内閣総理大臣から貰った布マスク
翌朝。昨日主任に強引にトイレに割り込まれたコンビニで、僕は朝食用のカレーパンと牛乳を買ってレジの列に並んでいました。
「おはよう! 今日もアベノマスクがお似合いね!」
背後から、どだい距離感というものが崩壊した大声がするので後ろを振り向くと、ソーシャルディスタンスを確保する為、ビニールテープで床に提示された立ち位置に主任がいました。恥ずかしげもなく生理用のタンポンを持って並んでいます。
「おはようございます。主任の方こそ、今日も純白の不織布マスクが眩しいです」
僕たちは朝っぱらからお互いのマスクを褒め合いました。
「ねえ、教えて! どうしたらそんな糞ダサくて恥ずかしいマスクをつけられるの! なぜ平然と大手を振って往来を闊歩出来るの? 心から尊敬する!」
なるほど、僕は社交辞令のつもり、主任は、純真無垢な嫌味なのでした。
「あのですね主任。僕がこの内閣総理大臣から貰った布マスクをするのには深い理由があります。これは、大衆の同調圧力への僕のアンチテーゼなのです。
そもそも僕は『アベノマスク』という程度の低いネーミングが大嫌いです。耳にすれば耳が腐り、口にすれば口が腐る気がします。
僕はこのマスクを『内閣総理大臣から貰った布マスク』と呼んでいます。だって内閣総理大臣から貰った布マスクなのですから。
僕は前の支店で、お昼休みに食堂で他の社員たちとたくさんの会話をしましたが、この一連のマスク騒動に関する言動には、ほとほと辟易しました。
新型コロナウイルスの感染拡大初期、僕は社員たちに『きっとマスクが不足するから、早めに買っておきましょう』と助言しました。すると社員たちは『大袈裟だよ』と笑うばかりで、誰一人真面目に取り合ってはくれません。
ところが案の定パニック買いが勃発して、街からマスクが消え失せた途端、『マスクが一枚もない! 政府は何をしている!』と騒ぎ出すのです。
その後政府が全世帯に二枚の布マスク配布を執行したら、『に、二枚? 少なっ! 馬鹿にしているのか!』と大騒ぎ。そのくせ『こんなマスク誰がするか!』と馬鹿騒ぎ。そうかと思えば『配布が遅い!』と阿保騒ぎ。名古屋市は五月中には配布される予定です、と何度説明しても『まだ届かない! 政府の怠慢だ!』と喚き散らす。
マスクがいらないのならば黙っていればよいのに『小さい!』『不良品だ!』とこき下ろす。挙句の果てに数か月前まであれだけマスクをよこせ騒いでいた連中が、買い占め騒動が沈静化するや否や『もうマスク配るな!』と乱痴気騒ぎ。
僕はもう、何が何だか訳が分からなくなってしまいました。何故この人たちは、思ったことを、思ったままに、後先も考えず、馬鹿正直に、喉を枯らして叫ぶことが出来るのだろう。大衆の素直な気持ちとは、何故にこうも醜いものなのだろう。
僕は、この社員たちとは違う。僕は、絶対にこんな人間になりたくない。頂き物には先ず感謝をするべきだろう。せっかく頂いたマスクなのだから有効に使うべきだろう。
そして僕は、自分に届いた布マスクを、そんな社員たちへの反骨の意味合いをふんだんに込めて、これ見よがしにオフィスにある神棚に祀って拝んだのです。
そうすると不思議なもので、本当にこのマスクから後光が射し、このマスクがコロナからこの僕を全力で守ってくれるような気がしたのです。
主任、お分かりいただけましたか? 以上のような大衆の同調圧力へのアンチテーゼとして、僕は毎日この二枚の布マスクを洗いながら使っているという訳なのです」
隅から隅まで全て嘘っぱちです。僕はただ薬局に並んでマスクを買うのが、とにかく面倒臭いのだ。
「へー! そっか、そっか、そうなんだ! 心から尊敬する!」
ポーカーフェイスの上にマスクをしているし、その口調も実に機械的で、主任の気持ちは今一つ読み取れません。
まあ、尊敬などしていないことは確かです。この人が、基本的に僕を馬鹿にしていることぐらい、流石の僕でも分かります。
「実は、うちの親戚おじさん、孫請け会社として、小さな町工場でアベノマスクの製造に関わったのよ!」
「ええええ、そうだったのですか」
「あなたみたいに感謝して使ってくれる人もいることを、今度会ったら伝えておくわ!」




