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10.7 何をすべきかわかるな

「お前、この女とどういう関係だ」


 イムルが仁威に突然問うた。


 その瞬間、仁威の背後に立つ空斗がもっとも強い動揺を示した。突然自分がいる方に声をかけられたせいだ。次に強い反応を示したのは武に疎い隼平で、侑生はその長いまつ毛をわずかに揺らすにとどめた。


 仁威は三者三様の反応を肌で、または視界の隅の方で知った。そしてある程度予測していた一つの事実を確信した。『あの二人』は自分と珪己の関係を知っている、と。


 仁威の導き出した結論は、実際、正しかった。侑生も隼平も、晃飛から聞いて知っていたのだ。仁威と珪己が夫婦となったことを。これに二人が――特に侑生が何を思ったのかについては今は触れない。侑生自身も私的な感情は二の次でここにいるし、そのことは仁威にも察せられていた。そういう男だということも昔から知っている。


 いつまでも黙ったままでいる仁威にイムルがじれた。


「早く答えろ」


 それでも仁威は口をひらかない。


「おい。お前は知っているんだろう?」


 イムルが隼平に視線をやった。


「あ、それは、その」


 ちらりと侑生を見やり、仁威を見やり、それでも言い淀む隼平に、イムルの目がすっと細められた。


 ひやりとしたものを感じたのは――この場にいる全員だ。


「俺達は夫婦だ」


 とっさに仁威が白状した。そうしなければ隼平に危害がおよびそうだったからだ。この位置からでは隼平を護りに割って入ることはできない。ならば言ってしまうしかなかったのである。


 それに、いつまでも隠し通せることでもなかった。それにイムルの気質からしても、この建屋への火の回り具合からしても、悠長に会話をしている時間はない。


 そしてそれは侑生も同意見だった。イムルが自分の命よりも願望を優先できてしまう人間である以上、そしてイムルが珪己を捕らえている以上、誰もイムルに逆らうことはできないのである。……できるわけもないのである。だから、仁威が自らの口で言ってくれたことに正直安堵した。


 今、侑生は隼平と二人してことなかれ主義な官吏のふりを続けている。だが開陽から行方をくらましていた男女が夫婦となっていたことを知っていてはこの設定に反してしまう。


「落ち着け」


 唇を動かさずに、隼平にだけ聞こえるような声量で侑生が諭す。これに隼平がこくこくとうなずいた。そこは無反応でいいのだが、このような状況で与えられた役割を演じきることは隼平には荷が重いのである。何の説明も前触れもなくこの演技を始めた侑生側にも責任はあった。


 幸いなことにイムルの興味はまたも仁威へと移っていった。


「……そうか」


 イムルが静かにつぶやいた。


 案外素直にその事実を受け入れたのだな、と数名が思った矢先。


「さっきの話だが」


 今度は侑生に声をかけた。


「俺にあの男を殺させろ」


 束の間、静寂が生じた。


「……それはどういう意味ですか?」


 応じる侑生の声がわずかにこわばっている。それはこの日、侑生が初めてひるんだ瞬間だった。


 だがイムルの発言は酔狂によるものではない。その深く青い瞳がらんらんと輝く様からも、イムルが心からそれを望んでいることが察せられた。


 侑生の切れ長の瞳が思わず珪己へと動いた。だがイムルの発言にも珪己はぴくりとも反応しなかった。


(……気絶したのか?)


 愛しい夫の登場に、かけられた言葉に、なんとか張りつめ続けていた気がほどけたのだろう。


 侑生の視線の動きで、イムルも珪己が気を失ったことに気がついた。


「……ふん」


 これまでずっと掴んでいた二の腕からようやく手を離す。


 重力に従い、珪己の体が力なく床に落ちた。


「珪己ちゃん……!」


 根が単純な隼平が思わずといった感じで声をあげた。もう先ほどの侑生の忠告は頭からすっぽり抜け落ちている。


 だが隼平以外の人間は別のことに意識を集中させていた。ただの一兵卒である空斗ですらそうだ。なぜならば、珪己は生きている。この後の展開を切り抜ければ命に別状はなさそうでもある。となると、今は他に気にすべき人物がいた。それはもちろん、イムルのことだ。


「二年前、お前はあの男を俺に引き渡そうとはしなかったな」


 熱のこもったイムルの声音が、この場を新たな展開へと誘導していくかのようだった。


「いや、当時のことは水に流そう。だが今ならいいはずだ。俺にあの男を殺させろ。ここでならばあの男の死は不慮の事故ということで処理できる。違うか?」


 向かい合う侑生はイムルの提案を静かに聞いている。

 動揺はすでに表情の奥に見事に隠されている。


 逆に隣に立つ隼平は完全に動揺していた。両手を胸の前でわきわきとし、それに気づいてぎゅっと拳を作る、その二つの行動を延々と繰り返している。侑生とイムルを交互に見比べる表情には、怒りと、困惑と、焦りとが見える。それに、混乱。強い混乱だ。だがこれ以上は何も言ってはいけないことはわかっているから、ひらきたくなる口を一生懸命つぐんでいる。


