ep8.腕あげました?
住宅街、入り組んだビル群を高速で駆け抜ける南條の両腕に皐月は抱えられていた。
朝日が照らす午前七時は寒気を覚える程の気温だが、体感温度はさらに低かった。強い風が吹きつけて肌を冷やしている。
皐月は鳥肌が立っているにも関わらず、寒さを感じない。
「減速します。舌を噛まないようにしてください」
目的の建物が近づくと南條は徐々に速度を落とした。人気のない無機質な建物だが、周囲には警察や関係者の姿がちらほらと見えた。
やがて南條は立ち止まると皐月を地面に降ろし、二人は入口正面へと歩く。通りゆく二人に気付いた者は吃驚して己が目を疑い、またある者は急いでどこかへ駆けていった。中には欠伸に手を抑え気が付かない者もいたが、協会の制服を纏った二人の魔術師が急いで南條に接触した。
「な、南篠さん…、なぜこ、こに…⁉」
「許可は得ました。すぐに会敵します」
「し、失礼しました…⁉」
その魔術師は焦ったように無線で何事か取り合っていたが、南篠は足を進めていた。
高層ビルの入り口には、先ほどの魔術師と同じ制服の、しかし胸元の紋章に割れたガラスの意匠を施された二人の男女がいた。
「やっほ龍樹君。及川も連れてきたよ」
爽やかに手を振り上げた協会員の名前は石田拓也、年の頃は見た目通り二十代後半だ。先程接触した者と同じ制服だが、左上腕に月桂樹の葉を模した紋章が薄く巻かれている。
「よろしくお願いします」
続けて挨拶した女性は及川真綾と言い、協会に入ってまだ一年しか経っていない彼女は、僅かに緊張した面持ちだった。
「迷惑をかけます。石田さん。及川さん」
南條が二人を呼んだのだ。石田を呼んだのは顔見知りで、協会でも腕が立つからだ。及川と会ったのは初めてだったが、資料やデータに目を通し、作戦に最適だと判断した。
「ほんとだよ。及川は何も知らないよ?」
「ど、どういう事ですか先輩」
直属の上司である石田に従って来た及川は石田の発言を問い詰めようとしたが、
「作戦さえ把握していれば問題ありません」
南條も石田もあえて話そうとしなかった。
南條は皐月に向き直った。今更言っても仕方が無い事は承知していたが、それでも、不測の事態が発生すれば皐月の身に危険が及ぶかもしれない。
本当はこれ以上皐月を連れて行きたくなかった。
「皐月様、ここにいる方達とここで待ってはいただけませんか?」
無論、それは皐月にとって無理な頼みであった。
「できません。二人に何かあったらいけませんから」
皐月は気丈に答えようと努めたが、声は震えていた。
「…」
南條は主の思いを知っていたからこそ、それ以上反対出来なかった。
「…皐月様は及川さんから絶対に離れないでください」
「はい」
「行きます」
自動ドアが開くと、皐月は及川の半歩後ろから付いて行った。
エレベーターを使って最上階を目指す。
会話のないまま一階、二階、三階と上昇してゆく。
皐月は緊張していたが、背筋の伸びた三人の後ろ姿が頼もしいと思った。
「――っ、及川」
「はい」
二十階に着いた、
――瞬間だった。
何かの破裂音。
同時に金属の擦れる甲高い響音。
エレベーターのドアには穿孔が三つ。
立ち込める硝煙が匂い、皐月は恐る恐る南條に目を向けようとしたが、鉄製のドアを蹴破った轟音と衝撃に反射的に身を縮ませた。
風が収まって、ゆっくり目を開けると、その光景に背筋を凍らせた。
「真衣ちゃん、深雪ちゃん…」
探し求めていた真衣と深雪は、見るに堪えない姿だった。
「さ…、つき、ちゃ…」
衣服の類は一切纏っておらず、無数の切り傷と蚯蚓腫れが体表を覆っている。皮が剝げ、血が滲み、滴って固まった血の池が広がっていた。
辛うじて顔を上げた真衣の喉は嗄れて音は殆ど出ていなかった。
「わ、わたし…」
皐月は止まらない足の震えに、ついにはその場にへたり込んだ。
「どうも、お久しぶりです、南篠さん。」
薄汚いほつれたYシャツに縒れた黒のスラックス。その両手には南條と同様に拳銃が握られていた。近くにはもう一人、パーカー姿のラフな格好をした男がいる。
