僕の生い立ちを少しだけ
新型コロナウイルスは、世界中の人々の暮らしに大きな影響を及ぼしました。多少の差こそあれ、世界中の人々の当たり前の日常を、残忍に剥ぎ取り、多少の差こそあれ、世界中の人々の人生を、無慈悲に狂わせました。
かくいう僕も、新型コロナウイルスによって、これまでの人生が大きく狂いました。僕は、この新型コロナウイルスの襲来により、二十五年間続けた安寧な引きこもり生活に終止符を打ち、会社務めすることを余儀なくされたのです。
僕の名前は、穴太晴夫。僕の父が言うには、うちの先祖は滋賀県で石工職人をしていたとか何とか。詳しいことはよく知らないが、とにかく聞きなれない苗字です。
思い返してみると、小、中、高、大学と、出会う人たちが、僕の苗字を正しく「あのう」と呼んでくれることはごく稀で、みんな誤って「あなた」と呼びました。そしてそれが必ずニックネームとなって定着しました。思春期の頃に、クラスメイトの女子から「ねえ、ちょっと、あなた」と呼び捨てにされると、なんだか古女房に呼ばれる亭主のような錯覚があり、勝手に気恥ずかしくなり顔を赤らめたものでした。
子供の頃から、親の言いつけをよく聞き、親の敷いたレールの上を歩いて来ました。親の言いなりの人生に疑問を感じたことは一度もありません。むしろ自ら望んで、外れないようしっかりと人生の車輪をレールにはめ込みました。自分という人間には、こんな生き方が性に合っているのだと、子供ながら悟っていたのでしょう。
昔から気が小さく、大人しい性格でしたので、学生時代は定期的にいじめに遭いました。でもどんな辛い時も、不登校になって親に心配をかけるようなことはせず、ただひたすら笑って耐えました。
僕は作り笑いの名人でした。どんなに酷いいじめも、満面の笑みでやり過ごしたのです。「辛くない、こんなの全然辛くない、むしろ愉快、ああ楽しい」そうやって自分で自分を騙していました。不思議なもので、とにかく笑ってさえいれば、心の痛みも体の痛みも、およそ三割ほど減少するような錯覚がありました。
学校の勉強は、よく出来きました。とにかく猛勉強して、一流大学に進学して、一流企業に就職して、いつか僕をいじめた連中を見返してやる。テメエら全員いつか顎で使ってやる。そんな復讐心だけで、当時の僕は生きていました。
学校の勉強は出来ましたが、僕は今でも自分が頭の良い人間だとは思っていません。僕はたまたま教科書から得た情報を一時的に脳内に保存して、テスト用紙にそのまま再生することが得意だったのだと思います。学校の勉強なんて芸事だ。この程度の芸事であれば、ある程度しつけをした犬や猿でもきっと出来る。どうしてみんなこんな簡単なことが出来ないのだろう。と当時から密かに思っていました。
そんな程度の低い芸事よりも、難しい投球を体全体で瞬時に分析してホームランを打つ野球少年や、面白いギャグを独自で考えてクラスメイトを爆笑させるひょうきん者たちを見るにつけ、僕なんかより彼らの方がよっぽど賢く思えて、持って生まれた自分の能力の低さに、打ちひしがれていました。
重ねて言いますが、当時の僕は、親の選んだ本を読み、親の選んだ計算式を解き、親の選んだ塾へ行き、親の選んだ友人と遊び、親の選んだ食品を食べ、親が選ばなかったテレビ番組を観ず、ただもう親の期待に応えるべく黙々と勉強する機械と化していました。
まるで親がリモコンで操縦する方向に愚直に進むラジオコンカーのようでした。
でも、これでいいのだ。このつまらない毎日との引き換えに、明るい未来行きの片道切符を、きっと手にするのだ。
盲目的に僕はそう信じていました。