ep2.人の心が読めるのか?
高校二年。
風薫る五月。ゴールデンウィークの連休が過ぎて学校が倍でだるい時期だ。
そんな中途半端な季節にもかかわらず、転入生がやってきた。
肩の高さで切りそろえられた黒髪に透きとおるような肌。下を向いた二重瞼を長い前髪が覆い隠していた。
転校生が来る事など滅多にあるものでもないから皆興味津々で、後方席の生徒は身を乗り出して眺めていた。
だが、教室はそれほど盛り上がってはいない。暗い印象だったからという理由だけではない。
その少女が車椅子に座っていたから、無遠慮に騒ぐことが躊躇われるのだ。
担任が自己紹介をするように促すと、クラスメイトの期待も若干高まった。明るい性格であれば馴染みやすいし、そうでなくても少女から歩み寄りがあれば接しやすく、仲良くするに越したことはない。
腫物を扱うような、腫物でない事を願うような微妙な空気の中、その少女は口を開いた。
「宮本皐月と言います」
その少女、宮本さんは覇気のない声でそう言った。覇気が有り余れば困りものだが、一切感じられない上に俯きがちだからなおさら聞こえにくい。
緊張のせいであってほしいと生徒達は次の言葉を待つ。趣味とか特技とか、好きな食べ物とかなんとか。
「よろしくお願いします」
そこで言い放たれたのは、よろしくしたい気持ちを微塵も感じさせないほど声の張りのないよろしくだった。
終始瞳を隠しているものだから何を見ているか分からず、口元はただ一文字に結ばれている。
自己紹介は本当にそれきりで、担任は教室中に満ちる気まずい空気を気にも留めなかった。
「皆さん仲良くしましょう。では宮本さん、授業はあの席で受けてください」
そこは教師として何かフォローを入れろと言う生徒達の心の声は担任には届かず、代わりに担任が指し示したのは、教室の一番後ろの空席だった。椅子は無いから席と言うより机と言った方が正確かもしれない。ドアの付近であるのだが、それは車椅子移動を楽にするための配慮とかではなく、ただ空いていたスペースがそこだっただけだった。
宮本さんは軽く礼をしたのか、ただ俯いただけか、「はい」とは返事はせずに電動車椅子の右手のレバーを操作して、電子音を響かせながら席に着いた。
「他の連絡事項は特にありません。これで、朝のホームルームを終わりにします」
転校生という一大イベントにも関わらず、担任はいつも通りさっさとショートホームルームを終わらせて、異質感の漂う空気を残したまま教室を去った。
十分も無い束の間の自由時間も転入生への質問タイムになる事は無く、それどころか誰も彼女に話しかけなかった。
そんな中で宮本さんはと言うと次の授業の準備を終えるなり古文単語帳に目を通していた。
最初の内は宮本さんを気にしていた者も数名いたのだが、各々も結局いつもの友達と雑談し始めたり、スマホをいじったりして、クラスはやがて転校生の事など忘れたように、いつも通りの喧噪に包まれた。
不運にも、俺はその隣の席だった。
――キーンコーンカーンコーン。
チャイムの音とともに教師が入って来る。
「はい、席についてくださいね~。単語テストですよ~。」
古典の先生はほのぼのとした女性だ。女性というか、黒板の高いところに手が届かない、四十肩のおばさんだ。この学校に若い教師は殆どいない。よしんばいてもそれは非常勤講師だろう。
騒がしかった生徒たちがテストという言葉に文句を言いつつも従順に着席したのはこの教師の人徳のなせる業だ。他には、ぶちギレられた数多の恐怖体験を数学の佐々木が流布しているのだが、その悍ましい伝説の数々に怯えているという説もある。
古典の授業は始めに古文単語の小テストを行う。先程まで騒いでいた生徒達は成績を捨てているか裏でがっつり勉強してきたかのどちらかだろう。
「それじゃあ七分でよーいぴっ」
先生は年齢を無視するにも程がある掛け声とともにストップウォッチを押した。
