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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

水の子

作者: 上州みかん

薄暗いトンネルの中に、どこからか漏れ出した水が一滴、また一滴と落ちる音がこだまする。天井には黄みがかった光を発する蛍光灯が不規則に点滅し、その下には金色に塗装された鉄の蛇腹扉が静かに佇んでいた。

塗装が剥げて鼠色が覗くドアハンドルに手を伸ばす。金属製の扉をゆっくりと開く時の、錆びついた部分が軋む音は聞いていて気分が良い物とは言えない。

 蛇腹扉は二重になっている。人間が三人立ってはいれるくらいの小さな部屋に身を滑り込ませて、内側から扉を閉じた。

右側の壁に取り付けられたレバーを左に傾けると、ガタンガタンと大きな音を立て、部屋はゆっくりと降下していく。この昇降機にも慣れてきた、と言いたいところだが、私には少々狭くて窮屈だ。

 瞬きを七十八回した頃、レバーをゆっくりと元の位置まで戻す。昇降機はゆっくりと動きを止め、蛇腹扉の格子の向こうから赤提灯の灯りが漏れてきた。

 赤い光の中から、背の低い影が顔を覗かせる。顔の絵が描かれていない、真っ白な面をつけたその影は、恭しく蛇腹扉を開き私を招き入れた。

 昇降機から一歩踏み出せば、人工的な甘ったるい香りが肺を満たした。室内には風なんて吹いていないというのに、赤提灯がゆらゆらと視界に映りこんでくる。

「先生、いらっしゃいませ。お待ちしておりました」

 愛想よく、無理に高くした声が降ってきた。昇降機を出て正面に番台のような高い台があり、その中に座る男の声だった。彼はこの店の店主である。

 私がこの店に通い始めたのは最近だが、店主はもうすっかり客の顔を覚えているらしかった。客全員に「先生」と呼びかけているのなら話は別だが。

彼の顔は真っ黒な面布で覆われており、その下で笑っているのか睨んでいるのかもわからないし、知りたいとも思わない。 

「やあどうも。今日はひとつ頼みがあってね」

「先生のご要望ならば喜んでお聞きしますとも。今日も貴方様にご満足いただける女を揃えていますよ」

 店主は算盤をはじいていた手を机の下に突っ込んで、小さな黒板を取り出した。そこ書かれているのは、この店の商品である女の名前だ。

私は苦笑いをして、店主の持つ黒板を伏せさせる。

「おそらく私の求めているのはここには載っていないよ」

「それは困りました。今日はこの店始まって以来の上物揃い……これ以上をお求めに?」

 店主が首を傾げるのも無理はない。

この店は常に質の高い女を仕入れていると評判の高級店だ。初潮前の少女から妙齢の婦人まで、客の好みに合わせたもてなしをしてくれる。

「逆だよ、逆。今日はね、男が買いたくて来たんだ」

「はあ、それでしたらこちらに」

 再び掲げられた黒板の隅に書かれた男児の名前。その下には出生地や年齢、値段などの簡単な情報が並んでいる。一通り目を通してから首を横に振った。

「いや、それでは若すぎる。そうだな……十八よりも上はいないのかい?」

「十八ですか? いやあ、その歳の男で先生にお出しできるようなのは……」

「質が悪くても構わないんだ。美醜は問わん。金はいつもの倍出そう」

 渋っていた店主は金の話を出すとぴたりと動きを止める。それから数秒考えこんで、小さな声で私に言った。

「こんなものをお出しするのは大変心苦しいですが……」

「ああ、用意できるのだね。まあその代わりと言ってはなんだが、酒は良い物を頼むよ」

「それは勿論! しかし、しかしですよ。この店で今お出しできるのは、下働きにと安く仕入れた男です。それはもう、骨ばっていて肉の少ない男なのです。顔は良い部類に入りましょうが、肌色も悪く栄養状態も良くありません。あんなものを売ったとなれば店の威厳に関わります故、どうかこのことは……」

「本に書いたりなどしないさ。ではよろしく頼んだ。ああ、金は先に払おう。髪の一本から指の先まで買取りだ。今夜すぐには手を付けないから、その間の彼の養育費も払おう。多少上乗せしておくからね」

