増女(ぞうおんな)の仮面
家に帰ると、夜の十時を回っています。
まったく働き方改革も何もあったものではありません。怒涛のような異動初日でした。
それにつけても、僕って二十五年間一度も働いたことない割には、意外と普通に社会人をこなせているなあ。
今日だって、あんな主任を相手にしても、どうにか立ち回れたし。
やっぱあれかな、幼い頃、日暮れ時に通学路から近道してお墓の小道を歩いても何も怖く無かったのに、おばけやオカルトや心霊の存在を知った途端に、同じお墓の小道を歩くのが怖くなったようなもので、僕はまだ社会の本当の恐ろしさを知らないのだな。無知って最強だな。
玄関に座り込んで靴を脱いでいる僕を、壁に飾ってある白い仮面が見下ろします。増女といわれる能楽で用いられる仮面です。増阿弥という田楽法師が創出したのがその名の由来らしい。
死んだ父の唯一の趣味が能楽を鑑賞することでした。僕も、子供の頃時々能楽堂に連れて行かれ、父のうんちくを聞きながら能楽を鑑賞したものでした。
白い顔、細い目、起伏のない顔立ち、そして氷のように冷たい表情、しかし死んだ父曰く、あれは深く世を憂いているが故に醸し出される表情であるとのこと。
靴を脱ぎ終わり見上げると、上から目線の増女とばっちり視線が合いました。
「そっくり」
僕は思わず呟いたのでした。




