幕間1
なんとなく――なんとなくでも違和感のようなものに胸をざわつかせることは誰にでもあるもので。
しかし彼にとってそのような経験はあまりなく、言葉にならない違和感を覚えた胸に、イムルは思わず手を添えていた。
群青よりも深い青に染まる海を一望できる、小高い丘に建てられた瀟洒な城。開け放した窓から遥か遠くを眺めている――そんな何気ないひとときのことだった。
ここは湖国ではない。芯国だ。
そして彼の名はイムル――芯国の王子である。
芯国人は湖国人に比べて上背がある。イムルはその中ではごく普通の青年に見える。だが見る者が見れば、彼が立派な体躯を有していることが分かる。目を見張るほど筋骨隆々としてはいないが、着衣越しでもその身にまとう筋肉のしなやかさと密度の高さは察せられるというものだ。それは日々の鍛錬の賜物であった。
夜風がイムルの短髪をさらりと揺らした。
「楊、珪己……」
イムルのつぶやきは生ぬるい潮風に混じり合い、彼方の海へと吸い込まれるように消えていった。
窓の下、庭園には大振りの赤い花が一面に咲き乱れている。海の色と、その上を覆う夜空の深い青との対比によって、赤が痛いくらいに映えて見える。だがイムルの心はそんな自然美などでは動かない。
今、イムルの眉を珍しくひそめさせているのは一人の女への想いからだった。
「俺の半身……。楊珪己……」
空の星は今夜もうるさいほどに瞬いている。
「お前は今どこにいるんだ……?」
意味もなく空に向かって手を伸ばしていた。なんとなく――そう、なんとなくだが、手を伸ばせば一つくらい掴めそうな気がしたのだ。
だが、握りしめ、引き寄せた手のひらの中には何もなくて――。
「王子」
背後から声をかけられ、イムルは一瞬にして表情を消した。伸ばした手を窓のへりに置き、王族らしく姿勢を正す。
「遅かったな。アソヤク」
背を向けたままのイムルに、対するアソヤクが苦笑いを浮かべた。
「これでも急いでこちらへはせ参じたのですよ?」
窓辺の椅子に勝手に腰をおろしたアソヤクは肩を揉みながらやや大げさに嘆息した。
「いやはや、やはり都は落ち着きませんねえ」
「お前は相変わらず賑やかなところが嫌いだな」
「ええ。それはもう。朝から晩まで仕事をさせられるのが分かっていてわざわざ出向く馬鹿がどこにいますか。この一年、禄をもらう代償に命を削っているような毎日でしたよ。早くチャイムウに戻って読書三昧の日々を送りたいものです」
「何を言う。お前の命ごときが金になるというのだ、素晴らしいことではないか」
そう言って振り返ったイムルは、まさに王族の一員といった尊大な態度をあらわにしていた。その黒みがかった虹彩に昼間の海を模したような青い輝きを秘めて。
現王が西欧からの献上女との間に成した子、それがイムルだ。
イムルの風貌が芯国人――祖父である前王によく似ていることは誰もが認めている。しかし他の王子と大きく異なる点が二つあった。一つはその虹彩が光の加減や角度によって青く見えること、そしてもう一つは王位争いから完全に離脱していることだ。
だが後者は兄弟間における敗北の所以ではなく、イムルが自ら望んだことだった。ただの平民どころか奴隷であった異人の女を母に持つイムルは、今や本人の奇行のせいもあって自由気ままに生きることに成功していた。
そう、イムルは今、我が事のためだけに生きていた。それは決して大げさな表現ではなく、イムルの言動がともすれば直接的、直情的になる理由でもあった。特に旧知のアソヤクといるときはそれが顕著となるのも――そうしたい相手だから、それだけのことだ。
ちなみにチャイムウとはアソヤクが治める県の名称だ。芯国――正式にはシムグゥアル王国という――の東北、湖国の国境沿いにある風光明媚なこの土地に、少年期、イムルは生活の拠点をおいていたことがある。それは湖国の海南州にてセツカ――王美人から運命論を教授された後のことである。
「それとも何か」
イムルが唇の端をあげて不敵な笑みを見せた。
「お前はその命以上のものをこの国に捧げることができるのか」
「滅相もないことを申し上げました。我が国は本当に素晴らしい国です」
感情ののらない口調で応えるアソヤクに、イムルがははっと笑い声をあげた。
二人の付き合いの長さは気取らない会話や態度からも推し量れる。だがそれは二人きりの時限定のものだ。
「さあ。酒を飲むぞ」
「あなたと共に過ごす夜に酒は必須ですからね」
そして侍従が運び入れた料理や酒を前に、昔ともいえない、けれど最近のことともいえないあの話題について二人は触れていった。
「湖国からは楊珪己について何か有益な情報は入ってこないのか」
昨春、アソヤクは大使として湖国に渡っている。だがそれは国交をひらくための臨時の任であったから、調停式を終えれば長居は無用、湖国皇帝が手自ら押した朱色の印も色鮮やかな書状を抱えて自国に帰っている。
だがそれ以降、アソヤクは悠々自適に暮らせるチャイムウに一度として戻ることが叶っていなかった。ここ――王都ルーミンにおいて事務方として湖国との外渉に引き続き関わっているからだ。
そして当時、イムルもこのアソヤクの副官として湖国の地を踏んだ。王子としての身分を隠してまで異国に赴いたのは、己が運命の半身を捜すためだ。
そしてイムルは見つけた。
運命の半身を。
「楊珪己の行方はまだ分からないのか」
重ねてのイムルの問いかけにアソヤクが緩く首を振った。
「いいえ。相変わらず何も分かりません。開国直後の他国のことですし、女一人の所在を突き止めるのは正直難しいかと」
このルーミンにおいてアソヤクが得る情報のほとんどは公的なものだ。その公的な情報の中に『女一人』に関する事柄が含まれている方が奇跡的なことだから、
「それぐらいは分かっている。まあ、あてになどしていなかったがな」
というイムルの発言は強がりでもなんでもなかった。
「なんですかそれは。そのために私を都に縛り付けているくせに」
憤慨したふりをするアソヤクにイムルが愉快げに笑った。
「……湖国は広大すぎるな」
ひとしきり笑い、杯の中身を一度にあおり――イムルが誰にともなくつぶやいた。
「どこもかしこも探させたが、あの国で一人の女を見つけるなど、海の中でたった一匹の魚を捕えるようなものだ」