10.6 集結
誰もが口を閉ざしたこの場で、珪己は何も言わない。いや、しゃべるどころか、先ほどから何度も気を失いかけていた。
腕を掴まれた不自然な体勢のせいで、体の感覚がおかしくなっている。なのに傷口は尋常でなく痛い。そして何より、熱い。息が苦しい。くらくらする。時折眼前の光景が揺らいで見える。
(わた、しは……)
言いたいことはたくさんある。なのに言えない。
(私、は……)
私の人生は私が決める。
イムルはもちろん、誰にも決められたくはない。
(私は……!)
だが口が開かない。手も足もぴくりとも動かない。時折視界はぼやけるし、耳は遠くなることもある。自分の体なのに思い通りにならない、歯がゆさ。自分の将来のことに口を出すこともできない鬱憤、不満……。
仁威に会いたい――気づけば珪己はそれだけを願っていた。
『共に生きよう。永遠に……命尽きるまで』
『たとえ間違っていたとしても俺がすべての罪を引き受ける』
あの強くて愛しい人に――会いたい。
『お前のような女とともにいられて俺は幸せだ』
『俺はお前を愛している』
会いたい――。
『俺も……お前が大切だ……』
会いたい――。
最期に一目でもいいから――。
(……最期だなんて! 何を馬鹿なことを考えてるの!)
朦朧としてくる頭を珪己は強く振った。だが実際にはわずかに頭が傾いだ程度だった。
(最期だなんて……! そんなことを考えたらダメだ……!)
強く願うこと。心を強く保つこと。それすらできなくなったら――本当に終わりだ。
嫌ならば、変えるしかない。現状に不満があるのならば、自分でこの状況を打破するしかない。
わかっている。
でも体が言うことを聞いてくれないのだ。
(ああ……)
『大切なものほど護るのは難しいんだからね』
誰かの声が聞こえる。
知っているような、知らないような声が耳の奥の方でこだまして聞こえる。
『難しいんだからね』
(私の……大切なもの……)
家族。仲間。関わったことのある人たち。そして、自分。
理想。信念。生き方。生きているという実感。そして、愛。
『大切なものほど――』
まだこの街に住んで二年もたっていないけれど、この街で見つけたたくさんの大切なこと――今まさに奪われようとしているのはどれも失いたくないものばかりだ。
『護るのは――』
枢密使の娘として、皇帝の息子を産んだ女として、開陽に戻るべきなのは随分前からわかっていた。それでもずっとこの街にとどまり続けていたのは……。
『難しいんだからね――』
(動いて……!)
イムルに芯国に連れていかれるのも、開陽で後宮に閉じ込められるのもまっぴらごめんだ。そんな二者択一ならば即座に後者を選んでいた自分はもういない。
(動いて、私の体……!)
**
「……珪己っ!」
その男の声に、またも気を失いかけていた珪己の瞼が反射的に開いた。
仁威の声だ――とすぐにわかった。
燃え盛る炎を背にこちらに向かって走ってくる男はやはり仁威だった。その後ろには武官姿の空斗もいる。
声を出すことも、手を伸ばすこともできず、珪己はわずかに顎をあげて目の動きだけで仁威に応じようとした。私は大丈夫です、と。だがそれはかなわなかった。傷ついた二の腕をイムルに容赦なく握りしめられたからだ。
パチパチっ……!
