二 雪の高速道路
空気中に含まれる水分が凍って出来た小さな氷の固まりが、きらきらと輝きながらまだ暗い道路の上に舞っていた。風の無い日にはダイヤモンドダストと呼ばれるこの氷の塊を見ることができる。もちろん空気中の水分が固まるのだからただ寒いと言うだけではだめだ。肌を針でさしたような痛みを伴うほど冷たい空気が必要だった。
昇り始めた太陽の光がそのダイヤモンドダストに反射して輝き、オレンジ色に染まった水平線は静かにゆれていた。
降り注ぐダイヤモンドダストを吹き飛ばしながら、ネイビーブルーの商用バンが雪の降り積もる都市間高速道路を時速百四十キロで北の方角――第十三行政区に向かって走っていた。
トレーナーにジーパンというラフな格好でハンドルを握っているのは、トモヤ・ソガ・クロタキ、二十六歳だ。彼は国際B級のライセンスを持っているレーサーだが、最近は公式競技に参加していない。仕事が忙しいというのが理由の一つだったが、トモヤはもともと競争というものが好きではなかった。だから早朝の高速道路を走るのはとても楽しかった。
ロータリーエンジンの振動に身をゆだねながら、トモヤは黒いスチール缶の表面に「ブラック加糖」と書かれた缶コーヒーに手を伸ばした。数ある缶コーヒーの中でもこれが一番のお気に入りだった。
片側三車線の道路は除雪車が積み上げた雪の為に、二車線分の幅しか残っていない。近くに車の気配は無かったので、トモヤは残った二車線の真中を我が物顔で走っていた。
都市間高速道路は、まだ人間がこの国を統治していた頃、一部の政治家が公共の福祉という言葉を隠蓑に、自分の私利私欲と人気取りの為に建設させた遺産だった。予算の関係でインターチェンジは市街地からかなり離れた所に造られた上、通行料も高速鉄道よりかなり高く設定されていたので、不便で高い高速道路として開通当時から人気が無かった。
十年前に通行料は不要になったが、市街地内への車両乗り入れが法律で規制されたこともあって、利用者は相変わらず少なかった。
建設コストの削減を理由に、この道路はただひたすらまっすぐに造られていた。いくら運転好きのトモヤであっても、五十キロメートル以上もまっすぐだとさすがに飽きてくる。
単調な道と、隣から聞こえるかわいい寝息に誘われて、トモヤは大きくあくびをした。
「運転代わりましょうか」
「なんだ、起きてたのか」
トモヤの後ろから抑揚のない声が聞こえた。
レイラ・ヤシンは窓に寄りかかって外を見ていた。
武術と剣術を組み合わせたマイナーな格闘技の師範だと自称するだけあって、レイラは素手でも、刀を持たせてもとにかく強かった。今年二十二歳になるはずだが、愛嬌とは無縁で女らしさにも少々かけていた。美しいその顔は、ほとんど変化のない表情によって更なる美しさを演出していたが、それゆえ、異性だけでなく同性にも近寄りがたい存在となっていた。レイラはそれでもそのことを全く気にしていないようで、むしろ積極的に人との係わりを避けている様に見えた。
一緒に働き始めて一年が過ぎようとしていたが、レイラの笑顔をトモヤは一度も見たことがなかった。時々彼女はロボットなんじゃないかと思うことがある。
「眠いんでしょう。運転、代わりますよ」
「いや、いい」
再び襲ってきた欠伸を噛み殺しながら、ルームミラーに写るレイラを見た。相変わらず愛想の無い顔が少しゆがんでみえた。
「そうですね」
そう言ってレイラはトモヤの視界から消えた。レイラとの会話にかみ合っていないもどかしさを感じながら正面を向き直ると、まっすぐ伸びる道路の先に大きな壁が現れていた。
「なんだ、あれ」
雪だった。
激しく降り注ぐ雪は、天まで届くほど大きな壁となってトモヤの行く先を遮った。
「なんかやばそうだな」
用心のためにスピードを落とす。
