ep1.本当に優しかった
やめてくれ。
なんでそんな優しい目で俺を見るんだ。
なんで慰めの言葉を投げかけるんだ。
信じるに決まっているじゃないか。
信じるべきじゃなかった。
もう誰も信じられない。
なにも言わないでくれ。
空虚な称賛ほど醜いものはない。
上辺だけの愛情ほど質が悪いものはない。
うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。気付いてんだよ。
あいつらが謀った事も。
お前らがなじって、蹴飛ばして、踏みにじった事も。
ああ気持ち悪い。悲しい。悔しい。
あ゛あ゛あ゛あ゛あ――
ぐるぐると回って平衡感覚が分からない。
ずっと意味のない感情が頭蓋骨を叩いて脳を揺らしている。
その度景色が切り替わる。
遠く聞こえる声ははっきりしない。
どこからともなく現れた無数の手が肢体を引き裂く。
体は金縛りにあったように動かない。
動け動け逃げろ逃げろ逃げろ――
「――壮太君。朝だよ。」
「――っ」
俺は大きく息を吸い込んだ。息苦しかった。
「おはよう」
声がした方に顔を向けると義姉の顔が近くにあった。
少し心配そうな顔をしている。
俺は布団越しに添えられた手を払うように体を起こした。
「ご飯できたよ」
「ああ」
返事を聞くと彼女は名残惜しそうに部屋から出ていった。
パタリと閉まる部屋の扉を聞いてからハァと大きく息を吐いた。
朝から気分が悪い。
寝覚めの悪い夢だった。
醜いブス顔だった。
泣きっ面に蜂とはこの事を言うのだろう。
部屋の掛時計を見れば五時を少し過ぎている。少し伸びをした。また一日が始まるのだと実感される。
気持ちが悪い。
俺はベッドから降りて洗面所で顔を洗う事にした。
鏡を見ると自分の頬にうっすらと白い線ができていた。
もう先ほど見た夢の内容すら思い出せない。
どんな夢を見ていたのだろう。嫌な夢だった気がする。
でも何故だろう。
懐かしいような、愛おしいような。そんな気持ちが溢れてくる。
心が温かくなって…。
俺は訳も分からないままじんと熱くなる目頭を、冷水で洗い流してリビングに向かった。
「おはよう」「おはよう」
先に食べ始めていた父親が俺に気付き、母親もそれに続く。
「おはよう」
俺も返事をしてから席に着く。気持ち悪い。
朝ご飯は六枚切りの食パンにコンソメスープ、目玉焼きの隣にはベーコンとミニトマト、ブロッコリーが添えられている。
いただきますと手を合わせ、それからは黙々と食べ続ける。意味もなく手を合わせた方が事は無難に運ぶのだから仕方が無い。
父親と母親は微笑んだ。
「今日もおいしいよ」
「ええほんと」
息子の代わりに君が本当の娘なら良かったのに。とでも言いたげだ。
義姉はまんざらでもなさそうに照れて見せた。
「口にあってよかったです、お父義さん、お母義さん。」
両親と俺の間には会話などない。あるはずがない。
「壮太君もおいしい?」
俺に問いかける彼女は俺よりも年上。正確な年齢などどうでもいいから覚えていない。
「ああ、おいしいよ」
「ほんと?良かった」
俺のおざなりな返事にも嬉しそうにしている。その様子を見守る父親と母親はつられて顔を綻ばせた。
俺もそのうすら寒さに頬が緩んだ。本当に朝からストレスが溜まるものだ。
いつからか定着したこの家のルールとして、滅多に帰宅しない二人が帰ってくればこのように共に食卓を囲まなければならないのだ。
その上帰って来たところで二人は朝が早い。なんならわざわざ家に帰る方が大変だろうに、こうして朝早くから人を巻き込んで家族ごっこに興じるのだ。
いてほしいだなんて思った事はない。気持ちが悪い。
……。
…いや、一日だけある。
その日はどちらも外泊で、
二人がいなかったせいだ。
二人がいなかったせいで。
いないせいで…。
いないせいで、
せいで?
