11.2 虚空を見つめる
それから珪己は半月寝込んだ。
イムルに斬られた二の腕は、その後イムルに執拗になぶられたせいで肉がややえぐれてしまっている。その部分が化膿し、熱をもったせいで、珪己は寝台から起き上がることすらできなくなっていたのである。
いや、外傷はもちろんだが、珪己は心に深い傷を負ってしまった。その心の傷が体の回復に支障を及ぼしたのである。
*
まだ微熱はつづくがある程度状態が落ち着いてきた頃、珪己の元に隼平が訪ねてきた。
それは珪己が目覚めて以来の来訪だった。
これまで隼平の足が遠のいていたことにはいくつもの理由がある。うら若き女性が眠る室内に立ち入らないようにするのはごく当たり前のことだったし、その女性が枢密使の娘という高貴な人間であればなおさらだったのだ。
そして――最大の理由は深い罪の意識によるものだった。
訪れた隼平の顔は悲壮な色に染まっていた。ふくよかだった頬はややこけ、目の下にはくっきりとしたくまができていた。あの火事が起こった日から実に半月もたっているというのに、いつまでも心を整理できず、それどころか日に日に後悔や罪悪感といった重い感情が膨らんでいる有様だった。今回の件が堪えているのは、何も珪己や侑生だけではなかったのである。
「王子が仁威に手をかけようとした時のこと……なんだけど」
前置きもなく隼平が語りだした内容はあの日のことだった。今日は絶対に珪己にこの話をすると決めていて――話をしなくてはならないと思い詰めて――それゆえの突然の独白だった。
「氾空斗がね、突然王子に飛び掛かったんだ」
『うわああああ……!』
叫びながら突進していく空斗のことを隼平はただ見守ることしかできなかった。目の前に立つ侑生も背中でこう言っていた。『お前は決して動くな』と。『お前には何もできない』と。
いや、侑生が本当にそう考えていたのかどうか、今では確かなことは言えない。本人にあらためて問うのも今更だ。それにたとえ侑生に命じられていなくても動くことはなかっただろう。いや、より正確に言うならば『動くことはできなかった』だろう。
動けば――自分が殺されていた。
「それで……氾空斗が王子に……斬られて……」
それを隼平は舞台の一場面のように、当然の結末のごとく見ていることしかできなかった。あれだけ大げさな動作で飛び掛かればそうなるに決まっている……と。そういう第三者的な立ち位置で観察する自分に強い嫌悪感を抱きつつも、頭は冷静に現実を処理していた。
「……でもそれが王子に隙を作ったんだ」
空斗は真正面から王子の刃を受けつつも前進することをやめなかった。
剣を振りかぶりながら突進していく空斗には鬼気迫るものがあった。
「それで……」
本当はあの日、あの瞬間のことなど思い出したくもない。
名前が似ているからと、都から氾空斗と氾空也という二人の男を引き抜き、特別な任務にあてがったのは隼平自身だ。そして二人を連れて紫苑寺に向かった隼平は、そこで王子と遭遇している。それは彼ら兄弟が悲劇に遭遇した瞬間でもあった。
(あの日、俺があの二人を選んだりしなければ……)
紫苑寺での一件の後も思ったことを、隼平は今また思っている。
枢密院事という職位に就いて以来、武官の人事を一手に引き受けてきたが……人事とはその者の運命を左右するものであることをあらためて思い知らされている。その運命の中には死や別れも含まれていることも。
こうして珪己に語る行為は自分の罪をえぐるようなもの、自傷行為に近い。
だが話す。
それも贖罪の一つだと信じながら――。
「空斗が王子に覆いかぶさった瞬間、仁威が動いたんだ」
王子が望むままに無抵抗に斬られる覚悟を決めていた――少なくとも隼平にはそのように見えていた――仁威が初めて攻撃に転じた瞬間だった。
空斗の決死の想いにこたえることを決めた瞬間、微動だにしなかった仁威が突如動いたのである。
「……そこからは俺もよく分からない」
様々なことがあり過ぎて一つ一つを覚えていない、というのが実際に近い。
「気づいたら仁威と王子が剣を交えて……いて」