雪はただまっすぐ落ちているだけなのだか、とにかくその量が半端じゃない。雪の壁を突き破って中へと進むと、視界が二、三メートルしか無い。ヘッドライトが反射して出来た光の壁がさらに視界を悪くした。
黄色いフォグランプを点けて更にスピードを落とす。他に車が走ってはいないとは言え、少し心許なかった。
「イクミ、起きてるか」
ルームミラーを覗くと、ヘッドホンで音楽を聴きながらコンピューター端末のキーボードを叩いているイクミの姿が写ってみえた。
「おい、イクミ」
「そんな大声出さなくても聞こえているってば」
イクミ・キタヤマがヘッドホンを取り外して、少し高めの陽気な声を上げた。
改造された商用バンの荷台部分には三段のスチール製ラックが据え付けられていて、下段には百二十八個のプロセッサーを搭載した並列処理マシーンが四台並び、上段には無線機やレーダーといった通信機器の類が積み上げられている。
中段に設置されている作業端末のキーボードを手足のように使いこなす天才的ハッカーのイクミは、先月十八歳になったばかりだったが、彼女の精神年齢はもっと低い。はじめて会った時は小学生かと思ったほどだ。
コンピューターに没頭している時を除けば、イクミは一緒にいると楽しい存在だった。ネットで仕入れたトリビア的な知識で話題には事欠かなかったし、会話の乗りもいい。悩みなんて無いんじゃないかと思えるほど能天気なその性格は、時折引きこもりのごとくコンピューターと同化してしまう彼女を、現実の世界に引き戻す役割をしているようにもみえた。
トモヤはこの部署に配属になってから、彼女を妹のように可愛がった。一人っ子のトモヤにとってはそれが何だか楽しかったのだ。
「前が見えないんだよ」
キーボードを打つ手を休めて、イクミはシートの隙間からフロントガラスを覗きこんだ。
「あれまあ、これは。本当に何も見えないんだね、すごいすごい」
「だからそう言ってんだろ」
「ゆっくりいけばいいっしょ。急ぐ旅でもないんだし」
イクミはあっさりそう言うと、再びキーボードを叩きはじめた。
「おいちょっと無視するなよ。早く帰って一眠りしたいんだって」
出張先の第二行政区を出てから八時間は運転している。少しでも早く事務所に帰って仮眠を取りたいのがトモヤの本音だった。
「だから、運転代わりますってさっきから・・・・・・」
「やだ」
「私の運転が信用できませんか」
「出来ないね」
トモヤはレイラの申し出をかたくなに拒んだ。
「他人の運転する車なんて怖くてのってられるか」
自分の運転に自信があるだけに、他人の運転は危なっかしくて乗っていられない。たとえプロと呼ばる人の運転するタクシーであってもトモヤは絶対に乗るつもりはなかった。
「トモちゃんの運転も十分怖いですよ」
キーボードを打つ手を止めずに、イクミがけらけらと笑った。
「レーダーの準備完了したよ。トモちゃんの為に特別に用意したんだからね。感謝したまえ」
天井からプロジェクターが下りてきて、レーダー信号を元にコンピュータで作り出した三次元映像がフロントガラスに投影される。雪の合間からわずかに見える中央分離帯のガードレールがその画像にぴったりと重なった。
「完璧でしょ。念のためナビも載せておくね」
「さんきゅう。感謝してます」
フロントガラスの角に小さな地図が表示され、現在位置が赤く点滅をはじめた。なんだかんだ言っても仕事はきちんとやってくれるイクミには心から感謝していた。
「じゃあ飛ばすぞ」
トモヤは右足に力を入れエンジンの回転数を上げた。タコメーターの針が跳ね上がり、スピードが徐々にあがってくる。
「いっけー」
「ちょっと、飛ばしすぎじゃない」
悪乗りするイクミを小突いて、レイラが事務的に忠告した。
次々と落ちてくる雪はフロントガラスの前で二つに割れて車の横を走り抜ける。路面に積もった雪が舞い上がって雪煙を上げているのがバックミラーではっきりと見えた。
