ep4.妹がいたの
そして次の日、今日もいつものように目的もなく学校へ行く。学生の本分は勉強などと言うが、ほとんどの学生はそんな事には興味がない。
この頃は朝も比較的暖かく、通学路ものどかで心地良い。
しばらく行くと、一人の女子生徒が目に留まった。「にゃーにゃ―」と猫なで声で腰をかがめている視線の先には一匹の猫がいる。黒と茶色の縞模様の猫は警戒するようにじっと紅川の様子を窺っている。
目が合わないように気をつけながら通り過ぎた。
学校に着くと、その日はチャイムが鳴れども宮本さんの姿は見えなかった。
ただ体調を崩しただけなのか、家庭の事情かは分からないが、もう一人の転校生も欠席したらしいから恐らく後者だろう。益々何者なのだろうか。
「今日も連絡は…、一昨日からからテストの二週間前ですのでそろそろ時間があれば勉強を始めましょう。それではホームルームを終わります。さようなら」
テスト二週間前と言われても大抵の生徒は勉強しない。部活動禁止期間が始まるのが一週間前からだからだ。だが、俺の場合はそろそろ始めなければならない。
魔術の演習の成績が最底辺の俺は、定期考査で補わなければ落第もありうる。
その上、この学校に入れたのもほぼ裏口入学みたいなものだから、せめて座学はできないと入学させてくれた校長に申し訳が立たない。
ラインの通知が来た。城崎からだ。
『突然ごめんなさい』『放課後生徒会室に来られるかしら?』『一人で来てくれるとありがたいのだけれど』『すぐ終わるから』簡素な文面だが最後に標準装備のスタンプがよろしくと伝えている。
何の用だろうか。試験勉強もまだ余裕があるから生徒会室へと向かう事にした。
初宮にも伝えようと顔を上げればちょうどこちらへ歩いて来ていた。
「なんか城崎が用があるらしいから、ちょっと行ってくる。俺一人で行った方がいいらしいけど初宮はどうする?」
「用…?」
「何かは分からないけどすぐ終わるらしい」
「…私は、教室で待ってます。終わったら連絡してください」
「分かった。じゃあまた」
「はい」
初宮はどこか冴えない様子だった。
「失礼します」
ノックしてドアを引くと城崎以外はまだ来ていないようだった。
「あら、早いわね」
彼女は生徒会長と書かれたプレートの席でバッグから書類やら筆記用具やらを取り出している。
二年生が生徒会長を務めているのは三年生が早くから受験勉強を始めるためだ。
「他は?」
「実は、少し二人きりで話したい事があるの」
落ち着いた声音だ。思えば、城崎から一人で生徒会室に来るように言われ、初宮に伝えられていない事は珍しい。真面目な話のようだ。
彼女は鞄を机の横に掛けると室内の水道口の方に歩いて、ティファールに水を入れた。
「話したい事ってなんだ?」
「ええ。あなたのクラスに転校生来たじゃない?その…、」
だが彼女は歯切れが悪い。
宮本さんがどうしたと言うのか。
ジャーと流れる水音が辛うじて沈黙を避けていたが、満杯になると彼女は蛇口をひねり水を止めた。
城崎の口から発せられたのは思いもよらない依頼だった。
「お友達になってあげて欲しいの」
「はい?」
突拍子もない事に聞き返すと彼女は繰り返した。
「お友達になってくれないかしら?」
「…なんで?」
俺はただ何故と思った。
「それは、」
城崎は一旦電気ポッドをセットし、カチッとスイッチを入れた。
「…宮本さんね、本当は良い子なのよ」
「?」
依然として話が掴めない。
キャビネットからいくつかのカップとティーポットを取り出す彼女の表情がガラスに映る。幾分か考えているようだった。そうして三つのカップを置くと少し笑ってこちらを見た。
「とりあえず適当な所に座って」