 私は懐から取り出した袋を番台の上にのせる。

 店主は袋の中に詰められた金貨を確認すると、きびきびと私に頭を下げた。

「ありがとうございます。ではすぐにご用意いたしますので、先にお部屋でお待ちください」

 黒い面布の下から弾んだ声が返って来る。

店主は壁一面にかけられている幾つもの鍵を振り返った。専用の引っかけ棒で、上のほうにかかっている鍵を器用に取った。

「今回はこちらの燕子花のお部屋でご用意させていただきます。右手側の通路の突き当りのお部屋です」

「ああ、わかった」

 赤みの濃い紫の花弁をもつ花が描かれた札が括り付けられている鍵を受け取り、廊下へ進んだ。ずうっと先まで続いているように見える廊下を歩くのは少し憂鬱だ。階段を上らなくて済むのは救いだが。

 左右の壁には等間隔に扉が並んでいる。

時折、扉の向こうからバタンと大きな音がして、それと一緒に女の甲高い声が聞こえてきた。それを聞くと無性に腹が減った。店主に肴でも頼んでおくのだったと少し後悔する。

一度意識してしまうとどうにもそのことばかりが気になってしまうものだ。腹が減って本来の目的が疎かになっては元も子もない。

 ちょうどその時、廊下の向こうから白面をつけた男が歩いてきた。店の者だろうと声をかける。

「ちょっと、きみ」

「ひっ」

 私が声をかけると、男は掠れた悲鳴を上げて立ち止った。新入りなのだろうか、この店でこういった反応を見るのは珍しい。

「燕子花の部屋にレバーのソーセージとハムをいくつか頼めるかね。種類は任せるから。ああ、あと普通の食事を一人前用意してくれ。買った子に食べさせたくてね」

「は、はい。承知いたしました」

 ガクガクと震えながら私に一礼し、男は足早にその場を後にした。その姿を見ていたら、なんだかさらに腹が減ってくる。

 廊下はまだ続いている。

 天井から吊り下げられた赤提灯が、奥へ奥へと誘うように揺れた。


 燕子花の部屋は上等な部屋と聞いていたわりに狭く感じた。前に借りた部屋よりも装飾がこっていて、妙なでっぱりが多い。私はシンプルなつくりの部屋が好みだ。座椅子にもたれて酒と肴を味わっていると、何処からともなく鈴の音が響く。その音に「入って」と返事をすると、部屋の一番奥の襖がゆっくりと開かれた。 

 銀の糸で花の刺繍が施された美しい赤の着物を着た青年は不安げな瞳でこちらを見ている。じっと私を見つめて固まって、一向に動く気配がない。

「入って、私の向かいの席に座りなさい」

 彼は足が悪いのだろうか、歩き方がどこか不自然だった。しかしそれよりもっと気になったのは着物の丈だ。成人した男の着られる大きさの上等な着物の用意はなかったのだろう。丈が足りず、骨の浮いた手足を隠しきれていない。彼は私の向かいに用意されていた黒い座布団の上に背を丸めて座った。

「そう怯えなくてもいいさ。今すぐにどうこうしようとは思っていない。まずは、君を太らせることから始めようと思ってね」

 食事ののった膳を青年の前に差し出してやる。食べるように促すと、彼は私の顔と膳に視線をさ迷わせた後、おずおずと箸を手に取った。

 することもないので男が食事をしているのをただ眺める。青白く肉付きの悪い顔は生気がまるで感じられない。長い睫毛に縁取られた大きな瞳は、今まで見たことのない色をしていた。くすんだ灰交じりの青。異国の血でも混じっているのだろうか。

 それにしても、所作の一つ一つがやけに丁寧で品が良く見える。元々は裕福な家の生まれなのかもしれない。それが身を落としてこんなところに売りに出されるとは。きっとここに来るまでの間、様々な経験をしたに違いないだろう。

「君、名前は?」

 食事が終わったタイミングで声をかけてみる。青年は少し躊躇いがちに口を開いた。

「……靜といいます」

「シズカ、靜ね。さて靜、私が君を買ったのは他でもない。君とお喋りがしたいんだ」

 訝し気な視線。そりゃあそうだろう。肴の一品のつもりでやってきたら飯を食わされ、名前を尋ねられ、お喋りを求められたらそうなる。客としてこの店を訪れる者の中には私のように商品との戯れを楽しむ物好きもいると聞くが、まあそんなこと知ったことではないだろう。

「私は作家をしていてね。それなりに名も売れているんだよ。私のことは先生、とでも呼んでくれたまえ」

「……はい」

「私はね、人間の生々しい話が聞きたいんだ。それを作品に落とし込んでみたい。人はとても面白い。恋をすると愛らしい乙女が修羅のようになったりするんだろう? そんな二面性も魅力的だ」

