11.1 あの人は
たくさんの夢を見ていた。
夢の内容は忘れてしまったが、様々な人々、様々な光景が目の前に現れては消えていった。また、様々な出来事がまばたきする間もなく入れ代わり立ち代わり珪己の前に現れ、消えていった。それらのなかには現実のこともあったかもしれない。または、すべてが空想の物語だったのかもしれない。ただ、たくさんの夢を見ていたという感覚だけが珪己の中には残った。
そして――今。
(ここにはもう血なまぐさい争いなんてないんだ……)
なぜか、そう思った。
その瞬間、急速にすべての夢が、人々が、光景が、出来事が、圧縮されてとある一点に吸い込まれ――消えた。
こちらが現実なのだとぼんやりする頭で察したのは、薄く開いた瞼の隙間に光を感じたからだ。
「ここ、は……?」
ここは暑くも寒くもない。痛みもない。苦しみもない。そして――とても静かだ。
ゆっくりと目覚めつつある珪己は、そばに緋袍の青年の存在を感じ取った。
「隼平、さん?」
珪己の呼びかけに、ぼんやりと窓の向こうを見ていた隼平がぱっと振り返った。
「……ああ! 気づいたんだね!」
途端に隼平の丸い顔がぐしゃっとゆがんだ。
「よかった、ほんとうによかった……!」
「ここは……どこ? わたし、は……? 隼平さん、私どうして……いたっ!」
起き上がろうとするや、珪己は左の二の腕に強い痛みを感じた。そこは手巾できつく縛られ、圧迫されていた。
「そうだ……私……」
痛みによって珪己は過去の記憶を正しく取り戻した。それは柔らかな布団にくるまり横たわる今この瞬間とは真逆の記憶だった。
「ああもう。無茶しないで」
「……ここはどこですか?」
「ここ? ここは州城だよ」
州城とは州の行政事務を担う役人が集う城である。
ここ西門州の州城が州都である零央にあるのは常識だ。
とはいえ、州城はもちろん、州城の近辺にもこれまで近寄ることのなかった珪己にとって、それは寝耳に水の話だった。
珪己は再度起き上がろうとした。だが今度もまた隼平に制された。
「だめだって。まだ寝ていなくちゃ。珪己ちゃん、丸一日眠っていたんだよ?」
「丸……一日?」
「そうだよ。さ、まだ横になっていようね」
やんわりと肩を押されて横たわりかける。だが珪己は即座に反発した。
「皆さんは? 皆さんは無事ですかっ?」
「あ、ああうん。それは」
「それに赤ちゃん! 私の子供は? あの、私、子供がいるんです。晃飛さんに預けたままで。あ、晃飛さんっていうのは私の義理の兄で、それで」
一気に芽生えた焦りは珪己の思考速度をやすやすと超え、思いついた言葉があとからあとから吐き出されていった。
「ああでも、あのとき晃飛さんは私を追いかけてきてくれてたし、そしたら今は誰と一緒にいるんだろう。空也さんかしら。それとも」
「ちょっと待って。落ち着いて。俺、君の子供のことも梁晃飛のことも知ってるから」
「……そうなんですか?」
気色ばんでいた珪己の表情が見るからに柔らかくなる。だがこれに反してなぜか隼平の様子がおかしくなった。
「あ、でもね。えーと。うんと」
「どうかされましたか?」
「ううん、大丈夫。うーん、ああでも」
「隼平。私が話そう」
いつ戸が開いたのか、侑生がいた。目も覚めるような鮮やかな紫の袍衣をまとい、侑生が涼やかな表情で立っている。
「珪己殿。目が覚めたのですね」
「侑生、様……」
開陽にいたころ、珪己はこのような姿の侑生とよく接していた。瞳が一つ欠けている点は違っているが、今も侑生は侑生のままだった。
ただ、珪己に向けられたその瞳には、開陽では一切見せなかった深淵のかけらが映し出されていた。それゆえ珪己は名を呼ぶ以上のことができなくなった。
「あ、そうだ。医官を呼んでこなくちゃ。俺、ちょっと行ってくるね」
空気を読んだ隼平が立ち上がった。
「珪己ちゃん、話の前にちゃんと水分摂ってね。あ、厠にも行きたいよね。だれか女の人も連れてくるからちょっと待っててね」
急いで行ってくる、と言い残して隼平が消えると、室内はやけに静かになった。
