僕です! 僕がいます!
「許して下さい」
それは、秋の夜の名も知らぬ虫の囁きのようでした。
小さな虫が羽を微かに擦り合わせるかのように、確かに女体がそう鳴きました。
僕はマスクを剥ぎかけた指先を止め、半分醒めてしまった頭で考え始めます。
これは何かが違うのではないか?
そして、考えれば考える程、そこから導き出される残酷な答えに背筋が凍り、思わずマスクから手をすくめました。
女体は、小さく弱く震えています。
その震えは、水道水をはち切れんばかりに張った水風船のようでした。
もし僕が今、細い針で軽く一突きすれば、この女体は一瞬で炸裂するでしょう。
「全部、嘘ですか?」
女体に、言葉の針を刺しました。
「許して下さい! 許して下さい! 許して下さい!」
けたたましい絶叫。
「許して下さい! 怒らないで下さい! いじめないで下さい!」
飛び散った女体の内面が、外界で荒れ狂います。
「何でも言うことを聞きますから、どうか許して下さい!」
おもちゃ売り場の前で癇癪を起した子供のように、手足をしきりにばたつかせています。
「許して下さい! 許して下さい!」
よく見ると、全身の皮膚が軽い痙攣を起こしています。
「はが、はがが、ふが、ふがが」
時折白目をむき、嘔吐するような声を上げ、呼吸困難になって苦しみます。
こんな時、先ず何をどうすればよいのか、僕にはさっぱり判断がつきません。
とりあえず主任の生態を、スコップで掘り起こした土の中で蠢くミミズを発見した時のように、注意深く観察していました。
しかし、さすがにこれは危険だ、死んじゃうかも、と段々怖くなり、でもだからと言って成す術のない自分が不甲斐なく、思わず主任の体を羽交い絞めにします。
「大丈夫! 僕です! 僕がいます! 僕です! 大丈夫です!」
僕は、暴れる主任を強く抱きしめ、そう声を掛け続けたのでした。