毎度の事だが微妙な気持ちになりながらテストを始めた。
そして七分後、突如として不安を煽るような警報音が響き、間隔が徐々に短くなったと思えば盛大な爆発音を轟かせた。
「タイムアップ~!それじゃあ隣の人と交換してね」
奇妙なタイマーの音にはもう慣れたが、隣の人がいる状況は初めての事だった。二年になってからはまだ一度も席替えをしておらず隣はいなかったのだが、今日からは違う。
そう思って隣の人を見やると、しかし宮本さんは一切こちらに目を向けていなかった。そもそも、その横顔も髪が遮って隠している。
どうすべきか迷ってから、隣の席の彼女に答案用紙を差し出した。
「宮本さん」
だが彼女は怯えたように肩を震わせたのみで、こちらに見向きもしなかった。その反応は生理的に嫌悪されているようだったからもう即解答用紙を引っ込めた。
そうなれば、いつものようにわいわいと丸付けをする生徒達から聞こえる笑い声が、羞恥のせいで自分に向けられたように感じられて肩身が狭くなった。
先生は気付いたのか気付いていないのか僅かにこちらに視線を寄越したが、そのまま解答を黒板に書きながら解説を始めた。熟年の教師にもこういった生徒は扱い辛いものなのだろう。
結局俺は自身の答案に赤ペンを走らせた。いつも通りだ。泣いてない。
古典を終えて次の休み時間に入った。次の体育に向けて、男子は廊下で体操服に着替えていた。教室は女子が占領している。反抗する勢力はもういない。
「湊はお疲れ様だな」
からかうように声をかけてきたのは神宮寺裕翔だった。
唐突だから最初は何の事か分からなかったが、つい先程の宮本さんとの事だと思い至る。
「小テストの事見てたのか?」
「まあ、そりゃあ気になるって。俺だけじゃない。さすがに同情するよ」
「同情するなら笑うなよ。なんか恥ずかしいわ」
他の生徒にも見られていたと思うとなんだか居た堪れなくなる。
裕翔は少し真面目な顔をして顎に手を添えた。
「少し心配なんだ。彼女のこと」
「何で?」
裕翔は良い奴だ。おおよそ宮本さんが孤立したり、居づらく感じる事を心配しているのだろうと目星は付くが、その状況は自ら選ぶ結果だろうから、裕翔の真意が気になった。
裕翔は場の空気が重くならない程度の声音で慎重に言葉を選んだ。
「…怖がっていただろう」
「ごめんなさい」
自覚があったから反射的に謝ると裕翔は苦笑した。
「いや、そうじゃなじゅて」
「おまたせ。何の話をしてたの?」
佐倉歩夢と合流した俺達は下駄箱に向かった。
「ええと――」
「あ、宮本さんの事だね。なるほど。でも宮本さんは湊を怖がってた訳じゃないらしいよ。え?怖い?そうかな~?あはは」
「おい来るなり俺達を置いて行くな」
佐倉は訊くなり自答し、一人楽しそうに笑った。
本人曰くどこにでもいる微精霊と会話しているらしいが、他の人からは精霊の声など聞こえなければ見えもしないため、ぶっちゃけ、はたから見れば危ない人だった。
「対人恐怖症かもね」
「コミュ障って事か?というか精霊は人の心が読めるのか?」
上履きを履き替えながら尋ねた。
「ううん。見たり聞いたりはするけどさすがにそこまでは出来ないんじゃないかな?え?うん。へ~。…。そうなんだ。最高位の精霊なら魂は見えるかもしれないって。でも最高位の精霊ってどういう精霊なの?。神様?違う?そもそも――――」
昇降口を出て階段を降りながらも佐倉は転ぶことなく、違う世界と交信し続けていた。
もう駄目だろうと裕翔に向き直った。
「なんの話してたんだっけ?」
「さあ、――ああああああぁぁぁ」
「えええ⁉」
突如、淡々と話していた裕翔が階段を踏み外したのだった。普通に会話していたものだから全く反応出来ない。
普段の凛とした声とはかけ離れたなんとも情けない声だ。
下手すれば大怪我だが、階段を落ちた裕翔は体操服の女子生徒に支えられていた。