視界は暗転し、縦に走った隙間から僅かに光が差し込んでいた。
義姉の姿が見える。
「絶対に出ちゃだめだよ…!声も出しちゃだめ。ずっと静かにしてて…!――私を信じて。絶対に」
生命の危機に瀕した本能の恐怖で、声が出ず、脚に全く力が入らなかった。
彼女は続けた。
「壮太君のお母さんとお父さんは、あなたを本当に愛している」
ふっと微笑み、最後にそっと言い残した。
「私も」
それきり視界はぼやけて何も見えず、クローゼットの扉は閉ざされた。
奇妙なほど静まり返ったクローゼットの中で自分の呼吸の音が収まらず、焦って口を手で覆うとヒューヒューと音がする。必死に自分の呼吸を落ち着かせようとしたけれど、どっどっと流れる血流が耳に響き続けた。
これはきっと悪い夢だ。
どれくらい経ったろう。
「貴女がここの娘さん?」
しゃがれた、それでも若い男の声。
明るい声音が酷く気持ち悪くて肌が粟立った。
「そうよっ…」
精一杯の虚勢を見せる彼女の声は明らかに震えていた。
「へえそう」
男が一言発すると、
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
絶叫が轟いた。
俺は口から内臓が飛び出そうになりながら、込み上げる嗚咽をなんとか抑え込んだ。
しばらくしてから聞こえたのは液体をまき散らしたような音と、どさっとある程度重みを持った物が、地面に激突する音。
気管に詰まった鼻水が音をたてないように、必死に呼吸を抑えようとするしかなかったが、こみ上げる嗚咽が抑えきれそうになかった。
息が苦しい。
これは夢じゃ…、ない。
一歩、また一歩、足音が聞こえてくる。
声を出したら終わりだ。
見つかったら、死ぬ。
だというのに、涙が止まらなかった。
恐怖と、あとはそう、申し訳無くて。
今更懺悔しても何も意味がないのに、悔やんでも悔やみきれないんだ。
俺は彼女が死ぬ最期まで信じていなかった。
あの優しい笑顔の裏に、どす黒い悪意が眠っていて、結局俺を嘲笑ってるだけなんだと思っていた。
俺を騙して殺す積りだと疑った。
毎日毎日、何度も陰で呪った。
視界に入ればいつでも死んでくれと願った。
彼女は俺が疑っていた事を知っていて、俺のクズっぷりだって気付いていた。
それなのに、なんで最後まで、本当に優しかったんだ!
何で俺なんかを守ったんだ!
そんなの、普通あり得ない。
命を賭して俺を守るなんて普通じゃない。
…今更気付いた。
彼女がどんな思いで接していたのか、彼女がどんな思いで死んでいったのか。
今頃気付いても仕方がない。
とっくにどうしようもない。
ああそうか、
――本当に愛されていたんだ。
感情が決壊した。
嬉しくて、悲しくて、やりきれなくて。
途端、鼻水が気管に入って盛大にせき込んでしまった。
…終わりだ。
嫌な人生だった。
俺はクソ野郎だった。
ああ死にたくない。
クローゼットの扉は開け放たれ、目の眩むような光が一気に差し込んだ。
いっそのことすがすがしかった。
「やあ」
チカチカ眩しくて何も見えない。涙でぼやける。
「君がここの一人息子だね?」
焦点が合わない目で必死に彼女の姿を探すと、
「――っ」
箪笥の前に、とても鮮やかな紅を見た。
目の焦点が合った時、
彼女の横顔が見えた。
「ああああああああああああああああああああああああああ!」
すぐに駆け寄って転ぶように屈んだ。
「おい。しっかりしろよ…。なあ。なあ…!」
次こそは信じるから。
絶対に信じるからさ。
あの優しい笑顔を、また見せてくれよ!
「死ぬなよ!今まで、今までずっと…」
その次の言葉は紡げなかった。
伝えようにも、彼女の首は取れかけていて、その瞳は何も映していなかった。
次なんてものは無かった。
足音が近づいてくる。
そうだ。死んだらまた会えるかもしれない。
――。
――――。
だが、いつまでたっても痛みは襲ってこなかった。
振り向けば、男は倒れていた。
「――は?」
その全身にはいくつもの長剣が突き立てられていた。
なんだよこれ。
なんなんだよ…。
意味が、分からない。
「もう大丈夫だよ」
そこには知らない少女がいた。
紅く染まった室内で、LED照明を照り返す眩い白髪、白銀色の宝石のような瞳、圧倒的存在感。
「――っ⁉」
本能的に畏怖を覚え、思考が真っ白になる。
その少女の透けるような双眸は慈愛を湛えていた。
「大丈夫だよ」
透きとおった声音。
見ず知らずの少女が俺を助けた…。
「…ふざっけるなよ‼」
何が大丈夫だ。
何も大丈夫じゃない!
「なんでもっと早く来なかったんだよ‼」
怒りが止まらなかった。助けてもらった?いや違う。
真逆だ。
「あと少し、ほんとに少しだけ早く来てくれてればこいつは生きてたんだよ!」
抱いた死体は温かくて、柔らかくて。
涙に濡れた寝顔、口端からなおも垂れ落ちる鮮血。なんて穏やかなのだろう。
「なあ…、なあ。」
俺は死ななかった。
死ねなかった。
死にたくなかった。
生きていてほしかった!
「そしたらさ、今までごめんって言えたんだよ。」
「ありがとうって伝えられたんだよ。」
「…なんで」
「なんでお前が泣いてるんだよ!」
「――朝ですよ。湊君。」
「――っ」
俺は大きく息を吸い込んだ。
ああ。
最悪なところで目が覚めた。久々に昔の夢を見た気がする。
一日の始まりを告げたのは、夢の最後に出てきた白髪の少女だった。
「おはようございます」
その容姿は三年前と全く変わっていない。
「おはよう。すぐ行く」
わざわざ起こしてくれた彼女の後姿に感謝し、ベッドから降りて立ち上がる。
三年も前の事だ。
こんなもの、とっくに過去になって、記憶は薄れている。
もう諦めきれたし吹っ切れた。
それでも、悲しかった。
今更こんな夢は見たくなかった。