何故こうも慎重なのかは分からないが、言われた通り一番近い席に座った。
そして彼女はもう二つのカップを置いてポットに目分量で紅茶葉を入れた。カップが六つあるのは他の生徒会メンバーの分だ。
一通り終えた城崎は自身の席ではなく正面に座わった。
「…和泉さんの話は私も聞いたわ。優しくしてくれた和泉さんに対して、嫌だ…、て、言っちゃったのよね」
「それも結構キツめにな」
「ええ」
彼女は苦笑した。
「でもね、でも、彼女は本当は優しい子なの。だから…」
だから仲良くして欲しいと言いたいのだろう。このままでは埒が明かない。
「なんで宮本さんが優しいって思うんだ?」
「それは…」
幾つか聞いてゆけば答えやすい事も出てくるだろうとまた違う疑問を投げかける。
「そもそも、どうしてそんなに宮本さんを気にかけているんだ?」
彼女と宮本さんが以前から知り合いだったという事もないだろう。肩入れする程仲良くなろうとしないからだ。
城崎は逡巡する素振りを見せたが、やがて意を決したように口を開いた。
「…私ね、湊君。いつかあなたに話さないといけないと思っていたことがあるの」
城崎は少し背筋を伸ばした。その表情はいつものように穏やかだったが自然と身構えた。
「落ち着いて聞いて。私には、妹がいたの」
「…はい?」
思わず間の抜けた声を出していた。
「お前は」
「私が、精霊になる前の話。本当に血のつながっていた妹よ。」
「精霊になる前…?」
「私はもう死んじゃったの。それでずっとその妹の事が心残りで」
「――。」
もう、死んだ…。
「宮本皐月は私の妹なの」
嘘の色は無かった。少なくとも城崎は下らない妄言は言わない。俺はそこでようやく意味を飲み込んだ。
「…まじか」
知り合ってから四年以上は経つが全くの初耳だった。
「なんでお前が驚いてるんだよ」
見れば何故か城崎までも豆鉄砲を食らったような顔をしていた。普段あまり驚いた顔をしないものだから少し意外で笑ってしまった。
すると彼女も笑った。
「…ごめんなさい。私は貴方が怒ると思ったから」
だから話を進めるのが遅かったのかと合点がいった。
「今更だろ。けど少しは怒ってる。城崎は覚えていないだろうけどガッツリ嘘吐いてるからな」
城崎はまた面食らったようだった。
「覚えているからこそ、話すべきか迷ったの」
俺が憤慨するとでも思ったのだろう。
「別に俺ももう子供じゃない」
「あら、自分で言うのね。…でも、大人も子供も関係ないじゃない」
「…関係ないけど、もう少し早く話してくれても良かったんだぞ」
城崎のようにあまり気を遣い過ぎても損するものだ。
「それは…」
「少なくとも今は、今のままでいい」
死人がいるかも知れないと言って探しだす程感情的でもない。
「そう…」
事情は理解した。だが、一つ引っかかった。
「と言うかお前が宮本さんと友達になればいいだろ」
友達を作っても良いだろうと以前散々話し合った時は頑なに譲らなかったが、ずっと心残りであったのならそれが一番円満な解決策と思える。しかし、城崎は強情だった。
「ダメよ。貴方達とは違う存在だから」
やはりその一点張りだ。
「ずっと気がかりだった妹なのにか」
「だからこそよ。私はその内消えるかもしれないもの」
そう言われると何も言い返せなくなる。城崎は時々、消える事を望んでいるようにすら見える。
「…話は分かった。俺が宮本さんに取り入ればいいんだろ」
「言い方が不安だけど…、まあ、仲良くしてあげて」
「用はそれだけか?」
初宮も待っている事だから早い方が良いだろう。
「ええ。これだけよ。ちょっと重めの雰囲気で入って恥ずかしくなっちゃった」
「軽かったらそれはそれで微妙な気持ちになってた」
城崎は笑った。