珪己の目の前に光る白い星がいくつも瞬いた。
「ああああっ……!」
今まで以上の強烈な痛みに、またも意識が遠のきかけた。奥歯をかみしめ、なんとか意識を保つ珪己の顔色からは完全に血の気が失われている。
だがイムルは珪己を掴む手に力を入れ過ぎてしまっていることにも気づいていない。
「お前は……あの時の男か?」
つぶやくイムルの表情は元の殺伐としたものに戻っている。
「……ははは。まさかお前ともここで再会することになろうとはな」
片側の頬を持ち上げて笑う様は好戦的だ。
イムルと仁威、二人の間にひりつくような緊張感が走った。
開陽にて仁威に敗北した過去を思い出せば、イムルの怒りが再燃するのも当然のことだった。それは武芸の腕に相当自信があるがゆえの怒りだった。たとえ足の骨が折れていようとも、打ち負かされて意識を飛ばすなどという失態は幼少期にしか経験していない。そんなイムルにとって、あの日仁威に喫した敗北とは、己の矜持に傷をつけられたことと同意だったのである。
だが一触即発の雰囲気はすぐに霧散した。
きっかけは仁威の表情が変わったことにあった。
「珪己っ?」
周囲を囲みつつある炎や黒煙によって見えにくいが、珪己の二の腕からはかなりの血が出ている。その怪我の部分をイムルが執拗に痛めつけているのは遠目からでも明らかで、仁威の強い動揺を誘発したのだった。
仁威の変化にイムルが眉をわずかにあげた。
「……お前は。そうか」
じっと珪己を見下ろすイムルの様子には不可解なものに対峙したような戸惑いがある。
(これは……まずいことになったかもしれない)
仁威は焦りを覚えた。このわずかな時間で自分と珪己との関係をイムルに悟られてしまったのは完全に自分に落ち度だ、と。今は表情に出さないように努めているものの、焦燥に駆られた仁威の心は乱れに乱れていた。
イムルはもともとおかしな男だが、嫉妬に狂ったら何をしでかすか分からない。しかも、二人の関係がばれたらまずい人間はここには他にもいた。侑生と隼平だ。
この場にたどり着くや、仁威はざっと室内全体の様子を眺めている。これはもう武官時代の習慣であり、闘いを生業にしてきた者にとって必須の行動だった。イムルと珪己、そしてなぜか侑生と隼平までもがいることには即座に気づいていた。また、イムルが意外なほど穏やかなことから、侑生が何かしらの交渉をしていたことまで察していた。
そして――侑生は仁威の登場にさして驚くことはなかった。それどころか、やや眉をひそめた。自分はこの場に現れない方がよかったのだと、その眉の動き一つで仁威は察した。
自らの言動が時として状況を悪化させることを、仁威はたびたび実感し、その都度反省してきた。なのに己が人生においてもっとも緊迫した今においてしくじってしまったのだった。
「どうした?」
ずっと黙っていた空斗が、背後から仁威にそっと話しかけた。
「……いや。大丈夫だ」
己がすべきこともできることも、この状況下においては一つしかない。だから仁威は基本に戻った。息を吸って、吐いて。吸って、吐いて。まずは細く長い呼吸を繰り返していく。その都度下腹部に気を練っていく。そうやってあらためて心を整えていく。
勝負においては心を制御しきることこそ肝要だ。
目に見えて落ち着きを取り戻していく仁威に、空斗がほっとした様子を見せた。
「もう大丈夫そうだな。……で、俺はどうしたらいい?」
武官らしく気丈にふるまう空斗だが、その実、仁威とは真逆で足が震え始めている。
この街にいればイムルと再会する可能性があることは十分に理解していた。だがまさか、それが今日になるとは……。しかもイムルは珪己を捕えている。せめて珪己が健常であれば話は違うのだが、あのように満身創痍の状態ではこちらが圧倒的に不利だった。
とはいえ、やるしかないことは空斗にもわかっていた。闘うしかないのだ、一武官として。いや、一人の人間として。職務的にも人道的にも、敵に背を向けて逃げるという選択肢はもはやどこにもない。
とはいえ主として闘うのは、その技量がある仁威だけだ。だから空斗としては仁威が闘いやすいように何らかの助勢する心づもりになっていた。
「あなたの言うとおりに動くから指示してくれ」
だがそんな空斗に仁威が言ったこととは――。
「ではお前は珪己の救出を最優先に動いてくれ」
意味を問いかけ、空斗は無理やり言葉を飲み込んだ。
(まさか)
(この人がそんな最悪の事態を考えているわけがないのに)
なぜなら空斗は先ほどから確かに感じていた。仁威の背中からじわじわとにじみ出てくる闘気を。闘うことでこの場を収束させようとしているのだと察せられる類の闘気を。
(……いや。勘違いだな)
(そんなことあるわけがない)
やはり自分にできることは仁威が闘いに専念できるようにすることだけだ。そして、それ以外のことは自分にはできそうもない。だから空斗はうなずいた。かすかに芽吹いた不安には目をつむって。
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