 仁威も何も言わない。

 この場の流れからして今は口を出すべきではないと判断している。


「俺はこの女がほしい」


 じれたようにイムルが語りだした。


「夫婦の絆を絶つためにはどちらかに死んでもらうしかない。あいつか、この女か。どちらかに死んでもらわなくては俺の幸福は反故にされてしまいかねない」

「あいつ……完全に狂っている」


 ずっと沈黙を黙っていた空斗が、仁威にだけ聞こえる声量でたまらずつぶやいた。


 だがそう思ったのは空斗だけではなかった。この場にいる湖国の人間の誰にもイムルの語る論理は理解できなかった。


 いや、侑生だけはイムルの思想の片鱗を理解していた。


 芯国では夫婦の関係はいずれかが死ぬまで継続されるというが、そこにはいい面もあれば悪い面もあるという。いい面は、恋愛面で比較的奔放な気質のある芯国人の行動を抑制する効果がある点だ。逆に悪い面は、夫婦関係を壊すために殺傷沙汰が起こる点にある。そのことを侑生は書物から知り得ていた。


 配偶者を嫌うあまり殺そうとしたり、逆に自ら死ぬことで現世の苦しみから救われようとする者もいるというのだから、芯国人とはなかなか激しい気質を有しているのだろう。当然、配偶者の浮気相手を殺す場合もあるし、その逆もある。よりよい幸福を求めた結果、殺人に手を染めてしまう人間が芯国にはすくなからずいるのだ。


 しかも、芯国人は興味深い価値観を有していた。被害者に落ち度があると認められると、加害者が一切責められなくなるというのである。


 たとえば……殺された男は妻を大切にしていなかった、夫婦関係を継続させる努力をしていなかった、等々、そのような背景あっての配偶者殺しは、ときとして勇敢さの証とみなされることがあるというのだ。


 よくやった、と。お前のやったことは間違っていない、と。


 とはいえ――。


「俺はあいつを殺すことでこの女の過ちをゆるすことにする」


 このイムルの発言は、湖国どころか、芯国の法にのっとるものでもなかった。両国ともに殺人は法で禁止されているからだ。


(……だが慣習という観点からは否定しがたいものがある)


 侑生はイムルの頬のこわばりに、揺れる視線に、彼の内にうずまく激情を察した。追い求め続けた女が別の男と夫婦になっていた――その事実を消化しきれず、けれどそれをゆるす他ないと自らに言い聞かせているイムルの心境を。


 それは侑生の胸でずっとざわついている感情によく似ていた。


 ゆるさねば女を殺す他ない――そうイムルは思いつめている。それほどまでに自らが信じることに重きを置いているのだ。


 だが侑生は違った。


 侑生とて、仁威と珪己が夫婦になっていることを知ってから一刻もたっていない。知った瞬間は強く動揺したし、悲しみと怒りの双方を覚えた。少なからず幻滅もしたし、己が愛の未来に絶望もした。


 だが侑生には愛する女を死なせるつもりは毛頭なかった。


 そう、先ほどから侑生が最優先で護ろうとしているのは珪己ただ一人なのである。イムルに言ったような、官吏としての自分の立ち位置などではなく。


 たとえ仁威と夫婦になっていようとも、子を成していようとも――大切に抱いてきた愛が報われないとしても。珪己を救うこと以上に優先すべきことは侑生にはなかったのである。


 そして侑生の意志は正確に言動に反映された。


「袁仁威」


 切れ長の双眸がまっすぐに仁威に向かった。


「ここで死んでくれるか」


 それは二人が再会して初めて視線がかち合った瞬間でもあった。


「侑生! お前、マジで何を言い出すんだよ……っ!」


 とっさに隼平が侑生の肩をつかんだ。

 さすがに元上司といえどもこの発言は理解できなかったからだ。


 だが隼平の制止も無視し、再度侑生が言ったことは――。


「何をすべきか、お前にはわかるな?」



 *



 見つめ合う侑生の瞳には迷いの色はない。


 それが仁威に光の速さで理解を促した。


 これは珪己を救うためなのだ……と。


 この極限状態においてほかに方法はないということも。


 イムルが自らの命を惜しまない限り、湖国側が圧倒的に不利なのは自明の理なのだ。そしてこの場の状況もよくない。いや、最悪だ。誰も立ち入ることのできない、火の手に包まれたこの場では、あと四半刻ももたずに全員が死ぬほかない。悩む時間も、相手を説得する時間もないのである。


 自分の命と、その他大勢の命。どちらを取るか。


 その他大勢の命の中には、当然、珪己の命も含まれている


 この二者択一であれば――仁威が選びたいものは一つしかない。


「だめだだめだ! あなたが死ぬ必要なんてない……!」


 たまらず空斗が叫んだ。


「そんなのだめだ……!」



 *


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