幕間2
そう、何もイムルはアソヤクに任せきりにしているわけではないのだ。
あの日、紫苑寺から逃げ出したイムルはその足で自国の大使館へと駆けこんでいる。この日はちょうどアソヤクが帰国する日であったから、これ幸いと自国の船に同乗し、芯国へいったん戻ったのである。
だがそれは敗北を認めたからでも珪己を諦めたからでもない。セツカの運命論を信じるイムルにとって、運命の半身を諦めること、すなわち、この人生において幸福になることを諦めることに他ならないからだ。イムルは苦しみや悲しみに満ちた半生にすでに辟易していた。いや、憎んでいるといった方が正確か。
以降、イムルは私的に雇った人間を使って湖国内を秘密裏に探索してきた。だが、首都・開陽はもちろん、その近辺の街も、できるだけ広範囲を捜させたにも関わらず期待した成果は得られていない。
「そろそろ湖国への通行制限も緩くなる頃だよな」
「そうですねえ。この春、遅くても夏には」
「楽しみだ」
言葉通りの笑みを浮かべたイムルにアソヤクが眉をひそめた。
「王子……やはりあなたという人は」
「ああ。悪いか?」
「悪いに決まっているでしょう。あなたは王子なのですよ。好き勝手な行動をとるのは構いません。今更ですから。ですが他国ではやめてください。私が王に叱られます」
「俺はまだ何をするとも言っていないぞ」
そうは言っても目は口程に物を言うとはまさしく真理で、イムルの瞳は空に瞬く無数の星とは比較にならないくらいにきらめき出している。湖国と芯国、双方を自由に行き来できるようになったところで再度湖国の地を踏む――それはイムルが以前から決めていたことだった。
「やはり運命は自らの手で掴むものなんだよ」
「はあ」
「他人任せでは見つけられるものも見つけられない」
「セツカ様がそうおっしゃっていたんですよね」
「そうだ」
セツカ――王節架はこう言っていた。
人間は生まれた時から旅をしているのだと。
失われた半身、運命の片割れを見つけるために旅をしているのだと。
イムルが湖国から戻ってきてからもそれほど荒れずに済んだのは、ひとえにこの運命論を信じ続けていたからだ。運命の相手を見つけ出すことは人の成し得る究極の奇跡で、その人にしか成し得ないことなのだとセツカは語った。欠けた半身を見つけ出すことで人は『完璧に満たされる』ことができる、とも。
生きることに苦痛しか感じられなかったイムルにとって、セツカの遺した運命論は非常に理にかなっていたし、今も正しいことだと思えている。つまりは、人は完璧な幸福を得ようと思ったら比類なき努力をしなくてはならないのだ。
物心ついた時からイムルは他の王子に比べて冷遇されてきた。幼い頃は毎日が辛く苦しかった。気狂いとなってしまった母と二人きりで暮らす日々には憩いは皆無だった。だが母を失って初めて気づいたことがある。あんな母でも己が唯一の味方だったのだ。
こうして成人をとうに過ぎたというのに、イムルは今なおこの都、この城にいる時は心安らぐことができない。血の繋がりは安心や平穏を担保するものではないからだ。それどころか自らを危険にさらすことがあることをイムルは十二分に知っていた。――知らなければこの年まで生き抜くことはできなかった。
そんなイムルだが少年時代には散々に悩んだ。どうしてこんな思いをしてまで生きる必要があるのか、と。王子であっても尊ばれない自分とはどのような存在なのか、と。しかしセツカと出会い、イムルは変わった。受け身であることをやめた。自ら新たな領域に踏み出す勇気を得た。そして楊珪己と出会ったことで、イムルはこの世界を完全に理解するに至ったのである。
「誰にも俺を止めることはできないぞ」
「ですがあなたは……」
王子なのですから、と常とう文句を言いかけたアソヤクをイムルは手を振りかぶることで速攻で黙らせる。
「俺が欲するものが何もないこの国が悪いんだ」
なんのてらいもなくすぱっと言い切るので、イムルの横暴さには随分慣れているアソヤクですらしばらく開いた口が塞がらなかった。ではこの城に住むあなたの二人の妻と四人の子供はなんなのですか――と。だが口には出さなかった。
「ここになければ外に出る。それだけだ」
残念なことに、イムルを諭そうとした唯一の存在、紫苑寺の女僧のことはイムルの記憶から薄れかけていた。一瞬――ほんの一瞬、女僧の話に心が動かされそうになったことは覚えているが、時が過ぎるにつれてイムルの記憶は都合よくねつ造されていた。意識的にか、それとも無意識的にかは分からないが、もはや『あの女僧の言っていたことは間違っている』という確信しかイムルの印象には残っていない有様だったのである。
「……あの女、この手の中に閉じ込めたら二度と離すものか」
言葉だけを拾えば純愛のようだが、語るイムルの目つきも表情も声の調子も、何もかもが野獣のごとくだった。さながらとっておきの小鹿を捕食せんと息巻く、ただの野獣のごとくだった。