし、できますので」
自信満々ににっこりと笑う。
策があるのだと言外に語った。
人種、文化、言語や歴史、そして魔術。
この世界のほとんどが未知だ。
未知を既知にしないと気が済まないのがハルキという少年であった。
それに旅には慣れている。世界中を旅し、多くを学んできたのだ。
彼の中にためらいはなかった。
ソフィアはやけに整った顔をじっと見つめ、じーっと見つめて、ため息をつく。
引く気はないのだと理解してくれたらしい。
「わかった。旅に出ることは止めないわ。ただし」
一つ条件がある、とソフィアは目を鋭くしていった。
「……大人気ないよ、ソフィアさん」
「でも必要なことでしょう? あなたがずっと守るわけにもいかないだろうし」
三人は庭に出た。
ソフィアの手には木剣が握られており体を革の防具で覆っている。
一方でハルキはというと倉庫で武具を漁っていた。
ソフィアが出した条件。それは「私と試合して勝て」というものだった。
この世界には魔物という危険な存在がいる。
それは生き物ですらなく、人を惨たらしく殺すのだ。
だから旅に出る際は護衛を雇うか、自身が戦えなければならない。
ソフィアはこんな世界でもハルキがやっていけるのか確認するため試合をすることにした……というのは建前である。
本音は、絶対に旅を諦めさせるというものだ。
それくらい今回の件を危険視していた。
それにハルキはまだ幼い。
同年代であるルナはある程度戦闘ができる上、最悪飛んで逃げることもできるが、ハルキはただの人間だ。
この世界であれば守られるべき存在である。
「『剣聖』相手にその条件はあんまりだよ」
「勿論ある程度力は抜くわ」
「勝てる程度にでしょう?」
ソフィアは問いに答えることはなかった。
しばらくするとハルキが準備を整えて現れた。
手には何故か武器ではなく棒を持っている。木槍を作る際に出た廃材だった。
ルナはきょとんとした顔でハルキを見る。
「それは武器じゃないよ?」
「大丈夫」
それだけいうと、ソフィアの前に対峙する。
「じゃあ、始めましょうか。ルールは寸止めで、有効な攻撃を先に決めれば勝ち、でしたね?」
「それで問題ないわ。ルナ、合図任せるわね」
ソフィアは地面を蹴ると、後方十歩ほどの距離を飛ぶように移動した。
明らかに人間にできる動きではない。
なるほど、これが魔術なのだろう。それ以外に説明しようがない。
剣を上段に構えると、睨むような視線を向けてくる。
その気迫は常人には出せない類のものだ。
対してハルキは自然体。右手に棒を持ったまま観察に徹する。
ルナは躊躇いがちな視線を送るが、一つ頷いてみせると数歩後ろへ下がった。
徐々に高まる気迫。
ルナがすっと息を吸う。
「試合、はじめ!」
——まるで、コマ落ちした映像を見ているようだった。
ルナの声とほぼ同時。ソフィアが目の前に現れた。
高々と振りかざした剣。それが尋常ではない膂力によりしなりながら振り下ろされる。
細い棒切れ程度で防げはしない。
空気を押しつぶしながらハルキへと迫る。
しかし、剣は誰もが予想しなかった軌道を描いた。
カン、と軽い音が青空に抜ける。
「お見事」
それはハルキの言葉であった。
剣筋から逃げるような場所で心底驚いた表情をしている。
その手の棒、いや杖はソフィアの腹へと伸び、触れる直前で剣で防がれていた。
「子供だからって油断しちゃ嫌ですよ?」
ハルキはあざといくらいに可愛らしい笑顔を浮かべた。




