帰りてえ
支店に戻ると、主任は早速机にめり込むような姿勢で材料の発注の業務を始めます。
僕は主任の横の机で、特に指示されることもないし、別段やることもないので、さっき蚊に血を吸われて腫れた左腕の患部を、右の親指の爪で細かくみじん切りにしたり、ホッチキスの反対側の爪状の金具でツンツンつついたりして時間を潰していました。
定時を過ぎると、続々と社員がタイムカードを押し、退勤して行きます。
しかし主任と僕は帰りません。
何故なら主任は仕事が残っているから。
そして僕は主任から「帰れ」の指示が出ないからです。
支店長が主任に労いの言葉もなく、僕たちに見向きもせずに帰って行きました。
オフィスには僕と主任の二人きりです。
壁には各社員の毎月の営業成績が大々的に掲げられています。その表によれば、一昨年の十月から主任はずっと成績トップです。
表の真上にある壁掛け時計が二十時を回った時、僕は意を決し主任に話しかけました。
「がんばりますね。いつもこんなに残業されるのですか」
「……あら、まだいたの」
「い、いましたよ。主任の横にずっと」
「怖っ。何でいるの。気持ち悪っ」
「あの~、僕はいつ帰れるのでしょうか」
「あなた、私が帰れと言ったら帰るつもりなの?」
「はい、部下ですから」
「死ね!」
「……」
「あらら? 死なないのね。部下なのに」
「……自分の判断で勝手に帰りますがよろしいですか」
「自分の判断で勝手に帰ってよろしいです、僕ちゃん」
僕は突発的な怒気を抑えきれず、思わず両手で机をバンと叩いて立ち上がり、これ見よがしにそそくさとタイムカードを押しました。
「あ、そうそう、ちょっと待って、僕ちゃん」
プリンターから立て続けに印刷されるプレゼンシートを部数ごとに仕分けしながら、おもむろに主任が僕を呼び留めます。
「せっかくですから、これからあなたに、人と人が良好な人間関係を構築するために、聞いておいて損はないことをいくつか質問します。あなたは只々正直に答えなさい」
か、帰りてえ。心の底から帰りてえ。