コンピューターの映像を頼りに走っていると、まるでアーケードゲームをしているかのような感覚に陥った。久しぶりにスリルのある運転をトモヤは結構楽しんでいた。
「すごい雪だね」
今更のように驚くイクミの写っているルームミラーには、左の耳に赤いリボンを付けた白いネコのぬいぐるみがぶら下がっている。それは助手席で熟睡してる係長が、出張先のゲームセンターで入手したものだった。
戦略三課処理係の係長、ナオ・ヨシノは二十歳の誕生日を間近に控えた少女だった。小さい頃から特別な訓練を受けて育ったナオは、武術もそれなりの使い手だったが、銃の腕は超一流だった。中学の時に全国優勝した事もあるらしい。
戦略三課処理係長の肩書きは社内では有名だった。単身敵陣に乗り込んであっという間に制圧したとか、奇襲をかけて国防軍を壊滅させたとか、事実をかなり誇張した伝説的な噂が原因だったが、そう言われるだけの業績を残しているのは真実だ。そしてその伝説の係長が十九の小娘だと知っている人はほとんど存在しなかった。
ナオはお世辞にも美人では無かったし、普段は天然としか言い様の無いボケを良くかましてくれた。だからナオが自分の肩書きを名乗った時の相手の反応は見ていて楽しかった。トモヤもはじめてナオに会った時、噂とのギャップに戸惑ったものだ。
再び襲ってきた睡魔と、隣りで寝ているナオの幸せそうな寝顔が癪に触って、トモヤはもう少しスピードを上げようとアクセルを更に踏み込んだ。
そのとき突然目の前に赤い光が現れた。
ギアを落としてエンジンブレーキをかける。
車体が左右に激しくゆれ、急激にスピードが落ちてゆく。
ルームミラーのネコがぶら下がったまま激しく左右に踊っていた。
「いったーい」
イクミが椅子ごと床に転げ落ちたようだ。
減速の反動で思いっきり前に投げ出されたナオは、すぐにシートベルトに引き戻され、さっきまで座っていたシートに思いっきり叩きつけられた。
「どうしたの」
レイラが運転席と助手席の間から顔を出した。
二つの赤い光が目の前に浮かんでいる。
「トラックだよな」
「トラックみたいね」
トモヤとレイラが同時に声を出した。
レーダーが作り出している画像には何も映っていない。それでもトラックはそこにいた。
「イクミ、レーダー壊れてるぞ」
「そんな事無いもん。道路は映っているもん。だから壊れてないもん。あのトラックが普通じゃないんだよ。もしかして幽霊さん?」
床に転がったまま、イクミは顔だけトモヤに向けた。
「ステルスのようね」
レイラは相変わらず動じていない。
「ステルス?」
「それ知ってる。レーダーに映らない奴だよね。トモちゃん知らないの?」
「知ってるよ。何でトラックがステルスなのかって言ったんだ」
イスに叩きつけられた衝撃で目を覚ましたナオが、ゆっくりと体を起こした。
「何、あれ」
「トラックです」
「それは見れば分かる」
「ステルス装置付です」
トモヤの答えにナオはしかめっ面を返してきた。何かまずい事を言っただろうか。
「イクミ、あれの登録番号を確認して」
「係長さんおはようさん」
「挨拶はいいよ」
「あい、了解」
イクミが立ち上がってキーボードを叩き始めると、車のフロントガラスに取り付けられたCCDカメラが、ズームの倍率を上げてトラックの登録番号を読み取リ始めた。
「登録番号はX29の0546。照合を開始しました」
柄にも無く真剣な表情のイクミは、人間技とは思えないほど早いキータッチで運輸局にハッキングをしかけ、トラックの登録番号の照合をはじめた。普段は能天気なイクミも、仕事になると人が変ったように真剣な表情になる。それが結構可愛かった。
「照合完了。第十管理局所属の輸送車両で最大積載量は十五トンです」
第十管理局は、第十三行政区をさらに東に進んだ隣町にあった。都市間高速道路は十三行政区から先は開通していないので、ここからさらに半日はかかるだろう。ご苦労な事だ。
「積荷は何?」