 手にしていたお猪口を盆に置き、懐から手帳と鉛筆を取り出す。白紙のページを開いて、靜と向き合った。飴玉みたいなまん丸の目。舐めたらきっとおいしいだろう。

「ちなみに君、ここに来る前恋人はいたのかね?」

「……いいえ」

「ふうん。好いていた女はいたかい」

「いいえ。ご期待に添えるような話は、できそうにありません」

 靜はそれきり俯いてしまった。本当に経験がないのか、それとも話したくないような経験をしたのか。どちらにせよ、今は何も話すつもりはないのだろう。靜は目を伏せてうつむいてしまった。

「それじゃあ別の話をしよう。君、いつからここで働いているんだい?」

「半年ほど前に売られて」

「ここに来てからどんな仕事をしていたの?」

「……掃除でも、洗濯でも、商品の女の世話も……調理の下処理も、なんでも」

「そうかい。雑用係だったのにこんなところに引っ張りだされて、災難だね」

 目を見開いて靜が顔を上げた。それから何か言いたげに口をもごつかせ、ゆっくりと細く息を吸いこみ、蚊の鳴くような声で呟いた。

「僕は、これで良かったと思います」

「……この店で買われたということはどういうことか、わかっているのに?」

 きゅっと口を結び、靜は頷く。恐がっているようには見えない。おかしな子だ。

 しかし同時にこの子からは面白い話が聞けるかもしれない、と期待してしまう。「そうかい」と呟いて、私はゆっくりと立ち上がった。扉に向かって足を進める。

「今日のところは帰るよ。私はね、気が済んだら君に手を付けようと思っているから、それまでにもっと肉を付けておくんだよ」

 靜を振り返る。見送りに席を立つわけでもなく、座ったままの青い瞳が私を見上げていた。

「それと、私に聞かせるための話を考えておいてくれないか。今までに君が伝え聞いた話でも、実際に立ち会った話でもなんでもいい。できるだけ目新しくて興味深いのを一つ、頼んだからね」

 ここで初めて、靜の顔が綻んだように見えた。確信が持てないほど小さな変化であったが、確かに私にはそう感じられたのだ。

「有名な作家先生に楽しんでいただけるお話など、僕に思いつくとは思えません」

「その時は世間話でもしようじゃないか。それじゃあね」

 部屋を出て、またあの長い廊下を歩く。入口のところまで戻ると、番台の上から番頭の弱々しい声が降ってきた。

「先生、もうお帰りですか。やはりアレはお気に召しませんでしたかね」

「いやいや、十分だよ。今更金を返せなんて言ったりしないから安心してくれ」

 「それはなによりです」、と番頭が手を揉んだ。それから控えていた面布の店員に、あの蛇腹式の扉を開けるように指示を出す。

 扉を開けてくれた店員に燕子花の部屋の鍵を預け、またあの小さな昇降機に足を踏み入れた。

「一ヶ月後にまた来るから、あの子をよく肥えさせておいてくれよ。食べさせるものは何でも構わないが、私が出した金額に見合うものを与えてやってくれよ」

「承知いたしました。またのお越しを心よりお待ちしております」

 軋んだ音を立てて扉が閉められた。レバーを右に傾けると、昇降機は上昇してゆく。握ったままのレバーを見つめながら、次はあの子の体に合う着物でも買っていってやろうと思った。


 一か月後、通されたのは椿の部屋。「仕事がしたいから机とランプを用意してくれ」と伝えると、中庭に面した窓の下にランプののった座卓が用意されていた。靜がやって来るまで仕事をしていようと机に向かい、鞄から取り出した原稿用紙を広げる。

 万年筆を滑らせてどのくらい時間が経っただろうか。ちりんちりんと鈴の音が響く。「入ってもよろしいでしょうか」という低くか細い声が聞こえた。手元から視線をそらさずに入るように伝える。

 背中の方から襖が開く音が聞こえた。それから畳の上を着物が擦る音が響き、その音は私の真後ろに来ると止んだ。ちょうどキリが良くなったので私も原稿から顔を上げて振り返る。

「ようこそお越しくださいました」

 そう言って、恭しく頭を下げていた靜がゆっくりと顔を上げた。前来た時と比べればいくらか肉もついたように見える。顔には薄っすらと化粧も施されているようだ。男の中では華奢な部類であることも合わさって、遠目に見れば女のように見えないこともない。しかしまだまだ骨が目立つので、おいしそうとはとても言えない。

