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1.6 人は独りでは生きられない

 陣痛が進むにつれ、珪己もまた仁威にならうかのように思索の世界へと踏み込んでいった。


 それは夏に流産しかけ、激痛に苦しんだ時間を繰り返すようでもあった。


 あの時も珪己は痛みに耐えながら様々なことを考え続けていた。なぜ武芸を習い始めたのか、これからどのように生きたいのか――そういった人生に関する根本的なことについて。


 そして今の珪己が考えることといえば、まさに目前に迫った出産に関することだった。


(私、ほんとにこれから赤ちゃんを産むの……?)


 ここにきて急に不安が押し寄せ、珪己はやや混乱しかかっていた。


 出産に関する知識は、医師の韓や産婆の雨渓から教授してもらっている。だから痛みの正体もこれから我が身に起こる出来事も知識としては理解できている。自分が『そういうこと』をしたから子供ができたのだと、そのことについても事実そのままに受け止めてきた。


 だが――頭で理解し、整理してきたことのすべてが砂のごとく形を失いつつあった。


(これからもっと痛くなるなんて……信じられない)


 女ならば誰でも耐えられるものだと聞いているが、そんな生易しい痛みではなくなりつつある。毛から受けた張り手や蹴りの方が、一瞬だったこともありまだよかった。……そんなふうに思える時点で、出産という行為の恐ろしさと崇高さを理解できるというものだ。


 今日、珪己は毛に嬲られるたびに死ぬかもしれないと思った。


 だが、死ぬよりも命を生み出す過程の方がよっぽどこわくて、痛くて、辛いだなんて――。


(だったらどうして女の人は赤ちゃんを産むんだろう……?)


 この時代、女は生涯に四、五人は子を産む。平和な時代ゆえに独身主義を貫く女は増加傾向にあったし、重職に就いていれば子を成さない、もしくは一人か二人産む程度の女もいることにはいるが、いまだ時代は赤子を産まないという選択肢を女に与えてはいなかった。


 だから珪己は不思議に思ったのだ。どうして世の女性はこれほどまでに辛い思いをしてまで赤ちゃんを産もうと思えるのだろう、と。


 とはいえ、その解はすぐに自らの体験から導き出せた。


 たとえ今日のことがあったとしても、珪己は武の道から退くつもりは毛頭なかった。であれば今後も命を懸けて闘うことがあるだろうし、今日よりも痛い思いをすることも多々あるはずだ。そしていつかは闘いの果てにこの命を失うこともあるかもしれない。それでも武芸者であり続けたいのは、痛みや辛さをものともしない何かがそこにあるからで――。


(そっか……)

(みんな何かしら大切に思うことがあるからなんだ……きっと)


 閉じた瞼の裏になぜか亡き母の姿が浮かんだ。


『母様』


 この頃では滅多に思い出さない母の姿に、珪己は強い哀愁の念を抱いた。


『母様――』


 母は体も心も弱い女性だった。家から出ることは滅多になく、日がな琵琶を奏でていた。気分のいい時は笑顔を見せるし珪己の相手もしてくれるが、そうではない時の方が多かった。


『母様――!』


 調子の悪い時は何度呼びかけても返事もしてくれない――そんな母だった。だけど、いや、だからこそ、優しくしてもらえた日はすごく嬉しくてたまらなかった。


『さあ。おとぎ話を読んであげましょうね』


 九年前の楊家襲撃もそんな大切なひとときの延長線に起こった。


『鬼さんに見つからなければ珪己の勝ちよ』


 母の言葉を鵜呑みにして寝台の下に隠れ続けてしまったのも、その直前まで母と過ごした時間が楽しかったせいだ。


 だから母が亡くなった事実を前に深い悔恨と罪悪感を抱かずにはいられなくて――。


(……どうして母様は私を産んでくれたんだろう?)


 いわゆる普通の親子関係ではなかったけれど、母は母なりに自分を大切にしてくれていた。その気持ちを疑ったことはない。そして母は自分の弱さをきちんと理解していた。だから何度も『ごめんね』と謝られた。『一緒に過ごしてあげられなくてごめんね』と。


(……母様のような人でも産みたいと思えるくらい、出産ってすばらしいことなのだろうか)


 あの父が母に無理に子を産ませるとは考えられない。その確信もまた、自分が母に望まれた子供だと信じられる理由の一つだった。


 しかし珪己は出産に対してそこまでの思いはいまだ抱けていなかった。


 正直今すぐ楽になりたい、それだけだ。


 だがこれが終わったら何かの気づきを得られているのかもしれない。そしていつかは母の気持ちがわかる日が来るのかもしれない。


(でも……)


 珪己の眉が痛みだけが理由ではなくひそめられた。


(さっきまで死ぬかもしれないと思っていたのに、人を殺そうとしていたのに……)

(それなのに私は今から赤ちゃんを産むの?)