「サーバーが百三十台、どれも最新型みたい。欲しいな。もらっちゃいましょう」
イクミは元の能天気な少女に戻っていた。
「そうね、それは言い考えかも」
ドリンクホルダーからミルクティーを取り出したナオは、またもや怪訝な顔をしてそれをトモヤに突き出した。
「この寒いのにコールド買ってきたの」
「いいえまさか。買った時はホットでしたよ」
「冗談は顔だけにして」
「本当ですって」
「係長さん、まだ飲んでなかったんですか。すぐ飲まないと凍っちゃいますよ」
外気は氷点下三十度を下回っていた。車内は飲み物が凍るほどの温度ではないが窓際に置いておけばすぐに冷めてしまう。ナオはしぶしぶ冷え切ったミルクティーの蓋を開けると、それを一気に飲み干した。
「やるんですか」
トモヤがちらりとナオを見と、ナオは楽しそうにトラックを見ていた。彼女は何時だって仕事を楽しんでいるように思えた。
「そうね。据え膳食わぬはなんとやら、でしょ」
満面の笑顔で、ナオは同意を求めてきた。
「なんか違いますよ、それ」
「気にしない、気にしない」
空き缶をドリンクホルダーに戻すと、ナオはダッシュボードから拳銃を取り出した。
シグザウエルのP210。枝番に5が記されているそれは、百五十ミリバレルを装備したナオのお気に入りだ。
「でも、まずくないですか」
レイラが落ち着いた声でナオに話し掛ける。
「どうして」
「第十管理局に納入されるの予定の機材だとしたら、アケルナルの担当だと思います。他の管轄の物に手を出すのはちょっと……」
比較的アバウトなナオと対照的に、常に冷静に分析してから行動するので、トモヤはレイラを信頼していた。でも私情を挟まない判断力が、彼女の冷淡さを際立たせ、ますますレイラがロボットでは無いかと思えてくるのだった。
「うちのショバを移動中ならうちの獲物でしょ。ねえ」
もっとも、レイラの忠告をナオが素直に聞くことはない。ナオは腑に落ちない顔をしてトモヤに再び同意を求めた。
「そうですね。そう言う事にしておきましょう」
トモヤのその場しのぎの返答を、ナオは微笑で、レイラはしかめっ面で受け止めた。
それでもナオが積み上げてきた実績に反論の余地は無かったので、レイラもそれ以上何も言わなかった。
「いつも通り車ごと頂いちゃいましょう」
国の行政機関である情報省が各施設に送り込む輸送物資を強奪するのが戦略三課処理係の主な任務である。予定外とは言え、目の前の獲物をみすみす逃す手は無かった。
「前に出て、トラックを止めますか」
トモヤはそういってハンドルを握りなおした。こう言ったケースは前にも何度かあった。トモヤがトラックの前に出て車を止めると同時に、レイラとナオが急襲してトラックを奪う。確実、安全で成功率の高い作戦だった。
「いいえ、この天気ですから運転手がこちらの動きに気付かずに突っ込んでくるかもしれません。それでは車ごとつぶされてしまいます。私が運転手を制圧しますから、係長は注意を惹き付けておいてください」
トモヤの提案をあっさり否定すると、レイラは外に出る準備をはじめた。
レイラは冷静な判断力と、それを実行に移せるすばやい行動力を持ち合わせていた。どんなに絶望的な情況でも、常に活路を見出し作戦を成功させた。その姿は、命をかけて君主を守る騎士のようにも見えた。自分もナオの為に頑張っているつもりなのだが、如何せん実力が違いすぎだ。トモヤの取り得は実際、運転技術だけだった。
「それじゃ任せたわ。トモヤ、トラックの後ろにつけて」
ナオがレイラの案を採用したので、トモヤは指示どおり時速百二十キロで走るトラックの真後ろに自分の運転する車をぴたりと付けた。トラックとの間に出来た隙間は三十センチも開いていない。
「どんなもんだい」
自慢げに呟いたトモヤを見ている人はいなかった。出来て当たり前だとトモヤを信頼してくれているからだろう。それは嬉しい事だったが、なんとなく寂しくもあった。
