八 ナオの記憶
レイラの傷はたいしたことは無かった。気絶したのは電気ショックによるもので、肩の傷も思ったより浅かった。わざとだとすればたいした腕だ、それともレイラが間一髪逃げたのだろうか。
誰もいない夜の事務室で、ナオは買ってきたホットのココアを飲んでいた。ひいきしている紅茶が今日に限って売り切れだったのだ。
建物自体は二十四時間営業なので暖房は効いている。それでも一人でいるとなんだかいつもより寒く感じた。
『貴方の両親は、私がこの手で殺したわ』
ミズキがさらりと言った言葉がナオの頭の中を駆け巡っていた。
*
四歳の誕生日に、ナオは病院のベットで目を覚ました。
「キミの名前はナオ。ナオ・ヨシノだよ」
短めの白衣を来た背の高い男の人が、ナオの脈を採ってから額に手を当てた。
「熱は無いな」
眼鏡の奥から優しそうな瞳が覗いている。
「気分はどうだい」
ナオが無言で頷くと、その男は小さく笑った。
「キミはね、事故に遭ったんだ。交通事故にね」
医者は窓の外に視線を移した。
「きみのご両親は――お父さんと、お母さんは亡くなったんだよ」
ナオには分からなかった。
何も憶えていなかった。
医者が言った名前――ナオというの自分の名前なんだろう。でも自分の名前だけでなく、両親の名前も、顔も、何もかも思い出せなかった。
「思い出そうとしないほうがいい。これからは新しい人生を歩んだ方が、君にとっては幸せに違いないと思うよ」
両親の写真も、それまでの思い出の品もすべて取上げられ、ナオは新しい家族の元へ引き取られた。
ただ、桜の花びらが付いたネックレスだけは、どうしても手放すことは出来なかった。
*
ナオはネックレスを手にとって眺めた。
ミズキの姿を見て記憶が戻った。いくつか断片的だったが、母親の顔も思い出した。
あの日はナオの誕生日の前日だった。前祝と称して両親の仲間を呼んで楽しく夕食を取っていた。そしてそこに黒い服の少女が現れて――。
ナオはそこで思考を止めた。部屋は寒いのに不思議と汗をかいていた。額の汗をハンカチで拭いた時、ドアのノブが小さな音を立てて回った。
「水曜日はノー残業デーよ」
コンビニエンスストアーの袋を下げたまま、ミエは応接用ソファーに腰をおろした。
「はい、これ」
ホットのミルクティーがナオに向って飛んできた。
「好きなんでしょこれ」
ミエはホットのミルクティーをナオに渡してから、自分用のコーヒーを飲み始めた。
礼を言ってから口をつけると、あったかくて心地よい甘さが、ナオの口の中に広がってゆく。
「報告書読ませてもらったわ。でも、他にも何かあったんでしょ。個人的なことなら敢えては聞かないけどさ」
ナオはその言葉にほっと胸をなでおろした。正直一人で抱え込むには重かった。けれど相談する適当な相手もいない。ナオにはその事の方が辛かった。
「私の両親はミズキに殺されたんです」
重すぎる話題にミエは明らかに戸惑っていた。けれど言い出した手前もあったのか、すぐに落ち着いた表情に戻った。
「本人がそう言ったんです。自分が殺したって」
「あなたの両親は事故で亡くなったって聞いていたけど」
「はい、父には、育ての父ですけど、両親は交通事故で死んだと聞かされていました」
彼にとってはやさしさだったのかも知れないが、嘘には違いなかった。今度会ったら問い詰めてやろうと思った時、
ナオの頭に一つの考えが浮かんだ。
「あの、課長。二、三日お休みしていいですか」
「どうしたの急に」
「父から話を聞きたいんです」
確か作戦本部付戦略課長に昇進したとメールが来ていたから、今は本社勤務のはずだ。本社は首都のある第一行政区にあったから、ここからはかなり遠い。それでもとにかく一刻も早く父親に会って真実を確かめたかった。
「だめよ」
「え?」
いままで休暇を取るときに「だめ」と言われた事はなかった。ましてやこんなにはっきりとした理由があるのだから、断られるとは思わなかった。
「だめ、と言ったのよ」
「どうしてですか。レイラは療養中だし、事実上動ける状態でも……」
「そうよ、ミズキの件は一課に指揮権が移ったの。もう三課には任せられないってね」
「すいません」
二度の失敗が第二事業部長の機嫌を損ねたに違いない。一課でも手を焼くだろうとが、今この時期にミズキの相手をしなくていいのは助かった。
「じゃあ、どうして」
「あなたは明日から出張よ」
「はい?」
「本社に二日間。それでも休みたい?」
ミエの口元が僅かにゆるんだ。
「いえ、喜んで」
正直嬉しかった。首都に行くには、それなりの交通費ががかる。宿代だって馬鹿にならない。それが会社持ちとなるのだから、嬉しくないわけが無かった。
「作戦本部長にミズキについての報告をするのが今回の用務よ」
「でも、どうして私が」
こういう報告は課長か、調査係長の仕事だ。普通に考えればナオが行く事などありえなかった。
「先方の要望よ。直接接触したものを報告によこせってさ」
ミエはコーヒーを飲み干すと立ち上がった。
「とにかくよろしくね。あと、あの二人も連れて行くといいわ」
「ありがとうございます」
ミエの去った後は、彼女が来る前よりも静かに感じた。
とにかく父親から話を聞こう。知りたい事はたった二つだ。両親は本当に殺されたのか、両親が一体何をやろうとしていたのか。考えるのはそれを確認してからでも遅くは無い。
飲み終わった空き缶を給湯室の資源回収箱に放り投げ、ナオは事務室を後にした。