(産んでも……いいの?)


 命を産む行為とは、本来神聖なことのはずだ。生物の一切ない原始の大地に命を創造したのは二対の神だと言われているが、その神と同じことを、今、自分はしようとしていて……。


 気持ちの悪い冷や汗が出てきた。

 

 やけに喉が渇き、呼吸が乱れ出す。


 体を丸めた珪己は、このふいに芽生えた疑問に急速に囚われていった。


(まだ子供みたいな私が母親になっても……いいの?)

(母親になることができるの……?)


 赤子を腹から出さなければ――自分は死ぬ。


 だが腹から出した瞬間、こんな幼い自分でも親になってしまうのだ。


 しかし親になるということは、そんな腹から出せばおしまいというような、単純な行為を指すものではないはずだ。たとえば父、玄徳のように常に徳高く清廉とふるまうべきで……。


 もしかしたら自分はひどく大それたことをしようとしているのではないか――いったんそう思ってしまうとその疑念はなかなか消えてくれなかった。


 その間も下腹部の痛みは増幅しては減衰するを繰り返し、やがて痛みは腰へと下がっていった。まるでそこを毛に蹴られているかのような錯覚すらある。しかも痛みはさらに増していき、痛みの間隔までもが短くなり――暴力的なまでの痛みの応酬に、とうとう珪己は一切の思考を放棄した。


 痛みを逃すため、あらためて呼吸に集中していく。だがいくら集中しようとしても、喉の渇きが邪魔をしてうまくいかない。やや過呼吸になりかけ、珪己は意識して呼吸を抑えていった。だが落ち着いたところで寝台そばに置かれた水さしを取ろうとしたところ――うまく掴めず床に落としてしまった。


 薄手の焼き物は、ぱりん、と甲高い音を立てて砕け散った。


「あっ……」


 大切な何かを落としてしまった――。


 なぜかそんな錯覚に珪己はとらわれた。


 とはいえ喉の渇きは尋常ではなくなっている。意識すればするほど水が飲みたくてたまらない。だが水を取りに立ち上がることすらできない。出産はこれからだというのに、毛との闘いの反動で体の節々が痛みを訴え始めたのだ。


(水がほしい……)

(痛い……)


 もうこの二つのことしか考えられなくなっている。


(そうだ――)

(流産しかけた夜もこんな感じだった――)


 そこに思い至ると、珪己は痛み以上の恐怖を覚えた。その先に待ち構えているのは――死だ。


(怖い、怖いよ……)

(ほんとにみんな、こんなことに耐えているの……?)


 半分泣きながら背中を丸めて耐えていた珪己の背に、突如誰かの手が触れた。


 その手がゆるゆると背中をさすり始める。


 珪己が涙目でゆっくりと顔を上げると、暗がりの中、身ぎれいになった仁威と目が合った。


「何かあったら呼べと言ったのに……。まあ、お前らしいといえばお前らしいが」


 嵐の中心でただ一人暴風雨に耐えているかのようだった珪己にとって、仁威の登場は雲間から差し込む天の光のようだった。


 仁威がここにいる――ただそれだけのことで沈みかけていた珪己は息を吹き返した。


「水が飲みたいのか」


 こくこくとうなずく。


「少し待っていられるか?」


 少し、と前置きしてくれたから、珪己はこれにもうなずくことができた。


(もうむやみに怖がったりしない)

(この人がそばにいてくれるなら……大丈夫)


 そうか、これなんだ――と珪己は思った。


『人は独りでは生きていけないんだ』


 毛との闘いの直後に仁威が語った言葉、その真意のかけらを、珪己は今、ようやく理解したのであった。


『支え合い、『生かされる』ことで『生きられる』のだということを』


 これから出産するのは自分だというのに、無関係なはずの仁威がそばにいてくれるだけでこんなにも心強いのは――人は人を支え、人によって支えられているからに他ならない。


「ほら。水だ」


 急いで戻ってきたのだろう、仁威の声に潜む息遣いはやや荒い。それは普段の仁威らしからぬもので、珪己はこれに万感の思いを込めて礼を述べた。ありがとうございます、と。その言葉にはこれまで仁威が自分に示してくれたすべての言動に対する感謝の念が含まれていた。




 *




 そして闇夜に白々とした日の光が染みわたりだした頃――珪己は元気な赤子を産んだ。


 急にお産が進み、そこからはあっという間だった。


 あれほど恐れ、怯えていたのに、産んでしまえば痛みとともに悩みは消えていた。


 自分は母親になったのだと、そのことが一つの事実として理解できた。


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