「次のサービスエリアで合流よ」
レイラはナオの言葉に頷くと、サンルーフから身を乗り出して、車の屋根に這い上がった。
凍るように冷たい空気が流れ込んで車内の温度を一気に下げる。サンルーフの風を切る音が車内に響き、更に寒さに磨きをかけた。
「まるで忍者ね」
タイミングを見計らって、前を走っているトラックに飛び移るレイラを覗き込むように見上げながら、ナオは感心してため息をついた。
「さて、運転手にご挨拶しましょう」
トモヤはスピードを上げると、トラックの横に並んで走った。
雪はさっきよりずいぶんと弱くなって、視界が一気に開けてきた。
「おーい」
ナオは窓から顔を出して、トラックを運転している男に向かって手を振った。
男は驚いてしばらくはそれを無視していたが、やがてあきらめの表情で窓を開いた。
「なんだよ」
「何処に行くんですか?」
ナオはありったけの愛想を振り撒いたが、男は不安げな表情を返してきた。いきなり手を振ってくる小娘に行き先を尋ねられれば、警戒しない訳にもいかないのだろう。
「内緒だ」
「第十管理局ですよね」
明らかに動揺している運転手に、ナオは追い討ちをかけた。
「何を積んでいるんですか」
「知るか。オレの仕事は運ぶだけで、中身なんか知ったこっちゃない」
相手は早めに会話を切上げてパワーウインドウのスイッチに手をのばした。
「あの。この荷物、もらっても構いませんよね」
レイラが助手席に乗り込むのを確認したナオは隠していた拳銃を男に向けた。
男は驚いて反射的にブレーキを踏みこんだ。
道路に張り付いていた薄い氷の膜がトラックのタイヤをロックする。
それまでのスピードを維持したまま、トラックは横に滑り出すと、完全に制御を失って左にゆっくりと回転をはじめた。
「やばい」
予想外の展開にトモヤは焦った。トラックが回転しながらトモヤの車に迫ってくる。このままでは弾き飛ばされてしまう。そう悟ったトモヤはギヤを入れ替えて、アクセルを目一杯に踏み込んだ。四本のタイヤがものすごい音を立てながら空転をはじめた。
(ぶつかる)
そう思った瞬間、トラックの荷台が中央分離帯の雪山に激突して止まった。
バックミラーで様子をうかがいながら、トモヤもすぐに車を止めた。
「大丈夫かな」
トラックは道をふさぐように止まっていたが、倒れてはいなかった。突っ込んだ先が雪山だったので、トラックのダメージも少ないように思えた。
「まさかいきなりブレーキ全開とはね」
笑いながらナオは頭を掻いていた。
「拳銃突きつけられちゃ、誰だって驚きますよ」
「そう?」
路面が凍っていなければこうはならなかっただろう。いつもの事とはいえ、ナオの無鉄砲な行動にトモヤは寿命の縮む思いがした。それでも結果としてトラックを無傷で止めたのだから相変わらず強運と言うべきだろうか。
「大丈夫かい。生きてるかい」
『大丈夫です。予定通りお願いします』
イクミが無線機に向かって話し掛けると、すぐにレイラの声が帰ってきた。
万が一に備え、全員が小型の無線機を持ち歩く事になっていた。急な襲撃で確認をしていなかったが、レイラが無線機を持っていた事にトモヤは胸をなでおろした。
トラックがゆっくりと動き始め、真横になっている車体を元に戻しはじめた。
「先に行きましょうか」
「そうね」
予定通り三十キロ先のサービスエリアで待ち合わせをすることにして、トモヤは先に目的地へと向って車を走らせた。
雪はすでに止んでいて、雲の隙間から太陽が見え始めた。
待ち合わせのサービスエリアは第十三行政区と第三行政区との区界に位置する高台にあり、海を見下ろす事の出来る絶好の展望スポットだ。
サービスエリアとは言っても、ガソリンスタンドは開業してまもなく多額の負債を抱えて廃業していたし、トイレの付いた休憩施設も、売店と厨房はシャッターが下りたままで、残ったテーブルの脇に幾つかの自動販売機が置かれているだけだった。
