エピローグ~進化の途中~
浴室からシャワーの水音がしています。
これから僕たちは、体を除菌して、服を消毒して、新しいマスクを装着して、警察に出頭するのです。
それから、僕は警察の取り調べを受けて。遅ればせながら母の葬儀を済ませて。
主任は闘病を始めて。速やかに癌を克服して。
二人は不要不急の外出を避けながら恋愛をして。
二人は密を避けながら結婚をして。
ベッドを共にして。マスクの上からなんかじゃない、熱いキスを何度もして。
きっとその頃には新型コロナウイルスは終息していて。
きっと僕たちはマスクを外したお互いの素顔を知っていて。
床に転がった鞄から嘘日記を取り出し、さっき主任についた三つの嘘を、忘れないうちに書き留めます。
ラブホテルの一室で、四十七歳童貞、無能で、肥満の、落ち武者禿げが、全裸で胡坐をかきながら、大学ノートに自分の嘘をせっせと書き留めている。
リアル。
これが僕の現実。
生きている。
僕はこの時代に、このような生態で、かろうじて息づいている。
大好きな人と、同じ空間で、同じ時間を、過ごしている。
信じられない。
嘘みたい。
嘘みたいにリアルな現実世界。
前進しよう。待ち受ける陰惨な未来。どうしようもない終着点。そんなもの百も承知だ。
それでも僕たちは前へ進もう。
どんなに辛い環境に置かれても、そんな時こそ陽気に変態をしよう。
海を捨て、しっぽを引きちぎり、燃え盛る炎を操り、天災と共存し、身も心も、惜しみなく変化を続けよう。
変わりたい。変わり続ける者でありたい。
その気持ちだけは、ずっと変わらずに持ち続けよう。
僕たちは人類の最終形態なのでしょうか?
そいつはおこがましいことはなはだしい。
現代は末世なのでしょうか?
そいつはおこがましいことはなはだしい。
しょせんウホウホ。まだまだウホウホ。
僕たちは進化の途中なのです。
『こうして、二十五年間引きこもりだった男は、美しい女房と、いつまでも、いつまでも、幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし』
嘘日記の背表紙の裏に、そう記しました。
さあ、あとは、ここまでの白紙のページを埋めるだけ。
「あなたー、私、出たよー、シャワー浴びて、いいわよー」
おっと、脱衣場から、女房が呼んでいる。
ヨッコイショ、と立ち上がり、何と無しに部屋を見渡す。
おや、ベッドのところで、仮面に不織布マスクをした僕の母が、空中から首を吊ってぶら下がっています。
「まさか、いつか平穏な未来が訪れるだなんて、そんな甘い夢を見てはいないでしょうね。オホホ。まさか。まさかよね。ねえ、晴夫さん、私とウイルスのいないお家にこもって、また面白い漫画をたくさん描いてちょうだい。お願い、晴夫さん、私を置いて行かないで」
仮面の向こう側から、呻くような声。
「消えて下さい、お母様」
僕は鼻で笑った。
「このクソガキ! てめえだけ幸せになるつもりかよ!」
どだいこの世では聴いたことのない旋律で母が咆哮する。
「今日までありがとうございました」
僕は軽く一礼し
「さようなら」
そう静かに別れを告げ、まぼろしの横を通り過ぎる。
尾てい骨がうずく。
僕はまだ進化の途中だ。
(完)
最後までお読みいただきありがとうございました。
評価をいただけると手放しで喜ぶ単純な野郎でございやす。何卒ひとつ、よろしく、どーぞ。
えーと、あのー、今後ともよろしくお願いします。