沈黙に居心地の悪さを覚えつつ、珪己はそっと侑生を見上げた。そして小さく息を飲んだ。こちらを見る侑生の瞳や表情に、なぜか仁威の姿が見えたのだ。そろって美形ではあるものの、まったく似ていない二人がなぜか同じ人物のように見えたのである。
だがそれは一瞬のことだった。侑生はこの青年らしい柔らかな表情に戻ると、先ほどまで隼平が座っていた寝台そばの椅子に腰かけた。
「珪己殿。お久しぶりですね。約二年ぶり……でしょうか」
なんと答えるべきか迷っているうちに、珪己は返事をする時期を失った。そしてまた沈黙が始まった。
(……どうしてだろう)
侑生と二人きりのこの状況に、やけに落ち着かない自分に珪己は戸惑いを覚えた。まるで初対面の頃のように気おくれすらしている。いや、この感覚は侑生が姿を現した瞬間には芽生えていた。……たった二年、さりとて二年。その間、お互いがお互いの道を歩んできゆえのことなのか。
うつむいた珪己の視線がふと自身の胸元に動いた。誰かが着替えさせてくれたのだろう、真っ白で清潔な寝衣は、襟もとまでぴんと布地が張っている。だが着崩れて少しひらかれてしまっていた。
「あ……」
とっさに胸元で両手を隠す。
くすっと、侑生が笑った気配がした。
侑生は黙って立ち上がると珪己の肩に羽織りものをかけた。色合いからして女物のそれは非常に上質なもので、胸元を合わせながら珪己はようやく察した。この州城で手厚い介護を受けていられた理由を。それは十中八九、この青年の職位と手腕によるものだ。
「……ありがとうございます」
様々な意味を込めて礼を述べた珪己に、侑生が少し眉を下げた。
「いいえ。気になさらないでください」
羽織りものをかける際、侑生は珪己の肩にわずかに触れている。解かれた髪の隙間からのぞく白く細い首を見ている。そんな些細なことで侑生の頬がわずかに赤らんでいることを珪己は知らない。そう、侑生はただの善意で動いているわけではなかったのである。
今、侑生はあらためて実感していた。ずっと捜していた人がすぐそばにいる幸福を。
だが今はその歓喜のほどを表出しする状況ではなく、それゆえ元いた椅子に座った頃には侑生の表情には何の揺らぎも見えなかった。
「長い間苦労されたのですね」
会話は急に始まった。
「ずっとこの街にいたのですか?」
「……はい」
「ああ。尋問をしているわけではありませんからもっと気を楽にしてください」
それでも体がこわばらせている珪己に、侑生が困ったように言った。
「玄徳様はずっとあなたのことを捜していましたよ」
「……」
「玄徳様はあなたが開陽を離れざるをえなかった状況を理解しています」
「……」
「それとお子さんは無事です」
「……本当ですかっ?」
うつむいていた珪己の顔が勢いよくあがる。
「本当ですかっ? 元気ですかっ?」
「ええ。お子さんはこの州城にいて、今は別室で過ごしています」
侑生がうなずいた。
「さっきまで私もその部屋にいたのですがよく眠っていましたよ。世話人にもよくなついていますし、健康面でも精神面でもこれといって問題はありません」
「そう……ですか……」
ほっとした途端、珪己の両目から涙がこぼれた。
「よかった……よかった……」
「梁晃飛も無事です。氾空也も。二人はあなたの知り合いなのですよね」
「はい……。一緒に暮らしている人達なんです……。ほんとうによかった……」
涙しながらもようやく笑顔を見せた珪己は、はたと気づいた。痛ましい者を見るような侑生の目つきに。
珪己の涙が自然とやんだ。笑みも消えた。
二人、つかの間見つめ合う。
ややあって侑生が口をひらいた。
「袁仁威は亡くなりました」
音が一瞬にして消えた。
否、そう錯覚したのは珪己ただ一人だった。
「どういう……ことですか」
やっと言えたのはそれだけだった。
膝の上に置いていた両手はいつしか硬く握りしめられていた。
「どういう……ことですか……」
「珪己殿。落ち着いて聞いてください」
珪己の拳にそっと手を添えようとし――だが侑生の手は所在なく元の位置に戻った。
「あなたが混乱するのは当然です。いくつもの不幸が重なった結果でした。どうしようもないことだったんです」
「何があったんですか? 一体何が……!」
「落ち着いてください」
