悲しきベイブ
「ちょと、重いんですけど。痛いんですけど」
どれぐらいの時が過ぎたのでしょう。
「近い。離れて。ソーシャルディスタンス」
二人で少し眠ったようです。あるいは気を失っていたのかもしれません。
主任は、すっかり落ち着きを取り戻していました。
僕は、主任の体に回していた腕を解き、ベッドから下り、全裸のまま傍らの床にドスンと胡坐をかき、深い深呼吸をしました。
主任は乳房を放り出したまま上半身を起こし、陰毛も露わになったまま、ずれた不織布マスクのポジションのみ、速やかに直しました。
「ねえ、あなた」
「はい」
「私の話、聞いてくれる?」
「恐らく、それは、辛い話ですね」
「そう、とても辛い話」
「嫌です。辛い話は苦手です」
「聞きなさい。命令です。私は話したい。あなたに聞いて欲しい。あなたになら、きっと話せる」
部屋には有線放送が静かに流れていたようです。今頃になってBGMが耳に入ってきました。
しゃがれ声のフォークシンガーが、ブルースハープを吹きながら、時代は変わる、時代は変わる、と繰り返し歌っています。
全部嘘でした。バツニ。最初の夫が黒人。二度目の夫がマゾヒスト。黒人とのハーフの一人娘。セックス依存症。異常性欲者。アベノマスクの製造に関わった親戚のおじさん。踏み切りで電車に撥ねられて死んだ父。宇宙人に埋め込まれたマイクロチップ。等々。何から何まで、全部嘘。
そもそも主任は、未婚どころか、まだ処女でした。
理由は重度の男性恐怖症だからです。
男性が近づくだけで体が痒くなり、長時間密接していると、そのストレスから皮膚に発疹が出る。体のあちこちが真っ赤にただれ、痒くて夜も眠れない。
「でも不思議ね。あなたは、出会った時から、ほんの少し痒いだけなの。痒くない訳ではないのだけれど、少しだけ、ほんの少しだけ痒みを覚える程度なのよ。うん。いい感じ。あなたは、何だかいい感じ。私、あなたといると、調子がいいの」
「それは、言い換えれば、僕は主任に異性として見られていないということですね」
「私、あなたとなら寝られると思った。そして、これを機に、男性恐怖症を克服できるのではないかって。その為ならば、あなたに抱かれてもいい。室内で座敷犬とじゃれ合っていたら、気付くと盛りのついた犬コロに処女膜を破られていた、みたいな感じで初体験を終えられたらそれでいい、そう思ったのよ」
「異性どころか、人間扱いされていませんね、僕」
「でも駄目ね。ぎりぎりのところで、あの父の顔が浮かんでしまった。心が壊れてしまった。ごめん。ごめんなさい」
主任の男性に対する恐怖と拒絶反応は、実の父に植え付けられたトラウマが原因でした。
主任が幼い頃に両親は離婚していて、一人娘の主任は、父に育てられました。
主任曰く「父は、真性の鬼畜」だったそうです。
シマブクロという姓に、タマと名付けられたことについては、学校で男子生徒に「やーい、このキンタマブクロ!」とからかわれる度に、父に殺意を覚えぬ日は無かったそうです。
中学二年生の時、父からの性的虐待が始まりました。父は娘に、毎晩様々な行為を求めました。応じないと殴る蹴るなどの暴力を振い、奇声を上げて家の中の物を破壊して回りました。
「念のため確認しますが、主任のお父さんは、主任と血の繋がったお父さんですか?」
「そうよ、悔しいけど、私の中には、あの鬼畜の血が流れている」
「肉親が、娘に求めるって何を……」
「父は、私のヴァギナに自分のペニスを挿入する以外の、あらゆる性暴力を私にした」
中学を卒業すると、主任は実家を飛び出し、通信制の高校と大学を働きながら自費で卒業し、その後氷川物産に就職し、現在に至ります。
ここまで話すと、主任は「あー、スッキリした。よーし、こうなったら、ついでだ」と憑き物が落ちたように朗らかに笑い、その後は、自分の虚言癖が原因で、過去に氷川物産の社員から受けたいじめや、現在進行形で続いている嫌がらせなどを、時折諧謔を交えながら、軽やかに告白しました。
「驚きました。僕は、主任の嘘に、まるで気が付かなかった」
「あなた、他の社員に、私の噂とか、聞かなかったの? 普通聞くでしょう? そうすれば、私の正体なんてすぐにばれそうなものだけど」
「いやあ、だって僕、この支店に異動以来、主任以外とほとんど会話していませんから」
「そういえば私も、最近あなた以外の社員と会話らしい会話をしていないわ。あはは。ほーら見える? この見渡す限りの荒野。変ね、人も物も溢れ返っている筈なのにね。ここは、人口僅か二人の国ね」
「僕には荒野なんて見えません。主任に僕の国を侵略されてからというもの、僕の毎日は窮屈でなりませんよ」
「うふふ。言ったわね。覚えていらっしゃい」
「とほほ」
違う。違うんだってば。俺じゃない。君のお探しの人は、俺じゃないんだってベイブ。
しゃがれ声のフォークシンガーが叫んでいる。
ブルースハープが空間を震わせる。
僕も正直に話そう。主任になら正直に話せる。主任なら分かってくれる。きっと許してくれる。話したい。主任にすべてを打ち明けたい。
僕は襟を正すように、ネクタイを締め直すように、内閣総理大臣から貰った小さな布マスクを正しました。