「あったかいミルクティー!」
ナオは休憩室に飛び込むなり自動販売機とにらめっこをはじめた。
コーヒーにくらべたら、ホットのミルクティーが入っている自動販売機は格段に少ない。五台ある自動販売機のうち、ミルクティーがあったのは一台だけだった。
その中にある二つのミルクティーを交互に見比べながらナオは唸った。
「うーん。これは量があるけどおいしくないのよね……。仕方ないこれにきめた」
ナオは小さいほうの缶を選ぶと、同じ販売機で緑茶を二本買った。
「イクミの分はよろしく」
「彼女、何が好きなんですかね」
トモヤはお気に入りの缶コーヒー「ブラック加糖」を取り出しながら考えた。
「知らないの?」
ナオが不思議そうにトモヤの顔を覗き込んだ。
普段イクミと一番会話をしているのはトモヤである。彼女の飲み物の好みぐらい知っていて当たり前だと思われたようだ。妹のように可愛がってはいたが、イクミの好みを知らない自分に少し驚いた。
「彼女の好みくらい憶えておきなさいよ」
「彼女じゃないです」
トモヤは満更でもないのだが、イクミにそう言った感情はなさそうだった。同じ職場にいるうちはそう言った関係になるのもどうかと思うし、第一振られでもしたら気まずくなってしょうがない。だからトモヤはその感情を「妹のように可愛がる事」でごまかしていた。
「ふーん。それよ、そのオレンジジュース」
「冷たくってもいいんですかね」
「心配だったら、そっちのポタージュにしたら」
果汁三十パーセントのオレンジジュースと、ホットのコーンポタージュスープが上下に並んでいた。イクミのふくれっつらを思い出し散々迷った挙句に、トモヤはその両方を購入した。
車に戻るとすでにトラックはサービスエリアに着いていて、運転手の男がトラックから降ろされ、ナオが来るのを待っていた。
「ばっちり。コンピューター百三十台ゲットです」
荷台を調べていたイクミが、ナオに気づいて顔を出した。
「十台くらいもらってもいいですよね」
「後でね」
ナオはイクミに軽く手を振ると、トラックの前に立たされている男の横に並んだ。
「どうする気だ」
「ごめんなさいね。これも仕事なんですよ」
男はナオの父親とそう違わない年齢だった。得意の営業スマイルを披露しながら、ナオは男と腕を組んだ。
「こうすると、親子みたいだと思いません?」
父親とこうやって歩いた記憶をナオは思い出そうとした。幼い頃に事故で両親を失ったナオは実の両親の顔を覚えてはいない。今思い出そうとしているのは育ての親の方だった。
でも、あの男とこうやって歩いた事は無かったし、これからも無いだろう。
男と腕を組んだ体勢のまま、ナオは休憩室へと向う。男が照れと不安の入り混じった顔で仕方なくそれに従った。
ナオは男を休憩室の壁沿いに並べてあるベンチの前に立たせてから、一歩離れて正面に立ちもう一度にっこりと笑った。
「トラックは後でお返しに伺います。第十管理局でよかったですよね。お名前をお聞かせいただきますか」
「サトシ・ツガワだ」
「ツガワさん。今度お会いした時は、一緒にお食事にでも行きましょう。今日のお詫びをさせていただきたいので」
事実上父親がいなかった為か、父親と同年代の男性と食事に行くのは好きだった。イクミに言わせればそう言うのをファザコンと言うのだそうだ。
「それでは、おやすみなさい」
ナオは躊躇する事無く右手の拳をまっすぐ突き出した。拳は男のみぞおちを直撃する。
「ぐは」
突き飛ばされた男は後ろの壁にぶつかると、ベンチに座り込んで意識を失った。
「これで勘弁してください」
ナオは買っておいた緑茶をサトシの隣に置いて一礼をした。
休憩室は一応暖房が利いていた。それに自動販売機の出す熱で室内はそこそこに温かい。暫く寝ていても凍死する事は無いだろう。
「終わりましたか」
レイラがトラックから男の私物を抱えて休憩室に入って来た。