敵はたった二人しかいなかった。
「人質を解放しろ」
南條は発言した男の眉間に照準を合わせ、声を震わせた。
男は意に介した様子もなく、怯えるでも、脅すでもなく、中年のサラリーマンが何でもない話をするように淡々と言葉を紡いだ。
「その子を差し出したら解放しますよ」
その返答が全て終わるよりも早く、南篠は静かに歩を進め、一気に加速して常人ではあり得ない速度で蹴り上げた、が、相手はそれを躱し、南篠の脇腹に向かって蹴り返した。
南條はそれを片手でガードすると、ゼロ距離での発砲を試みたが、相手は照準が向けられるより早く離脱する。
「南條さん、腕あげました?」
その戦闘を目で追う及川は戦慄した。南條は掛け値なしに世界でも有数の実力者だ。日本で彼に敵う者などそういない。どんな相手であろうと、南條と渡り合うなどあり得ない。
そう思っていた。だが今見ている光景は、同等、もしかすると南條が劣っていた。
不意に、男は真衣に銃を向けた。
それは符牒でも何でもなかったが、もう一人のパーカーの男は、思い出したように真衣の太腿にそっとナイフを走らせた。無言のままの、その男の口角は愉悦に歪んでいた。
真衣は確かに叫んでいたが、掠れた声も出ていなかった。嗄れた喉が張り裂けていたのだ。それでも真衣は肺を絞って叫んだ。
涙を湛えたその眼はもはや何も映していなかった。
足に力が入らなかった皐月は這い寄ろうとした。
「や、やめて…。離して…!」
だが、皐月を守る事が、及川の役目だった。
シャツの男は照準を鉄筋の剥き出たコンクリート壁に向けて引き金を引いた。
同時に南條も発砲。ギンッと大きな金属音が耳を劈く。
男の銃弾をはじいたのだ。銃弾で。
神業だった。
男は続けて同じようにさらに二発をほぼ同時に速射したが、南條は二発とも弾いた。皐月には散った火花しか見えなかった。
男は無感動に言い放った。
「動くな。動いたら彼女たちの命はありませんよ。」
「やめてっ…。南條君!」
そして再び引き金を絞った。
南條は刹那の思考で発砲するしかなかった。
男はやはり調子を変える事なく言った。
「動くなと言いましたよね」
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
深雪の裏返った高い声がその場にいた全員の耳を刺した。
真衣はただ痙攣していた。
パーカーの男が同時に二人の爪を剥いだのだ。
痛みに歪んだ顔と悲痛な号哭、血の溢れる人差し指。皮膚や肉片のついたその爪が皐月の眼前に投げ込まれた。
「――ぁあ。ぃや…」
拷問。
男は顔色を変える事なく再び銃口を構えた。
「そこのあなたは姿を現してください」
照準が向かう空間が歪むと、人の姿が露になった。
石田が、光、音、魔力。気配を極限まで遮断し、二人を救出しようとしていたが、とうに気付かれていたのだ。
石田は抑えていた呼吸を解放した。信じられないと言った表情だ。
「宮本皐月を差し出してください」
すぐさまもう一発。
南條は再び撃った。
――ブチィ。
今度は中指の爪が引き抜かれた。そして男は両手でそれぞれの薬指にも手を掛ける。愉快そうに曲がりきった口から興奮が混じった息が吐きだされ、深雪の首筋を撫でた。
「あ゛あぁ゛ぁああああぁ゛あ゛あ゛あ゛あぁぁぁ!っぁぁあああ、ああぁあ、ああぁぁあ」
深雪は地面にうずくまりながら声が嗄れるまで叫び続けた。
「離して…。どうして…。なんでよ…!」
「……」
及川は答えなかった。
「南條君!」
どうして。
もうたった目の前なのに。
私が行けば誰も傷つかずに済むのに!
「ぁぁぁあぁぁぁぁああああぁああああああああああ!」
皐月は二人の元へ向かおうと必死に藻掻いた。涙と鼻水で顔はぐちゃぐちゃだ。
床のコンクリートを引掻く爪が割れ、指先から血が出た。
もう息も絶え絶えな二人のそんな表情は見ていられない。
二人の笑顔が大好きだから。
そんな二人の瞳には生気が宿っていなかった。
きっと私を恨んでいるだろう。
これ以上の罪を重ねる前に。
絶対に助ける!