筋肉の引き締まったしなやかな体躯、腰元まで真っ直ぐ伸びた良く手入れされた美しい黒髪、切れ長の隙の無い眼つき、表情を崩さない口角。裕翔の護衛をしている時任家の、時任詩織さんだった。
「ふぅ、ありがとう。注意不足だった」
「いえ、私も反応が遅れてしまい申し訳ございません」
裕翔は体勢を立て直すと何事もなかったかのようにいつもの表情に戻り、詩織さんは何故か謝った。
裕翔が階段を滑り落ちるのを久しく見なかったから忘れていた。この男、器量、性格、頭脳、全ての分野において超が付くほど高スペックなのだが、超が付くほど運動音痴だったのだ。
「びっくりさせるなよ…」
「いやあ、注意不足だった。やっぱり階段を降りながら考えるのは良くないね」
「そ、そうか」
正直、こいつは何を言ってるんだと思いつつも、本人は本気だから下手に笑えない。それ程運動のセンスが欠片も無いのだ。
そんな裕翔を当たり前のように補助した詩織さんは、眉一つ動かす事なく律儀に一言挨拶をする。
「こんにちは」
「こ、こんにちは。詩織さんが謝る必要はないと思うけど…」
「いえ。時任家の護衛として恥ずべき失態でした」
「そ、そう」
俺にはどこに彼女の失態があったのか分からなかったが、本人が本気だから深く掘り下げはしなかった。
この二人の関係は、神宮寺家と時任家が代々協力関係にあり、神宮寺家の護衛を時任家が担っている事に由来するらしい。それ以上に見える事もしばしばあるが。
俺と裕翔と詩織さんは選択科目でバドミントンを選んでいた。
「今日こそ湊を倒す」
念入りにストレッチをしながら裕翔はそんな無謀な事を言う。
普段と立場が逆転している事がコメディのように感じられた。
こいつは俺より余程凄い人間だ。
神宮寺家はずっと昔から魔術の大家としてその名前を知らない人などいない。現在は世界規模のシェアを誇る大企業として君臨している。裕翔は三男だがその実力で世間からも注目されている有望株だ。
佐倉だってそうだ。あんなヤバい感じだが、精霊の存在を証明した事で世界を震撼させた超が付くほどの変態、もとい天才だ。
二人とも、どこかが欠落していてもそれを補ってなお余りある才能を持っているのだ。
裕翔がいくら運動音痴とはいえ、練習の賜物か、洗練された構えをとる圧は凄まじかった。眼光が煌めき、存在感は冴え渡っていた。
「いくぞ」
天才はどこか欠けているなんて言うがそれは一つしかない傷が目立つだけなんだろう。努力すれば補えるのだ。それに比べて凡人は全身傷だらけだ。
「はっ」
そして、気合の入った声とともにラケットを振りぬいた。
俺は気構えた。
だがそれは、杞憂に終わった。
裕翔は空振ったのだ。シャトルが足元に落ちる。
「…え?」
「ごめんごめんもう一回」
そう言って裕翔は再び同じように構えた。
「はっ」
またシャトルは裕翔の足元に落ち、
「はっ」
それでもシャトルはネットを超えない。
「はっ」
フレームに当たって間抜けな方へ飛んで行き、
「はっ」
…。
「はっ。あ!やっと入った!」
「ほい」
難なく返すと裕翔はしかし空振って腹で受け止めた。
何も言えなかった。
「昨日、スマッシュの練習したんだ」
「…」
「サーブってどうやるんだっけ?」
前言撤回。そもそも裕翔はただの運動音痴ではなかった。
思い返せば、最初の授業はそもそもガットにシャトルを当てる事が出来なかった。シャトルを打てなければバドミントンなど出来る訳がなく、かなり自主練をしたようで前回はサーブを打てるようになっていた。
にも関わらず、曰く他の練習をしたせいで忘れてしまったらしい。
勇ましい慧眼に爽やかな佇まい、溢れる気品、それら全てを、運動が出来ない人間特有の癖のある挙動が台無しにしていた。
他の試合相手を探して体育館を見回すと、ふと車椅子が目に留まった。体育館の扉付近には宮本さんがいた。異な事に制服姿の彼女の背後には詩織さんが付き添っている。
双方口を開くことなく無表情で、得も言われぬ気まずい空気だと思ったその時、宮本さんと目が合った。