「あら、なら今時JKみたいなノリにしなくて良かったわ」
「寧ろ正気を疑う」
そこでカチッと電気ポッドが沸いた。
「紅茶は?」
せっかく準備してもらったのだから一杯貰おうか。いや、天上と安曇に捕まったら半強制的にゲームさせられるだろうから今のうちに帰った方が良いだろう。
「初宮が待ってるから帰るよ。そう言えばなんであいつに何も言わなかったんだ?」
「…それは、あの子は反対してたから。消えたら嫌だって」
「そうか」
すると城崎は思い出したとばかりに、
「貴女また漫画買って白花困らせたそうじゃない」
「耳が速いな。じゃあお先。仕事頑張れよ」
不都合な事は追及される前に逃げるが勝ちだ。「あまり白花をイジメちゃ駄目よ」と背に聞きながら生徒会室の扉を閉めた。
「もしもし?」
『はい。終わりましたか?』
「終わった。今どこいる?」
『今は教室です』
「じゃあ昇降口で」
『分かりました』
昇降口に向かうと既に初宮はローファーに履き替えていた。足音に気が付いてこちらを見た初宮はやはり浮かない顔をしていた。
「…裕香との話って、宮本さんと裕香の事ですか?」
表情は暗くて分からないが、声は不安げだった。おおよその見当がついているんだろう。
「そうだ。二人の関係はもう知ってるのか?」
「はい」
「転校生が偶然自分の妹だったっていうのは驚くよな」
「…はい」
数歩先を行く初宮の言葉数は少なかった。
やがて階段を降り終わろうとした時、初宮は足を止め、何かと思えば頭を下げた。
「ごめんなさい」
「いや、」いいって。その先まで言わせる必要はないと止めようとしたが、彼女は続けた。
「今まで、嘘を吐いてました」
彼女はひたすら真率に頭を下げたが、俺は誰かを責める気はさらさらない。
「いいって。恥ずかしいから頭を上げてくれ」
「ですが、」
「お前達は正しい。あの頃の俺は馬鹿だったから余計な事を言わなくて正解だ。帰るぞ」
そう言っても初宮は頭を上げるのを躊躇したから上体をぐいと起こした。その拍子にコンクリートの階段に黒い点が染みついた事に気付く。あまりにも静かだから分からなかった。
初宮と目が合う。
「泣くほどか⁉」
「…いえ、これは」
部活動中の運動部員の視線が痛い。特に、水道近くでタイムを計測している陸上部マネージャーの女子三人の目が怖い。気にしないのか初宮は全く涙を拭おうとしないから代わりにハンカチで頬から目元を抑えた。
「湊君も、大きくなりましたね」
「保護者目線か⁉」
感動の涙だったようだ。確かに思春期くらいだと成長度合いも大きくなるだろうが、なんだか微妙な心持ちになる。自責の涙だと勘違いしていた自分が恥ずかしい。
頭一つとまではいかないが、俺の身長は初宮を優に越していた。
「身長の話じゃありませんよ?」
初宮の陰った表情も幾分か朱が差した。白い肌は感情の浮き沈みが分かりやすい。
「俺だって少しは変わる。お前も少し涙もろくなってないか?」
「…年を取ったと言われてるみたいであまり嬉しくないです」
そう言って初宮はようやく笑った。笑ったというより非難しているようだったが、俺はハンカチをしまった。
トントンとまな板を叩く軽快なリズムに殆ど無意識に問いかけた。
「今日の夜は何を作ってるんだ?」
「ハヤシライスです」
「へえ」
気のない返事だが初宮は気にした様子はなかった。聞いたもののハヤシライスとハッシュドビーフだとかビーフシチューだとかの違いが分からない。ちなみに言えばハッシュ化も全く分からない。
その後もリビングで勉強をしていると城崎達が帰宅したようで声が聞こえた。
「ただいま」
「おかえり」
城崎はそのままこちらに歩いてきた。
「湊君、今度の月曜日の放課後、宮本さんに学校案内してもらえるかしら?」