「何があったんですか……っ! だって……だって、あの人は強いんですよ? あんなに強いのにどうして……?」
目覚めたばかりで突然聞かされた訃報は悲しみよりも驚きを珪己にもたらした。そしてそれは一瞬にして怒りへと転じた。
「そんなこといきなり言われて信じられるわけがありませんっ……!」
「本当にどうしようもなかったんです」
侑生がその長いまつ毛をふせた。
猛る珪己に反するように、侑生の声が細いものになっていく。
「王子はあなたに非常に執着していましたから。……そう、あなたを失うくらいなら死んでもいいと、その意志を私達に堂々と示すくらいに」
一言一言、かみしめるように話すのは、言葉を厳選しているゆえだ。
「……火の回りも非常に早かった。あの状況下ではあなたを救うどころか、王子を沈静化することも難しい状況でした。私一人が闘って勝てる要素もありませんでした。……あの王子は『本当に』強いですから」
当時の苦悶を思い出したのだろう、侑生がぐっと拳を作った。
「だからなんでそれであの人が……!」
聞きたいのは言い訳ではない。優しさに丸め込まれるつもりもない。怒鳴りかけた珪己だったが、侑生の発する空気があまりにも重く、暗く――自然と言葉を飲み込んでいた。
急に静かになった珪己に向けた侑生の表情は、ともすれば泣きそうに見えた。
「あれは賭けでした」
ぽつりと侑生が言った。
「私の口車にあの王子がのってくれるかどうか……あれは賭けだったんです。そしてその時の私が考えついた唯一の手段でした。あなたを救い、かつこちら側の人間が誰も傷つかない唯一の手段だったのです……」
あの修羅場で侑生の語っていた内容、それに語り口の調子のよさを珪己はうっすらと思いだした。すべてを正確に聞き取れていたわけではないが、このような時によく飄々としていられるなと半ば呆れ、非情な人だとも思っていた。そして感心していた。さすがは上級官吏様だと。
あの時、侑生が本気で自分を売ろうとしていたとは、さすがに珪己も思っていない。それくらいには侑生のことを理解しているつもりだ。隼平は侑生の隣で慌てたり怒ったりしていたし、イムルは信じかけていたが――珪己は違った。
「ですが……そこにあの二人が現れた」
悔し気に侑生が顔をゆがめた。
「あの二人が……袁仁威と氾空斗が現れたことで状況は大きく変わってしまいました。王子はあなたと仁威の関係を知ってしまったのです」
「……え?」
ここで話が唐突に理解できなくなった。
「それは……どういう意味ですか?」
「そのままの意味です。もうその時にはあなたは気を失っていたのでしょう。……そして」
一つ、侑生が言葉を区切った。
自分にとって大きな意味を持つ話がこれから始まる――それを珪己は察し、口をつぐんだ。聞きたい、けれど聞きたくない――そんな相反する感情が芽生える。だが珪己が感情を整理するよりも先に侑生が口をひらいた。
「王子はあなた方夫婦の関係を断ち切ることを望みました」
断ち切る――?
「それは芯国では夫婦のどちらかが死ぬことを意味しています」
どちらかが――死ぬ?
「我々には王子の要望を断ることはできませんでした。断れば王子はあなたを即、殺した。王子にはそれができた。仁威にもそれはわかっていたのです。だから……仁威は……あの男は……」
これ以上は言葉にならないようで、侑生がきつく唇を結んだ。
「うそ、だ……」
珪己のつぶやきを侑生は否定しなかった。
「それと……氾空斗もまた重傷を負っています」
淡々と続ける。
「彼は今もまだ予断をゆるさない状態で……」
だがすぐに言葉を濁らせた。
「状態、で……」
何度か唇がひらきかけては、閉じる。だが言葉はもはや一言も出てこなかった。何度かそれを繰り返したのち、侑生は語ることをとうとうあきらめた。そして深いため息をついた。
それはとても深く長いため息で、それ一つで侑生の心境――悲しみだとか後悔だとかいうものがすべて伝わってきた。
そしてそのため息が珪己に事実を確信させた。
あの人は本当に亡くなったのだ――と。
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