ありのままの自分? そんなものはない
嘘日記を、読まれた!
あ、そうだ、舌を噛もう。今ここで盛大に舌を噛み千切って死んでしまおう。
あの世で閻魔大王に引っこ抜かれる前に、自ら舌を噛みちぎって、血液をマーライオンの如く滾々と吐き出して、この愚にもつかない人生の幕を閉じよう。
は~い、注目、僕ちゃん、死にま~す!
「へー、面白い漫画ね、あなたが描いたの?」
黙々とノートを読んでいた主任が、ぼそりと言いました。
「え! それ、どれ、あ、ああ、あああああ、そう、それ僕が描きましたあ」
嘘日記じゃなかったあああ! 漫画だったあああ!
僕が昨晩母に読ませた漫画だったあああ!
今朝は慌てていたからな、どうやら間違えて鞄に入れてしまったのだな。
兎にも角にも、たたた、助かったあああああああああ。
「この漫画にあるように、マスクを装着して生きることは、我々人類の進化の過程で不可避な行動なのかしら。あなたはどう思う? またいつかコロナ以前のような、マスクのない生活が戻ってくると思う?」
「うーん、どうですかねえ。それは難しいかなあ。僕は例えコロナが終息したとしても、何かしらの形でマスクの文化は根付くと思います。
て言うか、そもそも新型コロナウイルス終息するのかよって話ですよね。ははは。
まあ、僕としてはマスクをすることはそんなに嫌いじゃない。いや、結構好きかも。
こうしてマスクを装着していなければ、主任の前でこのように毎日安定して立ち振る舞えるか、正直言って怪しいですからね。
こんな小さな布マスクですが、このしょぼくれた顔面にマスクを装着すれば、その都度、本来の自分ではない借りものの自分が誕生する気がするのです。
僕は主任と違って、ありのままの自分を出せない気の小さい人間ですから」
「ありのままの自分? 私にそんなものはない」
「……はい?」
「あなたにも、本来の自分なんて存在しない」
「どういうことですか?」
「上司の仮面、部下の仮面、女の仮面、男の仮面、頼もしき親の仮面、健気な子供の仮面、慈悲の仮面、恫喝の仮面、弱者の仮面、正義の仮面、私達は毎日たくさんの仮面を付け替えながら生活をしている」
「マスクの話でしたよね?」
「一人になって全ての仮面を剥いだつもりでも、それは素顔という仮面を装着したに過ぎない。そもそも私たちに覆い隠すべき自分なんて存在しない」
「マスクの話でしたよね?」
メガホンのように丸めた大学ノートを主任は僕に差し出します。
「さて、一応注意しておきます。休み時間にあんたが何をしようが勝手だけれど、くれぐれも勤務中に創作活動は止めてね、漫画家先生。さあ、外回りに行くわよ、さっさと準備して」
僕は大学ノートを無言で受け取り、ほっと胸を撫でおろしたかのような、または更なる不安に駆られたかのような、そんな複雑な深呼吸をします。
嘘はまだばれてはいない。よし、これでまた、更なる嘘をつくことが出来る。くそ、あるいはまた嘘をつき続けねばならない。
それからこの圧。塩漬けの白菜の上に据えられた漬物石のような、ジワジワと僕の心に重くのしかかる、これまでに感じたことのない最新型の不安。
そうだ、ノートを間違えたのだ。嘘日記を家に置いてきてしまった。
ガチャリ。
この時、見えない足枷が僕の右足に装着されました。
罪名は不明ですが、僕は何かしらの罪を犯したようです。
会社ではいつも大した仕事はしていませんが、この日は輪をかけて仕事になりませんでした。
鎖で繋がれた鉄球を引きずっているのです。足が重くて行動がままなりません。