「着物、少し袖が長いかな」

 私の贈った浅黄色の着物の袖は、靜の指をすっぽりと覆ってしまっている。靜は黙って首を振り、ほんの少しだけ笑った。

「商品に服を着せようなんて、先生は変わっていらっしゃる」

「自覚はあるよ」

 机に頬杖をついて靜をまじまじと眺める。顔周りはだいぶマシになったと思うが、やはりもう少し肉をつけさせたい。どうせなら柔らかい肉を堪能したいだろう。まあ、まだしばらくは手を出さずにいるつもりだ。

「こっちにおいで」

 自分の左側の畳を叩いてみせる。靜は黙って、言われた通りに私の左側までやってきた。それからまた自分の左の太ももを二回叩く。靜のまんまるの目を縁どるまつ毛が上下して、きょとんと目を丸くして私を見上げた。意味が分からないというより、本当にいいのかと窺うような仕草だ。私が頷くのを見ると、躊躇いがちに膝の上に頭を乗せた。思っていたよりもずっと小さな頭だ。ペンを持っていない左手で細い髪に指を埋め、さらりと梳いてみる。何度かそれを繰り返す。

「それで、考えておいてくれたかな」

「人間の生々しい話、ですよね」

 左手はそのまま靜の頭に置いて、右手ではペンを走らせる。今書いているのは、人間とは何の関係もない別の原稿だ。

「特に面白い話でもありませんが」

 そんな前置きをして靜が語ったのは、こんな内容だった。

 ある商家に、齢十四の娘が下女として働いていた。娘はとても美しく、働き者で気立ても良いと評判だった。

 この家には娘より少し年下の跡取り息子がおり、彼は美しい娘をすぐに好きになった。娘も自分のことを気にかけてくれる彼に心を許し、二人は恋仲となったそうだ。

 跡取り息子は娘を妻にしたいと考えたが、周りは当然それを許さない。いつか正式に家を継ぎ、当主になったらきっと娘を妻にしようと考えていた。

 しかし、それからすぐに娘は妊娠してしまう。

「わかった。きっと跡取り息子との子供じゃあないんだろう?」

 いったん右手を止めて視線を靜にやる。靜はぼんやりと机の下を眺めていた。いや、どこにも焦点はあっていないのかもしれない。面白い話を聞かせてくれと言ったのに、語っている本人はちっとも楽しそうではないように見えた。

「腹の子の父親は、跡取り息子の父親……その家の当主でした」

 へえ、と適当に相槌を打ち、気まぐれに靜の輪郭に沿って頬を撫でてみる。指先に白粉が付いたが、かまわず靜の肌に手を伸ばした。額から鼻筋、唇、顎から首、喉仏と撫でてゆくと、靜は小さく息を飲んだ。

 喉に突き出た突起が上下するのを見届けると、私は満足して視線を原稿用紙に戻し右手を動かす。ペン先と紙が擦れる音を聞くと、靜はまた語り始めた。

「実の父親に裏切られ、愛しい娘は自分の腹違いの兄弟を身籠ってしまった。その状況に跡取り息子はすっかり気を病んでしまいました。可哀想なのは娘も同じ。当主の子供を身籠ってしまったがために堕胎することも許されず、衰弱していった彼女は子を産み落とすとすぐに亡くなったそうです」

 ありふれた悲劇だ。小説にするならもっと個性的な展開が欲しい。

「もしも彼と娘が恋に落ちなければ、当主は一介の下女など気にも留めなかったかもしれないね」

 正直私はもうこの話にあまり興味がなかったのだが、自分がせがんだことなので一応感想を述べておく。靜はいつの間にか瞳を閉じてしまっていた。長いまつ毛がランプの光に照らされて頬に影を落とす。

「そう、かもしれませんね。…………その後当主の妻は娘の骨を川に捨てさせました。彼女は故郷の家族と同じ墓に入ることすらできませんでした」

「ふむ。しかし、それの何が問題かね。死んでしまったらそこで終わりだ。墓なんてどうだっていいだろう。それなのに人は弔われ方や死後の待遇を度々気にする。私には、どうにもそれらが重要な事とは思えないんだ」