武殿の中央、稽古場で立ち会う武官達を日常的に眺めている隼平だが、この日の二人の闘いはそれとは別次元のものだった。とにかく動きが速かった。迫力があった。人間と人間がここまで死力を尽くして争う姿を前にして――不謹慎ながら、隼平は束の間みとれてしまった。すげえ、と感嘆すらしていた。武にうとくても目の前の光景の神がかり的なすごさは理解できた。
振りかぶられる、剣。軌跡を描く剣先が吸い込まれるように相手の体へと向かっていく様。その剣が相手の剣によって受け止められた瞬間の、はぜるような甲高い音。そして、飛び散る光。
動き続ける腕の膨らみ。止まらない足さばき。いからせた肩。しなやかな背中。決死の表情。流れる汗。どちらにも余裕などなかった。一つ一つの動きに、相手を確実にしとめようとする確かな意志が宿っていた。わずかでも間違えれば、即、命を落とす――そんな綱渡りのような瞬間が、双方の極限まで高めた集中力によって奇跡のように継続されたのだった。
そしていつしか、闘う二人は隼平や侑生から遠ざかっていた。
いや、実際には仁威がそのように誘導したのだろう。そう隼平は思っている。そんな都合のいいことが起こるわけがないからだ。
そして、闘う二人と、湖国側の人間――珪己や空斗を含む――との距離がある程度とれるや、日和見的な態度を貫いていた侑生までもがとうとう動いた。音もなく珪己に駆けよるや抱えあげたのだ。
その様を見て隼平はようやく目を覚ますことができた。だから自分もまた空斗の元へ行き、気を失っている青年の体を持ち上げた。
そして文官の二人は一切のためらいなくその場から逃げた。独りで闘う仁威に背を向けて。それ以外に選択肢はなかったのである。
だが階段を下りる際、隼平は一度だけ振り返っている。あれほど機敏に動いていた仁威の動きが止まり、上半身がゆるりと倒れていく様を瞼に焼き付け――それでも隼平はその場から立ち去ることを選んだのであった。
「ごめんね……」
隼平の閉じた瞳からぽたぽたと涙が零れ落ちた。
「珪己ちゃん、ほんとごめん……ごめんよ……」
実際、何度考えても自分には逃げることしかできなかったと思う。
建屋の外に出た瞬間、まるで四人が逃げ出すのを待っていたかのように、今出てきた建屋が倒壊した。がらがらと音を立てながら燃える壁や屋根が崩れ、それとともに業火が階段の方へと一気に駆けていった。まだわずかに火が回っていなかった場所も、またたくまにすべてが神龍のごとき業火の餌食となったのである。
紙一重で死を回避できたのだと――つい先ほどまで死の世界に片足を突っ込んでいたのだと――如実に知らされた瞬間だった。
空気が乾燥したこの時節、消火ははかどらなかった。結果、火の元である屯所にはかつての名残は一切見ることはかなわなくなった。なお、この火事によって、零央にある建築物の一割は全焼全壊、三割は半壊している。
闘いの舞台となったあの建屋付近からは百を優に超える遺体が発見された。そのうちの何割かはイムルによって殺された者で、多くはこの街の武官だと推測されている。素性に確信がもてないのは遺体の損傷がひどすぎるためだ。
指輪や剣といった、個人を特定できるようなものを身に着けていた者はいいが、この街の武官にはそういった人間はあまりおらず、今、ほとんどの遺体はまとめて近場の寺に保管されている。検証や捜査といった事務作業が終わり次第、燃え尽きた屯所の片隅に集団墓地がつくられ、そこに埋葬される予定だ。
遺体からは仁威やイムルと思わしき者は見つかっていない。……見つけられていないだけかもしれないし、実際には死んでいないのかもしれない。あの場から無事逃げおおせた可能性もなきにしもあらずだ。だが当時、屯所を密に囲んでいた御史台の面々からは、彼らと思しき人物の目撃談はあがっていない。街の外にまで念のため探索範囲は広げられているが、やはりなしのつぶてだ。
「ごめんね……」
泣き濡れる隼平に対して珪己は何も言わなかった。
責めることも慰めることもせず。
その目はただ虚空を見つめていた。
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