よーこそ、絶望
「そういえば、あなたの家、この辺りじゃなかった?」
「そうです」
「タイムカードは私が押しておいてあげる。せっかくだから、ここから歩いて家に帰りなさい」
慎重に路肩に車を停止させると、主任はそう言って僕を車から降ろしました。
「いや、でも、あの、支店にある自転車が、明日の通勤手段が……」
聞こえていません。
主任は、うなじのマイクロチップをコリコリと搔いています。
車は走り去りました。
車道に散らばった大量の銀杏の落ち葉を踏みしめます。
僕は今、帰路に就きました。
家に帰ると、母が薄暗いリビングのいつもの席に、いつもの不織布マスクと、いつものフェイスシールドをして座っています。
母はこの頃、日に日に痩せ細っていき、その言動からも、コロナ鬱が重症化しているのが明らかです。
深刻な状況だということは分かっているのですが、でもだから何をどうすればよいのか、先ず何をどうするべきなのか、僕には、その判断がつかないのです。
見ていると辛くなるので、隣の母をなるべく視界に入れないように、テーブルの上に無造作に置かれた食パンに大急ぎでマヨネーズを塗りたくって頬張ります。
一刻も早く自室に籠りたいので、パンと水道水を交互に口に流し込み夕食を終えます。
この時、ふと思い立ちました。
そうだ、あの漫画を母に読ませたら、母が元気を取り戻すのではないか。
僕は自室から自作の漫画の描かれた大学ノートを持ってきて母に見せました。
その漫画は、三人の原始人が焚火を囲みながら、人類の進化にについて語り合っているという単純なものでしたが、個人的にとても気に入っていて、我ながら名作が描けたと密かに悦に入っている作品でした。
母に自作の漫画を見せるのは初めてです。
母の前に無言で名作を放り投げると、母はそれを静かに読み始めます。
すると母は時折声を出してクスクスと笑いました。
晴夫さんはとても絵がお上手ね。こんな特技があったのですね。もっと描いて母を楽しませて下さいね。と久々に人間の言葉を発しました。
お母様、新型コロナウイルスは必ず終息する。
マスクなんていらない生活が、いつかまた戻ってくる。
僕は母にそう告げた途端、てか、いつまで読んでんだよババア、と漫画を取り上げて自室に戻り、あとは嘘日記を追記してから、ぐっすりと就寝したのでした