 まあ、そういうところが興味深いのだが。と、心の中で呟く。

 靜はしばらく考え込んで、それから自信なさげに呟いた。

「死後の世界がある、なんて僕にも思えません。でも、死んだ後のことが誰にもわらないのなら、死後の世界がないのと同じくらい「ある」可能性だって捨てきれないでしょう。わからないから不安になる。せめて大切な人の傍にいられるようにと願ってしまう」

「……ずいぶんと饒舌だね。そんな風に思える人間が君にもいたのかい?」

 靜の息を呑む音が、私の鼓膜を震わせた。それきり靜は黙ってしまったから、私の仕事はよく進んだ。


 あれから靜の元へは何度も通った。仕事の合間に顔を出す程度だったが、その度に菓子やら果実を持って行ってやった。靜は甘いものをよく好む。肉付きもだいぶ良くなったのではないだろうか。

 私が机に向かっていると、靜はもう何も言わなくても私の膝に頭を置いて横になる。懐かれて悪い気はしない。触れている部分からじんわりと伝わる温度は、なかなかに愛おしいと思う。人が犬猫を餌付けしたがるのもわかるような気がした。

 ある日の事、帰り際に靜は扉の一歩手前までついてきて、私を引き留めるように袖を掴んだ。珍しいこともあるものだと靜の顔を覗き込めば、淀んだ灰青の瞳に私を映してこう言った。

「先生、先生はこうやってずっと僕を食べないおつもりなのですか」

 まるで私に食べてほしいかのように言うのだ。まったく理解できない。

 だって、私が今まで買った女たちはみんな泣きわめいて逃げ出そうとしたし、私を罵ってきたりもした。むしろそれが醍醐味だとすら思っていたのに。

「恐ろしくはないのかい

 問いかけると、靜は灰青の瞳でまっすぐに私を見つめたまま「はい」と短く返事をした。少しの迷いも感じられない声だった。動揺していたのは、むしろ私の方だろう。

「……このままでいいじゃないか。このままずっと、ここで私を待っていてはくれないか」

 吐いた自分の声が、弱々しくって驚いた。

「僕は先生が思っていらっしゃるよりずっと早く歳をとります。けれども僕にとっては長すぎる時間です。もう終わりにしたい」

 最後の方は聞き取るのが難しいほど小さく掠れた声だった。靜は私と目を合わせているはずなのに、何にも見てはいないようだった。私の方から先に視線をそらし、袖を掴む靜の手をそっと握って袖から離す。血の通った暖かい手だ。短く整えられた爪、白く滑らかな肌、浮き上がった血管。

 ふと、その手を舐めたらどんな味がするのだろうと思った。靜はどんな顔をするだろう。

 いたずらにその手を引き寄せて、小指の付け根をべろりと舐めてみる。少しだけ靜の体がこわばった。けれど抵抗もしないので、そのまま指を口に含んで舌を這わせ、根本に歯を立ててみたりもした。いっそこの小指を食いちぎってしまおうか、なんて考えが頭をかすめる。靜の柔らかくて薄い皮膚は簡単に裂けて、生暖かく苦みのある血液が溢れ、口の中いっぱいに広がって……そんなことを考えたら、涎がどっと溢れてくるのだ。他の指も、いっそこの腕ごと、と視線を上に向けていく。するとあの瞳が、淀む視線が、私を射抜いた。

 まんまるの灰色がかった青い瞳。

 私はその瞬間、自分の欲に任せた浅ましい行動をひどく後悔した。苦々しい感情がどっと溢れて体が重くなる。おかしな話だ。最初からそのつもりで餌付けもしていたというのに、私は何をためらっている?

「それじゃあ、次に来た時君を食べるよ」

 むきになってそんな言葉を投げてしまった。すっかり空気に溶けていった言葉は口に戻ってはくれない。

 もう靜の顔を見ることすらできなかった。私の掌から靜の手がするりと抜けて落ちてゆく。

「またのお越しを心よりお待ちしております」

 いつもと同じ言葉を背に受けて、私は部屋を後にした。ふらりふらりと長い廊下を進む。赤提灯のくすんだ灯りと焚き染められた甘い香が、頭に靄をかけているようだ。

 力なく踏み出すこの足が、ちっとも前に進めていないような気がする。虚しくって仕方がなかった。


「先生、あの男はやはり食べる気になりませんか」

 次に店を訪れた時、番頭が鍵を渡しながら私に言った。なぜそんなことを聞くのかと問えば、番頭は困ったように笑う。

「この店で人間をまるまる一人買い取るお客さんは、買った初日に食べきるか、来店する度に少しずつ味わって食べるか、どちらかです。先生だって、今まで女を買ったときはそうしていたでしょう? それなのに、毎度部屋から戻って来るあの男の体は、どこも欠けていないのです。足の指すら綺麗に揃ったまま」