「その娘を差し出しなさい。次は殺します」
ナイフに持ち替えた南條は隙を与えず男に切りかかった。
圧倒的な手数に切り返す高速の刃。相手も同じように持ち替えて応戦した。
そして、カウントダウンが始まる。
「3」
――傷が増えてゆくのは、南篠であった。
「2」
石田は下手に動くことが出来ず、及川はただ歯を食いしばって、皐月を離してはならなかった。
「1」
皐月は見てしまった。
「0」
真衣の首元に鮮血が走ったその瞬間を。
「あ…」
石田は走った。深雪の首元へ刃が迫るよりも速く。
そしてその手刀が、男の伸ばした両手を切り飛ばした。
「あひゃああああああああ。お。」
間抜けな叫び声を上げた男は、刹那に脳天を撃ち抜かれていた。
見れば南條と対峙していた男が拳銃を抜いていた、それとともに南條の蹴りで吹き飛ばされ、二十階の窓から消えていった。
「及川さん!」
「すぐに!」
南條が叫ぶと及川は鮮血を吹き出す真衣の元へと駆け寄った。
解放された皐月は立つ事が出来ず、手だけで地を這った。
「あっ。あっ。あっ。あっ。あっ。あっ。あっ。あっ。あっ。あっ。あっ。あっ。あっ。」
呼吸が壊れた。
何で。
何で助けられなかった何で止めた何で見殺しにした何で。
△▽△▽△▽△▽
すぐに窓ガラスを割って外から二十人程の集団が入って来た。協会の制服だ。半数はすぐに真衣と深雪の元へ行き、魔術を施す。
無力に立ち尽くす南條に老人が近づいた。
顔にはいくつかの傷跡と皺が刻まれており、髪はほとんどが白くなっているが、姿勢は中心に鉄を通したようで、筋骨逞しかった。その威圧感は全く衰えていない。
「屑野郎」
南篠の祖父、時任元はしゃがんで男の死体を覗き込んだ。
乱暴に手を振るうと三人程が現れ、元は入れ替わりに立ち上がる。
「消えろ」
茫然としていた南條は、気を失った皐月を抱き上げた。
「…失礼します」
南條が去った後も、元の巌のように険しい表情が崩れる事は無かった。
△▽△▽△▽△▽
夕日が差し込む自室で、
「はあっ、はあっ、はあっ」
目を覚ました。
全身に嫌な汗をかき、吐きそうに気持ち悪い。
強い虚無感に襲われる。
誰か。誰かに会いたい。
隣にいてほしい。
そんな気持ちでベッドから降りた時、ドサリと尻を強く打つ。
驚きの直後痛みが走った。
再び立ち上がろうとするも、全く力が入らず、膝は震えている。
あれ…?何で?
言葉にならずただのうめき声が漏れた。
あまりの気持ち悪さに叫びながら、その場に嘔吐した。
喉元まで逆流した酸を押し流すと、気管に入り、せき込んだ。
撒き散った自分のゲロが臭う。
再び地を這い、指先に走る痛みと体にまとわりつく倦怠感に耐えながら、ドアノブの上に手を置き、重力に任せて乱暴にドアを開いた。
「皐月様…!」
駆け寄ってきた南條君が体を支えた。
「皐月様」
何故か苦痛に顔を歪めるように彼は、彼は…、南篠君は、
――ゴホッ。
咳き込んだ拍子に彼の顔にゲロが張り付いた。
「…゛う゛えぇ゛え゛ええ」
記憶が判然として、余計に吐き気を催した。全身を投げ出したくなって体に力を入れるのを止めた。
「あああああああああああああああああ」
余計に脳が醒めて意味もなく叫んだ。
「誰か!誰か来てください!」
呼びかけに反応した使用人たちはすぐに現れる。
「真衣と、深雪は…?」
「…深雪様は無事です。全治三週間と診断されましたが命に別条はありません」
南條の面持ちは沈痛だった。
「…真衣は…?」
「…」
「真衣は無事なんですか⁉」
「葬儀の日にちは、未定です」
「葬儀…」
目の端から、涙が伝っていく。
声を出して泣いた。
悲しくて悲しくて。
悲しくて堪らなかった。
大好きだった二人が死んでしまった。
自分が殺してしまったんだと理解した。
「ごめんね。ごめんね…」
壊れたように懺悔の言葉を繰り返した。