五 第十三管理局
第十三行政区の区役所がある市街地を少し内陸に入った所に区営の広域公園がある。そこは子供用の遊具やバーベキューコーナー、オートキャンプ場に区立の温泉などが設置された複合レジャー施設で、その一角に大きくそびえたつ第十三管理局の建物は、高さ十五メートルのプレストレスのコンクリート柱と長さ三十メートルもある鉄骨トラスで出来ていた。
建てられた当時は建築賞を総なめにし、建築関係には人気の建物だったが、二年前に公開された映画『サクラの咲くキセツに』のロケ地として注目され、今では旅行ガイドにも載っている有名な観光名所となっていた。
大空間の中央には高さ九メートル六十五センチの巨大なオブジェが飾ってある。それはぐにゃりと曲がったものが上に向っているだけの簡単なものだったが「苦悩とダンス」と言う名前が付いたトモコ・オクデラという有名な彫刻家の作品だった。
管理局の事務室がある一階には、昨年できた区の観光案内所があり、合わせて三十人ほどの職員が働いている。地下一階にはコンピューター教室や社員研修、時には老人会のカラオケ大会などが開かれる研修施設が全部で十三室あり、約千五百人が収容できた。
ここの行政区を管理しているメインフレームは地下三階の特別電算室に設置されていた。
特別電算機室は広大なフロアーの中央に位置する小さな体育館ぐらいの大きさの部屋で、その前には同じ大きさの電算機室があり、変電室、電気室、蓄電池室、発電機室、空調機械室などがその周りに配置されている。
電算機室に入って左側には、一間四方ほどの大きなスーパーコンピューターが一台置いてあり、その隣には同じだけのスペースが二つあった。反対の壁面には、十九インチの情報用ラックが一面に設置されていて、中にはサーバーとスイッチ、パッチパネルなどがびっしりと詰め込まれている。
全面にカーペットが敷かれているこの部屋の中央部分の十二帖くらいのスペースに、足の短い小さ目のテーブルがあり、それに合わせた三人がけのソファーが置いてある。その対面には、四十五インチの液晶カラーテレビと専用のテレビ台が座っていて、中にはハードディスク内蔵のDVDレコーダーと、CATVのセットアップボックスが丁寧に並んでいた。
それはごく普通の家庭にあるリビングルームそのものだった。
コンピューターに囲まれたこの異質な空間に存在するその女の服は、それに輪をかけて異質だった。いまやアニメーションでしかお目にかかれないようなべたなメイド服の女がティーカップに手を伸ばした。
りんごの香りがする紅茶と半分だけ手をつけたイチゴのミルフィーユ。駅前の喫茶店のケーキはとても人気があってなかなか手に入らない。事務の女の子が偶然手に入ったからと持ってきてくれたので、アヤメは喜んでそれを頂戴した。
ソファーに浅く腰掛けてアヤメが見ているのは、この建物がロケ地になった人気映画『サクラの咲くキセツに』だ。DVDが発売されると同時に手に入れたが、思った以上に出来が良くアヤメのお気に入りになっていた。
「いい話よね」
アヤメはハンカチで目に浮かんだ涙をふき取ってから、再生の終わったDVDを取り出してそれをケースにしまうとテーブルの上に大事そうに置いた。
同居人が帰ってくるはずの時間はとっくに過ぎていた。大雪で出発が遅れたのだろう。一週間ぶりに会うのだから、アヤメは少しだけ緊張していた。
「お茶でも入れておこうかな」
入口の扉が開いたのは、アヤメが立ち上がったのと同時だった。
「お帰りなさい。遅かったですね」
「途中で軟派されたのよ」
黒いワンピースの少女――ミズキは、部屋に入るなり無愛想にそう答えてから、ソファーに身を投げ出した。
「そんな物好きがいたんですか」
「物好きってどういう意味」
「いいえ別に。それでどうしたんです」
「ちょっとだけ遊んであげたわ」
ミズキは机の上に残ってたミルフィーユを見つけ、手で掴むとそのまま口に放り込んだ。
「美味しいねこれ」
指についたクリームを舐めるミズキの姿は抱きしめたくなるほど可愛かった。
「でしょ、駅前にある喫茶店のケーキなのよ。何て言ったっけあの店。事務のアラキさんが買ってきてくれたの。冷蔵庫にミズキの分もあるんだけど、食べますか?」
「いい」
アヤメはいつもより元気ないミズキが気になった。
「どうかしたの」
向側に正座をして、アヤメがミズキの顔を覗き込む。チラッと目を合わせたミズキはすぐにテレビの方に視線を逸らした。
「べつに。ちょっとね」
テレビの上には四歳ぐらいの女の子とその母親が並んで写っている写真が飾ってある。ミズキはその写真をしばらく眺めてからテーブルに視線を戻した。
「また見てたんだ」
「ええ、好きなんですよそれ」
ミズキはさっきまでアヤメが見ていた『サクラの咲くキセツに』のケースをテーブルから取上げると、それを頭の上で軽く振り回した。
「ちょっと、何するんです」
アヤメは慌ててそれをミズキから奪い取った。保存用が別に買ってあるとはいえ、乱暴に扱われるのは許せなかった。DVDを取り戻したアヤメはしっかりとそれを抱きかかえたまま立ち上がった。
