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10.5 取引き


 この日の出来事を珪己は繰り返し思い出す。


 思い出しては後悔する。むせび泣く。気が狂いそうになる。


 だがもっとも辛い思い出こそ、何度も思い出してしまうのだ。


 何度も、何度も――。


 それは――。



 **



「……お前達がなぜここに?」


 二の腕を掴まれている部分に瞬間的にさらなる力が込められた。たまらず珪己がうめき声を発する。だがイムルは珪己の変化に気づいていないようだった。意識をとある一方へ向けたままでいる。


 このような状況下でイムルの興味をひく何かとは……?


 珪己は閉じていた瞼をなんとかひらいた。するとそこには先ほどまで存在しなかった人影が見えた。


(誰……?)


 熱した石炭が周囲に積み上げられているかのような熱気の中、その人影は蜃気楼のようにゆらゆらと揺れて見えた。


(二人……いる?)


 まだこの場に自分達以外にとどまる人間がいたのかと珪己が小さな驚きを覚える中、その二人はこちらの剣呑な様子にも怖気づくことなく近づいてきた。


 一人は恰幅のいい男性で、もう一人はすらりとした体躯の男性だった。そして、近づくにつれ、二人が武官ではないことは見てとれた。着衣はいわゆる私服だし、帯剣もしていない。正直、珪己は落胆した。彼らが武官であったら、または武芸に通じていそうな人だったら活路が生まれたかもしれないのに、と。


 いや、もっと言えば――。


(あの人だったらよかったのに……)


 だがそんな気持ちにはすぐに封をした。あの人は今この街にはいないし、誰かに助けを求めるようでは武芸者とは言えないからだ。そう、珪己はこのような状況下でも自らが武芸者であることにこだわっていた。


「そこの人たち! 今すぐここから逃げて……!」


 枯れた喉で、珪己は腹に力をこめて大声を発した。


「今すぐ逃げてください! ここにいる人達の大半を殺めたのはこの人なんです! あなた達のこともきっと……!」

「黙れ」

「……あああっ!」


 二の腕の傷口にさらに強烈な痛みを与えられ、珪己が悶絶した――その時。


「その声、もしかして……珪己ちゃん?」


 聞き覚えのある声が珪己の名を呼んだ。


 この場の空気を読めないのか、はたまた意図して読まないのか。恰幅のいい男が先陣を切ってどたどたと近づいてくる。そして珪己の様子が目視できる場所まで来た途端、男が大きく息を吸いこんだ。


「こ、の……っ! お前、王子のくせによくこんなひどいことができるなっ! 恥を知れっ! 恥を……!」


(……もしかしたら)


 痛さのあまり再度つむってしまった瞼を、珪己は無理やり開けた。


(……もしかしたら、この人は)


 赤一色に染まりつつある背景に目を焼かれそうになりながらも、珪己は焦点の合わない瞳で彼の顔をじっと見つめた。そして、彼が誰であるかを唐突に理解した。


「……隼平、さん?」


 そこにいた男は呉隼平だった。


 枢密院事の職に就く、開陽で何度か会ったことのある男だった。


 その隼平は顔を真っ赤にしてイムルを睨みつけている。


(……どうして隼平さんがここに?)


 と、隼平の背後からもう一人の男が姿を現した。


「ああ、やはり珪己殿か……」


 隻眼の彼の正体を知るや、珪己はその男の名もつぶやいていた。


「侑生様……? その目は……?」


 侑生の姿を認識するや、珪己は心の底からの驚きを示した。目の中央を無慈悲に走る刀傷に気づいたからだ。文官の侑生が片目を失うことなど、普通はない。だがこの二年にも満たない間に一体何があったのか、珪己には想像もつかなかった。