一瞬の事だったが、宮本さんは漆黒の瞳に怯えを宿すと体育館から遠ざかっていった。
そんな俺を見て哀れに思ったのか、無関心にも見えるが、詩織さんはこちらに軽く頭を下げ、宮本さんに付いて行った。
「当たった!」
「え?」
湊の声にはっとしてそちらを見るとシャトルが顔面目がけて飛んできていた。
気付いた時にはもう遅く、鼻頭に直撃し、軽く痛みが走る。
「ごめん、大丈夫か?」
笑いを抑えきれずに近寄る影がもう一つあった。
「はは…、湊君、だ、大丈夫ですか」
白銀の瞳が体育館の窓から差し込む陽光に映え、純白の髪をポニーテールに纏めている彼女は初宮白花と言い、彼女もまた同じクラスだった。
「笑うなら裕翔にしてくれ」
「本当にごめん。でも今のは俺の一番のサーブだったと思う」
「謝る気ないだろ…」
初宮は笑いを抑えようとするがやはり抑えきれていない。
「それで、何を考え事をしていたのですか?」
「…いや、何でもない」
初宮は誰もいない扉の方を眺めて不思議そうな顔をした。
体育の授業を終え、ジャージと化学の教科書を取りに教室に戻る。実験はなるべく肌を隠さなければならない。そこまで強い規則でもないから半袖半ズボンの体操服のままの生徒もいるが自己責任だ。
授業終わりの下駄箱はいつもは混みあっているのだが、裕翔の練習に休み時間ギリギリまで付き合わされたため人混みは少なくスムーズに移動できる。だからと言って嬉しくも何とも無いが。
「そう言えばクラメル教授の新しい魔術論文読んだ?」
「え、誰それ?」
「もちろん。物理学を魔力で議論するって話だね。ミクロとマクロで現代の科学では限界があると言っていたけれど、今世紀中に可能になると思う?」
裕翔の問いかけに佐倉が答える。
俺は無論ついていけない。普通の高校生は論文など読まない。
「湊も少しは最近の勉強をした方がいいぞ」
「お前達が変態なんだろ。普通は外国の教授は知らない」
聞く限り英語の論文だが、普通の高校生は読むために必要な英語力や知識など持っていない。
「いや、クラメル教授の名前くらいは聞いたことあるだろ」
「そんなおっさんの名前は知らない」
それも外人となればなおさら知らない。
「あの人は正真正銘人類史上最高の天才って呼ばれてるんだよ?」
「テレビ見たらやってるだろう」
「いや日本のテレビが外国人の事なんてやる訳…」
言葉尻が若干萎んだのは一人で教室を出てくる宮本さんの姿が見えたからだ。
車椅子で抑えた速度で進んで行く。殆どの生徒が彼女を追い抜いて行った。
だがそんな中、一人の女子生徒が声をかけた。眼鏡をかけたその女子生徒は同じクラスの、確か…小泉さん?大泉さん?とかそんな名前だった気がする。あまり積極的なタイプではなかったと思うが少し注目が集まった。
「み、宮本さん…、一緒に行かない?」
彼女は恥ずかしがりながらも宮本さんと顔を合わせた。不安と期待の入り混じった表情だ。緊張を孕んだ声音には優しさを感じる。
――一切目を合わせることなく宮本さんは口を開いた。
その言葉が一瞬信じられなかった。
「嫌」
突き放すように言い放つと、涙を滲ませつつも困ったように笑って謝る和泉さんの横を通り過ぎて行った。内気な女子が勇気を出して声をかけたのを無碍に断ったのだ。
「は?」「え?」「ひど…」「和泉さん可哀そう」そんな声がひそひそと聞こえてくる。
羞恥に顔を染める和泉さんを周りの友達が「だ、大丈夫だって」「ちーちゃんは頑張ったよ」と慰める。
冷たい視線に晒される宮本さんは一度も振り返る事無く、俺達の視界から消えていった。
「ほら、湊だけが避けられてる訳じゃないでしょ?」
「そうだな」
宮本さんが強気に断った事には驚いたが、確かにそれは避けるという言葉が相応しいと思った。
その後、化学とその次の数学では宮本さんは特に問題を起こさなかったが、噂が拡散したのか、彼女の孤立は完全に確定したのだった。