ホッチキス係長
氷川物産は、住宅設備機器や管工機材などの卸売を行う企業です。
メーカーと工事業者との間に立ち、商品と情報をスムーズに往来させるのが主な仕事です。地域のお客様に密着した営業活動を行い、多種多様な仕入れ先メーカーからお客様が求める商品の情報を迅速に提案し、その商品を受注し、配達、納品までを行います。
年明けと共に新型コロナウイルスは本格的にこの国に上陸し、梅の花が咲き乱れる頃には、都市部を中心に感染の拡大が始まり、マスクやトイレットペーパーの買い占め騒動が勃発しました。
それでもまだこの頃は、マスクの効果は限定的だとか、コロナはただの風邪、暖かくなればインフルエンザのように自然消滅する、などといった専門家の意見もあり、街中でマスクを着用する人としない人の割合は、おおよそ半々だったように記憶しています。
三月に入り、政府が全国の小中高校などに対して休校を要請し、企業はいよいよテレワーク導入の検討を始め、メディアからステイホームという聞き慣れない言葉が垂れ流され始めたこの時期に、僕は愛知県名古屋市にある氷川物産の支店にて、見事に社会復帰を果たしたのでした。
いや、これまで一度も就職したことが無いわけですから、社会復帰ではなく、社会人デビューという言葉が適当ですね。四十七歳の遅すぎた社会人デビューです。
会社での僕は、さながら竜宮城からかえった浦島太郎でした。
二十五年間、時間の止まった世界の住人でしたので、社会人としてなすべきことが、まるでなっておらず、何がどのようになっておらぬか、それすら理解しておらぬ状態でした。
それに加えて四月に入ると全国で緊急事態宣言が発令され、氷川物産も、時短営業、時差出勤、在宅勤務などが速やかに導入されました。前例のないワークスタイルに、会社全体が慌ただしく対応に追われる状況下で、我がことながらとてもしゃないけど中途採用の新入社員の育成なんかして頂ける空気ではありませんでした。
そんなこんなで一応は営業職として入社してからの二か月間、僕が遂行した業務といえば、渡された資料を指示された枚数分コピーすること、あとはその資料をホッチキスで綴じることぐらいでした。
いつしか僕は、他の社員からホッチキス係長なるニックネームで呼ばれるようになりました。