 確かに、今までは食べたい部分から齧ったり、切り落として店に調理させたりして買った女を食べていた。臨月を迎えた妊婦の女は一口で踊り食いにしたりもした。プチプチとした食感がたまらないのだ。

 よく肥えた女を目の前にすると、空腹に抗う事などできはしない。今までそんな風に食事をしていた客が急に食べなくなったら、店としても気になるのだろう。

「……いいや。食べるさ。今日きっと食べる」

「せかしたつもりはありませんが……ちなみに、先に調理しておく部位はございますか?」

「いい。その代わり、とびきり強い酒を頼む」

 承知いたしました、と言って番頭は恭しく頭を下げた。渡された鍵を握りしめて廊下を進む。途中、一つの扉が開いて、私と同じような客が顔を出した。食事が終わったのだろう、口の周りにはべっとりと血がこびりついている。人間の女の濃い香りが廊下に広がって、意識が持っていかれそうになるのを必死でこらえた。

 ああ、腹が減る。

 腹が減った。


 本当に?


 鍵を差し込んで回す。ゆっくりと扉を開いた先に、靜はいた。初めて会った時のような、真っ黒い座布団の上に正座をして、凛と背筋を伸ばしている。

「ようこそお越しくださいました」

 何度も聞いた言葉だ。これが最後になるかもしれない言葉。

「……成人した男になら、たいして食欲もわかないだろうからと君を買ったんだ」

 向かいの座椅子に腰掛けながら、脈絡なく呟いた。靜は目を伏せて笑う。

「先生は人間に興味がおありで」

「ああそうだ。……君の前に買ったのは年老いて痩せた女だったが、君よりずっとおいしそうだった。すぐに食欲に負けて食い殺してしまったよ。アレよりもっとおいしくなさそうなのと言えば、成人した男くらいしかないと思った」

 私はなんだかいたたまれなくなって、先に用意されていた徳利とお猪口ののった盆を引き寄せる。お猪口は靜に押し付けた。

「食べてしまう前に君自身の話が聞きたい。なに、素面では語らせん」

 押し付けたお猪口に酒を注ぐ。勢いあまって溢れた酒が、靜の着物の上に零れてシミをつくった。私が最初に贈った、袖の長すぎるあの着物だ。

「……先生はお優しい。これから自分が食べるものにまで情けをかけてくださる」

 そう呟いて、靜はお猪口に注がれた酒を一気に呷った。人間には強すぎる酒だ。時期に意識が朦朧として、深い眠りにつくだろう。

「最初に僕が言った話を覚えていますか?」

「……好いた男の父親に孕まされた女の話か」

 既にほんのりと頬が赤くなった靜は、「それです」と笑った。愉快で仕方がない、というように笑った。

「あの話には続きがあるのです。娘が生んだ子供は、男の子でした。当主の妻は自分の息子以外に跡継ぎになりえる子供が生まれたことが許せなかった。だからその子を座敷牢に閉じ込めて育てました」

 靜は話しながら立ち上がり、私の左側に膝をついた。私の片手を両手で包みこんで自分の頬に添えさせる。頬も手もすっかり熱をもっていた。灰青の瞳は薄い涙の膜で覆われ、提灯の明かりが揺れる度キラキラ光るのが綺麗だと思った。

「子が八つになった頃、座敷牢に男が訪ねてきました。その人は子の世話をする使用人達とは着ている服も、髪の艶も、肉の付き方も全く違っていました。子の目にはその男がこの世で一番尊い人のように映った。男はそれから何度も座敷牢に顔を出しました。その度に木でできた格子の向こう側から、子に菓子や果物を恵んでくださるのです。それから何度も優しい言葉をかけてくださった」

 靜の手に力がこもる。声もどこか震えていた。

「子が十二になる年の春、男はついに格子の鍵を開いて子をその腕に抱きしめてくださいました。子は物心ついてからずっと、誰かの温もりに触れることすらできなかった。だから本当に、本当に嬉しかったのです。男は子の頬を撫で「大切」だと言いました。「好いている」と、「愛していると」何度も言って、子を抱いてくださった。子は男に触れられている間だけは自分が人並に幸せになれると夢を見ることができたのです。……でも」