 と、侑生がそのただ一つの瞳で珪己を見た。少し困ったように。


「珪己殿。こんな時に私のことなど気にされなくていいのですよ」


 そしてイムルに再度視線を戻した。


「イムル王子。これ以上我が国で問題を起こせば、いくら貴殿とはいえ罪を不問にはできなくなりますよ。さあ、彼女を解放してください」


 事務的に淡々と語る様には上級官吏らしい貫禄があった。


「ここに来る道すがら、御史台の人間に非常招集をかけています。わが国の御史台については理解されていますか?」


 その目が一つになろうとも丁寧な語り口は以前の侑生と同じで、開陽での日々を彷彿とさせ――些細なことだというのに、珪己の胸はなつかしさで絞めつけられた。


「特別な犯罪者を取り締まる組織、それが御史台です。あなたに関する情報を集める任務は以前から御史台に託されていました。そのあなたがこのような場所でこのようなことをしているとなれば、結果は自明の理では?」


 ここ零央での生活に満たされていてずっと思い出さないようにしてきたけれど、十六年暮らしてきた開陽の空気、においが侑生の何気ない所作から漂ってくるかのようで――珪己は泣きたくなるのを一生懸命こらえなくてはならなかった。


「この屯所はすでに包囲されています。たとえ芯国の王子とて見逃されることは絶対にありません」


 並の人間であれば、このように諭されれば膝を屈するほかないだろう。だがそこはイムル、逃げることも弁解することもしなかった。言葉も発さず、それどころか、珪己の二の腕を掴んだままの姿勢で直立不動を崩そうともしなかった。


「ご安心を。あなたの命を奪うような事態にまではなりませんから」


 ややあって侑生が言葉を添えた。だが、


「とはいえ……あなたはその命を惜しむような方ではありませんよね」


 そう侑生が言った途端、イムルが歪んだ笑みを浮かべた。


「ああ。そうだ」


 命を惜しむような自分ではない――そんな自分を誇る感情が声調からも察せられた。


『最期まで己が望むことを成す』


 イムルの願望も、願望をかなえるための手段も、優先順位も、何も変わってはないのである。そして、それを侑生は察していた。まさにあの晩春の一夜、李家での二人きりの会話の続きのように。


 ふ、と侑生が笑った。


「では取引をしませんか」

「……取引だと?」


 場違いな発言だと思ったのは珪己だけではなかった。心外だと言わんばかりに、隼平の見開かれた目が侑生に向けられたからだ。だが隼平は何も言わなかった。元上司に対して無条件で従う癖がこんな時でも出てしまっているのだ。


「あなたにはここを出て御史台の管理下に入ってもらいます。さすがに無罪放免というわけにはいきませんから」

「はあ?」

「ですが」


 瞬時に沸騰しかけたイムルのことを、すぐさま侑生が制した。


「ですが必ず彼女をあなたに差し上げます。形ばかりの聴取と謹慎の後、あなたの元へ彼女を連れていきます。私達はこの場を丸く納めることができ、あなたは死ぬことなく彼女を手に入れることができる。それでいかがですか」

「なんだよそれ……っ!」


 隼平がたまらず声をあげた。


 上司のすることには基本的に服従する隼平であったが――いや、侑生は上司ではなく元上司なのだが――これにはさすがに口を出さずにはいられない。


「侑生! お前、珪己ちゃんのことをなんだと思ってるんだよっ?」

「隼平は黙っててくれ」

「いいや。黙らない。そんななことよく思いつけたもんだな。そんなの、珪己ちゃんを利用するようなものだろうが!」


 肩をいからせる隼平のことを、侑生はじっと見つめ、言った。「隼平」と。


 しばらく見つめ合っていた二人だったが、均衡はすぐに崩れた。


「ああもう!」


 癇癪をおこしたかのように隼平が足を鳴らした。そして黙った。本当は言いたいことがまだまだあるのに無理やり口を閉ざした、そんな感じだった。


「……断ったら?」

「断ってもいいですが、その場合、未来は一つしかありません」


 イムルの問いに侑生は悠然と返す。

 

「あなたは彼女を連れて外に出る。そして御史台に捕まる。最悪、あなたのことも彼女のことも殺めていいとお達しが出ていますし、多勢に無勢、さすがのあなたにも勝ち目はないかと」

