虚言癖
僕はその支店に長く居られなくなりました。
原因は僕の虚言癖です。
僕は他の社員に自分の業務の無能さをどれだけいじられても苦になりませんでした。
また、不細工、チビ、デブ、落ち武者禿げ、といった自分の見た目のことを、やんわりといじられても意外と平気でした。
しかし、そのいじりが今更どうすることも出来ない自分の過去の領域に及ぶのを、僕はとても警戒したのです。
四十七歳独身、童貞、大学卒業後引きこもり。
社員の僕に対するいじりが、これら一番触れてほしくないデリケートな領域に及ぶとき、僕はいつも苦し紛れの嘘をついて、それを回避しました。
嘘をつき、その嘘の辻褄を合わせに、また別の嘘をつく。嘘をつき通す為に、まず自分がその嘘に騙される努力をする。
そんな風に嘘に嘘を重ねていたある日のこと、緊急事態宣言中の閑散としたオフィスで、暇を持て余した薄ピンクのウレタンマスクの女性社員が、以前僕がチラッとだけ話した、僕のいる筈のない彼女の、存在しない愛犬の話を、やたら詳しく聞いてきやがったのです。
「僕の彼女は、ロシア人の父と日本人の母とのハーフさ。彼女のお父さんはロシアのNASAに勤めていて、そこにいた宇宙犬ライカの血を受け継ぐ血統書付きのシベリアンハスキーの子犬を、日本に送ってもらって飼っているのさ」
と僕は即答することが出来ました。我ながら舌滑らかに奏でられた会心の嘘でありました。
ところがその社員に、ロシアの宇宙開発機関はNASAじゃなくてロスコスモスであること、宇宙犬ライカはモスクワをうろついていた雑種の野良犬であることを指摘され、そこにいた数人の社員の前で豪快に揚げ足を取られてしまいました。
その日から僕のニックネームは、ホッチキス係長から「メツレツ君」に変わりました。「メツレツ」とはどういう意味だろう。「猛烈」とか「激烈」とか「爆裂」などといったワイルドな語感があって何だかかっこいいな。何のことはない、メツレツとは、「支離滅裂」の滅裂でした。
メツレツ君のおっしゃることは無茶苦茶だ。
一体全体あの新人のオッサンは何者なのですか。
何故あんな気持ちの悪い中年が採用されたのでしょうか。
あいつが話し出すと何だかどっと疲れる。
悪寒がする。
まさか、自分の嘘がばれていないと思っているのかしら。
君の発言は人をヒヤッとさせる何かがあるね。
テメエはもうしゃべるな。
お願いです、私に近づかないでください。
汚らわしい。
存在自体が痛々しい。
で、いつ退職するの?
徐々にその支店の社員たちは、オフィスや廊下で、近くに僕がいることなどお構いなしで僕の噂話をするようになり、やがて微塵の遠慮もなく僕に向かって暴言を吐くようになりました。
そんな社内の雰囲気をいよいよ問題視した支店長が、僕に名古屋市近郊の支店への異動を命じたのです。こうして僕は本日新しい支店に配属されて来たのであります。
ちなみに、外出時にマスクを着用することは、今ではすっかり社会の常識になっています。
今日から新たなるこの支店で、新たなるこの街で、
人々が漏れなくマスクを着用するようになった新たなるこの世界で、
僕は社会人として上手くやっていけるのでしょうか。
まったくもって自信がありません。