 大きな瞳から、ついに雫が零れて頬をつたう。垂れていく涙を暇している方の手で拭ってやると、堰を切ったように靜の瞳から大粒の涙がとめどなく溢れた。

「あ・な・た・は、僕・を日の下に連れ出してはくれなかった」

 あろうことか、この子は目の前の化け物を自分を訪ねてきた男と重ねて語り掛けてきた。

 呟いたのと同時に、靜は糸が切れた人形のように私の膝の上に倒れこむ。もう相当酔いが回っているのだろう。朦朧としながらも懸命に口を動かす。

「僕はずっとあなたを愛していた。あなたが僕を愛してくれていると本気で信じていたから。あなたが優しくしてくれたから。あなたの温もりしか知らなかったから。

でも何もかも嘘だった! 使用人が言っていました。あなたは僕を愛していたんじゃない。僕を見ていたんじゃない。僕の顔にかつての恋人を、〝靜〟を重ねていたんだ」

 靜の酔いのまわった体はうまく力が入らず、振り上げた拳は力なく私の膝の上に落ちた。何度も何度も腕を振り上げ、咽び泣く。怒りからか悲しみからか、その体は小さく震えていた。

「僕の声が低くなった時、あなたは「お前は靜じゃない」と言いましたね。そうして二度と会いに来てくださらなかった。

あなたの言う靜なんて僕は知らない。靜は僕でしょう? 他でもない、あなたが僕を靜と呼んだんだ。あなたが僕を靜にしたんだ!」

 そう叫び終えると、靜はもう腕を振り上げることもできなくなって、私の膝の上で浅い呼吸を繰り返した。涙でぐしゃぐしゃになった靜の顔を、ゆっくりと撫でてやる。乱れた髪を梳いてやる。

 そして靜は、今にも消えてしましそうな声で呟いた。

「すべて何かの間違いだと、あなたの口から教えてください。そして今度こそ僕を、ここから連れ出して。

ここは狭くて、暗くて、冷たくて嫌だ……こんなところもう嫌だよ。

だから、はやく、はやく迎えに来て…………」

 それ以上、靜が口を開くことはなかった。

私の膝の上で規則正しい寝息を立て、子供のように眠っている。

「狭くて、暗くて、冷たい……ね」

 これが最後と靜の輪郭を撫でる。温かい。私たち化け物は持ち合わせていない温もりだ。残念だが、私は自分の持っていないものを彼に与えてやることはできなかった。

「この死は、本当に君の救いになるのだろうか?」

 今まで人間に対してこんな感情を抱いたことはない。所詮は一回分の食事。それだのに、ああ、どうにも気が重い。家畜に名前を付けるなというのはこのためか。

 靜の服を剥ぎ、華奢な体を抱えると、小さく心臓の鼓動が聞こえた。生きている音だ。私を生かす命の音。

 感傷に浸っていたって仕方がないので、私は口を大きく開いて靜の体を丸のみにした。愛しいあの子は喉を滑り、腹に落ちてゆく。流石に成人した男が丸ごと腹の中に納まっているのは違和感があるが、彼の皮膚を裂き、骨を噛み砕いて食べる気にもならなかったのだ。

 私の腹の中で何時間もかけて、靜の体は溶けてゆく。溶けて私の体になる。

「ああ嫌だ、やはり死後の弔いなんて生きている側の自己満足だ。我ながら反吐が出るね」

 それから重い体を引きずって部屋を後にした。長い長い廊下を進み、あの番台の下へ。鍵を返すとき番頭が何か言っているような気がしたが、何も耳に入ってこなかった。

 それからまたあの蛇腹扉をくぐってレバーを右に傾ける。そうしてたどり着くのは黄みがかった蛍光灯の点滅する薄暗いトンネルの奥だ。 

 私は君の望む狭くて、暗くて、冷たくない世界とやらに君を連れて行ってはやれない。それでも君を一人にはしないと、膨らんだ腹を撫でた。





 狭苦しいトンネルの中に、梵鐘の音が荒々しく鳴り響く。それを聞くや否や周りの露店はバタバタと店じまいの準備を始めた。じきにここらの明かりは全て消灯する。そうなれば商売どころではない。

 並べておいた商品を下げる音、売り上げを数える音、看板を下げる音。その中で俺は、売れ残った商品を見下ろしたまま動く気になれなかった。今日の品はきっといい値で売れるという自信があった。しかし結果は目玉商品二つとも見事に売れ残り、目の前に転がっている。片方はそろそろ腐って食えなくなるだろう。