大き目のボストンバックと携帯電話。それに雑誌と数冊の文庫本だ。文庫本の作者の名前を見て、ナオは微笑んだ。十四歳でデビューしたナオの大好きな小説家の最新刊だった。この男とは案外話が合うかもしれない。でも、もう会う事も無いだろう。
「この人、きっとクビね」
「しかたないですよ、大義には犠牲が必要なんですから」
時どき引き合いに出される大義と言う言葉をナオはあまり好きではなかった。会社はその大義で成り立っていたし、そのためにいつも危ない思いをしてはいたが、大義のためには何でも許されると言う風潮が少なからず蔓延していて、それがナオにはどうしても気に入らなかった。
レイラは最後に写真盾をサトシの横に置いた。写真の中のサトシは今よりもずっと若い。
(この子どっかで)
サトシと並んで写っている少女は、ピンクのワンピースを着て楽しそうに笑っていた。見覚えのある顔では無かったが、その雰囲気は何処かで感じたものだった。
「いきましょう、係長」
写真盾をパタンと伏せたレイラの表情が寂しそうにゆがんでいた。レイラには生き別れの父親がいると聞いた事があった。きっと父親の事を思い出しているのだろう。ナオはそれ以上深く考えるのはやめて、足早に出て行くレイラの後を追いかけた。
休憩室から戻るとすぐに、レイラはトラックに乗り込んだ。
「これ運転できるの」
ナオは自分の胸まである大きなタイヤを蹴飛ばして言った。
「ええ、一応は」
免許証には「種類」というの欄があり、普通や大型など、運転できる車種がそこに書かれている。レイラの免許はそこにすべての車種が記載されていて、彼女が自動車と呼ばれるものなら何でも運転できるという事をナオは思い出した。
運転技術は確かにトモヤの方が上だったが、彼は普通乗用車しか運転できない。一つのものを極めるトモヤと、浅くても広い知識を求めるレイラとはそこが大きく違うところだった。
「これ忘れ物」
ナオは買っておいた緑茶を運転席に投げ込んだ。トラックのバンパーに乗せたままだったので、完全に冷え切っていた。悪かったかなとは思ったが、お金を出したのは自分なのだから、その事で文句は言わせない。
「先に行ってます」
「気をつけてね」
短くクラクションを鳴らすと、トラックはディーゼルエンジンの大きな音とともにゆっくりと走りはじめた。
太陽が雲に隠れ、大粒の雪がちらつき始めていた。
「また降ってきたね、係長さん」
隣で手を振っていたイクミが、降り始めた雪に気付いて空を仰いだ。
イクミとは十年来の友人だったが、ナオが係長に昇進してから仕事の時は必ず役職名で呼んだ。その理由を聞いた時「ケジメって必要でしょ」なんてらしくない言葉でごまかされたので、ナオも会えて追求しなかった。
「さっきから気になってはいたんだけど」
「なにが」
「トラックを襲撃した場所ってアルクトゥルスの管轄だったみたい」
「そうなの?」
「うん。きっかり十三メートル前」
「縁起がいいじゃない」
「あとで課長からお目玉かも」
たいていの事は大義で済まされたが、他の管轄で許可なく仕事をする事だけは厳しく禁じられていた。
「やってしまったものはしょうがないしょ」
「ですよね」
過ぎてしまった過去は取り戻せない。考える事を放棄したナオは、イクミと笑いながらトモヤの待っている車へ戻った。
「おせーよ」
トモヤが車のまどから顔を出して叫んでいる。
「トモヤちゃん。怒ると血圧上がっちゃいますよ」
「うるさい」
イクミが乗り込んでドアを閉めるより早く、トモヤは車を出した。
真っ白に積もった路面の雪を空高く巻揚げながら、トモヤは第十三行政区へ向けてスピードを上げた。どんなに急いでも、もはや仮眠する時間は取れそうになかった。
助手席から再びかわいいらしい寝息が聞こえてきたので、トモヤは何故だか腹が立ってきて、乱暴にアクセルを踏み込んだ。
雪が更に激しく降り始めた。