「ではお前達はどうするつもりだ」

「私達、ですか?」


 その質問にだけは侑生が小さな驚きを示した。


「私達は私達だけでここから出ていきますよ。いつまでもこんなところにいたら誰だって命を失いますからね」


 袖で口元を覆うと、侑生が数回咳をしてみせた。


 実際、炎も恐ろしいが、息苦しさの方がこの場において人体に与える影響が大きかった。充満する煙も暑さもそうだが、人間が呼吸するための空気が不足してきているのだ。


「ああ、もちろん私達はあなたと闘うつもりなどありません。連れは武芸はからっきしですし、それは私も同じです。大使館でも、私の館でも、私があなたに歯向かったことは一度もありませんよね」

「おいおい。あの時は俺に情報を渡すことをお前が拒んだのが原因じゃないか」


 確かに、侑生はイムルに対して仁威と珪己の居場所を吐露することを拒んだ。そのせいで瞳を一つ失ってもいる。だが侑生はその時のことを気にも留めていないそぶりで、逆に柔和な目つきになった。


「その節は申し訳ありませんでした。ですがこれでも私は上級官吏でしてね。上に逆らうことはできないのです」


 懐かし気な物言いのせいだろうか、侑生につられてイムルまでも苦笑いを浮かべている。とげとげしい雰囲気もどことなく丸くなりつつある。だがそのことに違和感を覚えているのは当事者以外、つまり隼平と珪己だけのようだ。双方、悩まし気な視線がかち合ったことで、お互いの心境を理解した。


 あの日、李家において何が起こったのか、珪己は知らない。隼平は知ってはいる。だが、知ってはいるが、自分の目で見ていないこともあり、また侑生の不可解な言動もあり、少々混乱していた。


 侑生のことだ、きっとこれが最善の策なのだろう。イムルに提案した約束にしたって反古にしてもちっともかまわないし、そういう義理立てが必要な相手でもない。それでも、あまりにも侑生の語りが滑らかで、自然で……ずっとともに過ごしてきた元上司のことを隼平は頭から信じきることができなくなっていた。


「もしも俺がお前達を人質にとると言ったら?」

「その時には二人して自決せざるを得ませんね」


 イムルがちらつかせた脅しに、侑生が悲し気にため息をついた。


「そのような汚点があって勤め続けられるほどこの国の官吏制度は優しくありませんから」

「なるほど。お前にとって優先すべきことは国に対する忠義なのだな」

「上級官吏とはそういうものなのですよ。一度この地位に就いたが最後、国を裏切って生き残るすべはありませんし、私の罪は家族にまで及びますから」


 もう一つ、侑生が深いため息をついた。


「まあでも、私がこの街にいるときにこのような事件が起これば、私が率先して動かないわけにはいきませんし。これはもう運命だったのでしょうね」

「なるほど。これがお前の運命か」

「はい。……ああ、これ以上話をしている時間はなさそうですね」


 侑生がちらりと天井の方に目をやった。


「あっ……!」


 思わずといった感じで隼平が声をあげた。


 この場の全員の視線が集まった部分、天井の一部が今にも崩れ落ちそうになっていたのだ。


「やばいぞ……!」


 松明のごとく赤々と燃える天井板がぎしぎしと音を立てている。時間とともに加算されてきたひずみが限界まで蓄積されているのだ。ただ、そのような物理的な知見などなくても天井を見た誰もが本能で察した。侑生の言う通りだと。真実、時間はないのだ。


「どうされますか」


 侑生が両掌を広げてみせた。


「どの道を選ぼうとそれはあなたの自由です」

「……そうだな」


 イムルが思案顔になった。


 侑生と隼平が現れるた直後はただ一つの道しか選ぶつもりのなかったイムルが、ここに至り、二つの道の間で迷いだしたのである。


 あの日、李家にて、まったく動じない侑生を前にしてイムルは言いようのない恐れを感じた。それゆえ突発的に無抵抗の侑生を傷つけた。当時のことをイムルは忘れていない。紫苑寺の女僧と、侑生と。この二人のことをイムルはある種特別な存在として心に留めている。ただの愛憎とも全然違う、尊敬とも侮蔑とも違う、なんとも形容したがい思いとともに。


 なのに今、その侑生の言葉に己の信念を揺るがせている。


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