 横たわる脂ののった若い女。見た目はよくはないが味はそこそこだと思われる。血抜きの処理も完璧にしてあるし、抜いた血は真空パックに保管して買取も可能だ。腸の類も全て鮮度を保った状態で保管してある。心臓と胃袋、片側の肺は売約済みだが。

 中身を抜いた女の腹には、丸々と太った二歳児を丸ごと詰めた。本当は首が座っていないような生まれたてか、生まれる前に胎で死んだ水子が望ましいのだがまあ仕方がない。子持ちの女は養殖でもよく売れるが、何しろ数が出回っていないし高値がつく。こんな最下層の市場で売り買いされるものではない。だからこそ、こうやって適当な女の腹を裂いて赤子を詰めたものが売られる。本物には遠く及ばないが需要はあるのだ。まあ、今回は見事に売れ残ってしまったが。

 女は明日には売れるだろうか。売り切らなければそれこそ破産だ。死に物狂いで売ってみせる。

 問題はこっちの腐りかけの方だ。

「天然の、血統書付きの人間なんて、話のタネになると思ったんだがなあ」

 そもそもこんな紙切れ一枚あったって、こんなところにやってくる客にはちり紙くらいの価値しかない。せめて、この人間が、

「珍しいね、羊宮通りで人間の男が売っているなんて」

 飛んできた言葉に驚いて後ずさる。安い煙草と酒に焼かれていない凛とした声、ここらではめったに聞くことのない美しい発音。煤汚れ一つついていない上等な外套に身を包んだその客は、口元にだけわざとらしい笑みを浮かべ、うちの店の商品を見下ろしている。

 どうやら腐りかけの商品が目に留まったようだ。物珍しさから買い取ってもらえたらと、ダメもとで売り込んでみることにした。

「め、珍しいでしょう? 目玉商品です。なにしろ頭の先からつま先まで、内臓も全て揃った正真正銘の天然ものです。血統書もありますよ。どうやらずいぶんと生まれが良いようで、肉付きも髪の艶も悪くない。爪をはがして食べてもきっと美味しいですよ」

 その客は「血統書」という言葉を聞くと、見せてみてほしいと手を出した。俺は手にしていた紙切れを恐る恐る客に差し出す。正直俺は書いてある内容はよくわかっていないのだ。言い訳をすると、こんな通りにやって来る奴らに読み書きが満足にできるような輩はいない。

 とにかく安かったのだ。この人間の男は。天然の人間はなかなか市場に出回らない。養人場ではこんな年を食った男は破棄されるか種付け用に飼われるか、ミンチにして他の女の肉と混ぜられて売られるか。だから話のタネにでもなればと買い取ってみたら、こんなことになるなんて。

 「こんな血統書はでたらめだ!」と、この客が店先で言いふらしたら? そんなのたまったものではない。今すぐ血統書を奪い取って破り捨ててしまいたいが、そんなことはできるはずもなく。

「……あのう、お客さん?」

 覗き込むようにして声をかけると、その客は低く喉を鳴らして笑った。あんまりにも禍々しい笑い声だったから、思わず顔が引きつって全身が強張る。

「コレは私が買い取ろう」

「へ?」

 私が呆けている間に男は懐から皮の袋を取り出して私に放り投げる。慌てて受け取り、袋の中を覗き込むと、そこには輝く金貨が詰まっていた。

「お、お客さんこれは……」

「黙って受け取りたまえ」

 そう言うと、客は横たわっていた男の頭を無造作に掴み、大きな口を開けて足から丸ごと口に含んだ。六尺もあるような人間の男を、だ。バリボリと骨をすり潰し、肉を裂き、一思いに飲み込む。

「そそそそんなにこの男がお気に召しましたか?」

「ああ、とても。こんなところでお目にかかれるとは。きっとあの子も喜ぶ」

 うわ言のように呟くと、客はすっかり膨らんだ腹を、円を描くように撫でた。

「人間は、死が二人を分かつとも、例え骨になってしまっても、大切な人の傍にいたいと願う物だそうだ」

「はあ……」

「なに、ただの弔いだよ。反吐が出るようなね」

 梵鐘が再度響く。市場が閉じるまでにもう時間がない。

 客はゆったりとした足取りで雑踏の中に消えていく。暗くなり始めた羊宮通りに響く地を這うような不気味な笑い声が、零れ物市の喧騒の中でもやけに耳に残った。



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