その提案に、城崎は本気で宮本さんを気にかけているのだなと不思議な実感が沸いた。二時間前の言葉は少し現実味を欠いていたのだ。
「分かった」
二つ返事で答えたもののよく考えれば案内出来る程詳しくもない。
城崎は初宮を手伝おうとエプロンをかけた。気になって意識を傾けてみたが、二人はいつもと変わった様子はなかった。一周まわって怖い。
安曇と天上が帰宅して十畳のリビングは賑やかになった。勉強も出来ないから代わりにテレビをつけた。まだテスト二週間前だから余裕は十分にある。
『えー、三年前のノーベル賞受賞者のクラメル教授ですが、新しく発表した論文が――』
アナウンサーがそう言うとVTRで特集が放送された。
「…まじか」
やがて夕食が完成し、ハヤシライスとアスパラガスのスープの配膳を全員で手伝った。
「ビーフシチュー!」
安曇は目を輝かせ、お気に入りの何キュアか分からないマグカップを持って座った。安曇はビーフシチューと言ったが愈々分からない。
「うぅ、アスパラ…」
相変わらず元気、かと思えばあまり青い野菜が苦手で、半分涙目になっていた。
「一本だけですから頑張ってください」
「うぅ」
初宮が言った通り、安曇のスープは三センチもないアスパラが一本しか入っていなかった。流石にそれくらいならどうって事はないように思えるがなかなか渋っている。
「あ、私はニンジンムリ」
「食べなさい」
「雑かよ」
便乗しようとして城崎にバッサリ切られた天上の隣を見れば、ランチョンマットが敷かれていない。
「そういえば紅川は?」
「今日は食欲がないって」
「そうか」
紅川が来ない事は別に珍しい事ではないから、それ以上は深く追及しなかった。理由は知らないが女子には色々あるのだろう。いや知らないけれども。ただ俺と顔を合わせたくないだけかも知れない。
いただきますと手を合わせてハヤシライスを口に運ぶと超旨かった。
△▽△▽△▽△▽
城崎が食器を洗い、初宮がそれを拭いてゆく。湊は自室で勉強をし、安曇が風呂に入っている時分、初宮は目を向けずに言った。
「裕香はどうして、私に黙って言ってしまったんですか」
多少の非難は混じっていたが、むくれるでもなく情緒の薄い物言いだった。
「だって、貴女は優しいから」
「私が反対するのは、」
「自分のため?」
「そうです。湊君に一切の未練も残して欲しくないだけです。死人に人生を狂わされないように、その可能性が万が一にも無いようにしたいだけです」
すると城崎は笑った。
「ふふっ。貴女のそういう所、湊君に似てる。自分を悪く言う所」
「…」
「あなた達は自分を過小評価しているわ」
城崎はシンクの掃除も終えて手を拭き、初宮を手伝う。
「…裕香は消えてもいいんですか?」
「それは勿論消えたくはないわよ。でも、今が転換期なのかもしれないって思ったの」
リビングでは天上がソファーを占領し紅川は床に寝そべってスマホをいじっていた。城崎は眩しそうにそれを眺めた。
「いつ消えるかも分からないし、もしかしたらずっと消えないのかもしれないけれど、宮本皐月が、私の妹が現れて、運命みたいに、神様のお告げなんじゃないかって感じたの。この機会を逃したら一生、永遠に後悔するかも知れないって」
城崎は特有の優しい声音を崩さない。
「私はね、何も出来ないまま終わるのが、一番怖い」
言い終えて、城崎の言う事はもっともだった。死んでも死にきれない気持ちは皆同じだった。
「…それでも私は、賛成しかねます」
初宮は前に進んでいるのか、後ろに下がっているのか分からなくなった。
「そう」
「でも、もう仕方ないじゃないですか。それがみんなの選んだ事なら、もう…、」
城崎はそっと抱き寄せ、初宮は肩に額を預けた。