「そろそろ始めましょう。運ぶの手伝いますから」
ミズキは無言のまま立ち上がり、地下二階の搬入口へ向った。アヤメはその後を追った。
地下二階の搬入スペースには、雪の帽子をかぶったままの三十トントレーラーが静かに止まってた。地下三階への人の出入は禁止されているので、荷物はすべてこの場所でアヤメたちに引き渡される。
トレーラーのウイングを開けると、一間四方のコンピューターとその周辺機器が頑丈に固定され、可搬型CVCFと発電機がそれに寄り添うように並んでいた。
「随分と大げさですね」
「止めないで持ってくるの大変なのよ」
ミズキはトラックの荷台に飛び乗ると、CVCFを搬入口の電源に切り替えた。
フォークリフトで電算室直通の搬入用エレベーターに積み替えられたコンピューターは、今度はエレベーター内の電源につなぎ変えられて地下三階の電算室へと向う。
二つある予備スペースの一つに運び込んで、電源やネットワークケーブルなどを差し込むと、ミズキは端末からルーター等の設定を変更した。
「ここの設定って随分面倒よね」
「仕方ないです、あの人の仕様ですから。ちゃんと挨拶して下さいよ」
隣りの特別電算室に居るのは、アヤメが「あの人」と呼んだメインフレームで、一般には管理者と呼ばれている。ここ十三行政区の予算を始めとした行政全般をすべて一人で管理している。一階の事務員はその補佐役でしかない。提案や異議申し立てを行うことは可能だったが、最終的な決定は管理者と首都に居る統治者にのみ許された権利だった。
「分かってる」
ミズキは面倒くさそうに返事をすると、特別電算機室へ続く扉へと向った。
入口の電子ロックに手をかざすと軽い音を立てて鍵が開いた。ミズキがゆっくりと扉をあけて特別電算室に足を踏み入れると、少し薄暗い部屋の中は低めに調節された空気が天井のエアハンドリンクユニットから噴出して、冷たく漂っていた。
高さ二間、幅六間ほどの巨大なコンピューターが部屋の中央で仕切られたガラスの向こう側に置いてある。それは管理者と呼ばれるメインフレームだった。
その手前には、書斎にあるような立派な机が置いてあり、椅子に深々と腰をかけて文庫本を読んでいた少女が、ミズキに気付いて本を閉じた。
見た目は十五、六歳。ミズキと対照的にピンク色のワンピースを着ているその姿は、かわいいと言う表現がぴったりだった。
「ただいま戻りました」
「お帰りなさい。どうでした研究所は」
「はい。とても楽しかったです」
ミズキは緊張していた。けた違いのパワーと能力をもつこの管理者――サクラの前に立つときはいつも、恐怖に似た感情が沸き起こる。少し幼さの残る顔つきに似合わない落ち着いた立ち振る舞いは支配者の一人であるという貫禄を十分に持っていた。
「なにか面白い事はありましたか」
「いいえ」
「そう」
持っていた本を机の上に置いてから、サクラは長い髪を掻き揚げた。ミズキはその髪の毛からシャンプーの匂いが漂ってくるような錯覚に陥った。
「何を読んでいたのですか」
別に気になったわけではない。黙っている事に耐えられなかったのだ。
「これ? 十四歳でデビューした天才少女の小説よ。貴方も読んでみなさい」
サクラは立ち上がって机の前に移動すると、さっき読んでいた本をミズキに渡した。
「遠慮は要らないわ、もう五回は読んだのだもの」
柔らかい微笑みは、それでもミズキの緊張を解してはくれなかった。
サクラの机の上にはさっきミズキが見ていたテレビの上のにあるのと同じ写真が飾ってあった。ミズキはその写真を見ているうちに、黙っている事が出来なくなった。
「あの子に逢いました」
ミズキはサクラから視線をはずしたままそう告げた。
「あの子って?」
「ナオ・ヨシノです」
視線を戻してから、峠で出逢った少女の名前を伝えると、まるでその名前を聞きたくなかったかのようにサクラの表情が曇った。サクラにとってその名前は特別だった。それはミズキにとっても同じだったが、サクラのそれはミズキが思う以上に特別なのだろう。
「そう、元気だった?」
「はい。とても大きくなっていました」
「十五年ですものね」
その感覚をミズキは理解できなかった。人間と違って成長と言う概念がないからだろう。でも管理者であるサクラは、感慨深げに遠くを見た。
「あの子、アルデバランにいるようです」
「知っているわ」
「私のことは覚えてませんでした」
ミズキはナオと会った時の事を思い出していた。もしナオが自分の事を覚えていたら、あの時拳銃の引き金を迷わず引いていたはずだ。だから間違いない。ナオはミズキのことを覚えては居ないのだ。それは少しだけミズキを寂しい気持ちにさせていた。
「同じ道を歩んでいるのね」
その言葉に反応して、ミズキはもう一度サクラの顔を見た。サクラの表情はいつもの無邪気な少女のものではなく娘を心配する母親のようにみえた。
「今度は違う結末になってほしいものね」
サクラはミズキを見ていなかった。ここではないどこか遠くを見ているようだった。
ミズキはサクラから視線をはずして、目の前の床をただじっと見つめていた。