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10.4 大切なものほど護るのは難しい

 **



 夢を――見ていた。


 寝台に横たわったままそっと瞼を開くと見慣れた自室の天井が視界に広がった。続けて横を向けば、愛用の文机に椅子がある。箪笥に木刀、そして琵琶がある。どれも物心ついたときからそこにあるべきものばかりだ。


 まどろんだ気分のまま、珪己はほうと息をついた。


 寝起きの頭が重いのはいつものことだが、今朝はひどかった。夢の世界が現実と乖離することはしょっちゅうだが今回は特にひどい。


 それでもゆるゆると体を起こしていく。ただ、緩慢な動作で着替え、身なりを整えつつも、珪己はしばらく夢の内容について思いを巡らせていた。





 階下に赴けば、紫袍に身を包んだ父・玄徳がすでに朝食をとっていた。


「おはよう。今朝は降りてくるのが遅かったね」


 父の見せた微笑みに珪己はなぜか胸がつまる思いを抱いた。


「どうしたんだい?」

「ううん。なんでもない。……わあ、今朝もおいしそう」


 少し大げさに喜んでみせ、珪己は父と向かい合う椅子に座った。


「いただきまーす。あつっ。でもおいしいっ」


 口に入れたおかゆはしっかりとガチョウの出汁が効いていて、繊細なのにコクがある。一口食べたらまた一口と、匙が自然と動いてしまう味だった。


「お嬢様ったら。いつもの変わらない味ですのに、そんなに焦らなくても」


 家人の女が眉尻を下げながら新たな料理皿を机に並べていく。


「お野菜もしっかり食べてくださいね」


 様々な野菜を素揚げにしたものは、玄徳と珪己の二人では食べきれない量である。


「こちらは今朝市場に出ていた桃ですよ」


 くし切りにされた黄桃はみずみずしくて見るからに甘そうだ。美味いものを食べている最中だというのに、珪己の喉がごくりと鳴った。


「何かあったのかい?」


 しばらく夢中で食べていたら玄徳に問われた。これに珪己は匙をおろした。そして少し考え、首を振った。


「何でもない。ちょっと変な夢を見ただけ」


 もう夢の記憶はほぼ失っていた。


「夢?」

「うん。行ったことのない土地に誰かと住んでいた夢……だったんだけど。もうほとんど覚えていないのよね」

「そうかい」

「でも夢って面白いわよね。絶対に起こりえないことが平気で起こるんだから」


 話していたら今朝の夢見の悪さもよくある出来事の一つのように思えてきて、珪己はおかしくなってきた。


「私が開陽を出るなんてありえないもの。でしょ?」


 一緒に笑い話にしてほしくて同意を求めると、「そうだね」と玄徳が深くうなずいた。


「珪己はこの都で生まれ、この都で死ぬべき人間だからねえ」


 朝から思いのほか強い言葉を口にした父のことを、珪己は思わず見返した。


「どうしたの? 急に」

「なにが?」

「だって……」

「私は何か間違ったことを言ったかい?」 

「そんなことはないけど、でも」


 でも父はそんな風に娘の将来を決めつけるような人ではなかった……はずだ。


「ん?」

「……ううん、なんでもない」

「旦那様」


 近づいてきた家人に玄徳が顔を向けた。


「おや。もう登城する時間か」

「はい。馬の用意は済んでおります」

「分かった。珪己は今日もまた隣の道場に行くのかい?」

「う、うん。もちろん」

「ところで前から訊きたかったんだけどね」


 立ち上がるや、玄徳が珪己に向けた視線はなぜか冷徹なものとなっていた。


「珪己はいつまで武芸者ごっこを続けるつもりなんだい?」

「ごっこって……」


 あまりにひどい発言に珪己が戸惑っていると、


「もうてい殿は亡くなったじゃないか」


 さらなる驚愕の発言に絶句するほかなくなった。


「…………え?」

「鄭殿は殺人の罪で法にのっとって裁かれただろう? 珪己の身代わりとなって。覚えていないのかい? それとも考えようともしなかった?」

「そ、そんな……!」


 嘘だ――そう言いたいのに言葉が出てこない。


 そんな珪己のことを玄徳はいつになく冷たい目線で見下ろしている。


「どうして珪己はいつまでも剣を握りたがるんだい?」


 珪己が答えようとするのを遮るように、玄徳が再度口を開いた。


「無力な珪己が剣を振るえば、そのしわ寄せは珪己を護ろうとする人間にくるんだよ。珪己はそういう人間なんだよ。そういう家の人間に生まれついたのだから。だったら自分にふさわしいふるまい、生き方をすべきじゃないのかい? なのになぜ『わざわざ』自分で剣を握りたがるんだい?」

「だってそれは……!」

「それは?」


 玄徳の表情はあまりにも冴え冴えとしていて、そのことに珪己は覚えのない恐れを感じながらも続けた。


「だって……いつでも護ってくれる人がいるとは限らないじゃない」

「ふむ。それはそうだね」

「だったら自分で闘うしかないじゃない。八年前だってそうだったわ」


 八年、前――?


 それは本当に八年前のこと――?


 今は貴青何年で、私は何歳だった――?


「うーん。それは違うかな」


 応じる玄徳は氷のような視線を向けながらも飄々とした態度を崩さない。だがその態度こそが珪己には恐ろしく思えた。実の父にこのような感情を抱いたことは今までなかったというのに、だ。


「珪己はずっとここにいればいいんだよ。この都であのような事変は私が二度と起こさせない。だから珪己はここにいれば闘う必要なんてないんだよ」


 これに珪己はとっさに反論した。


「そ、そんなこと言ったって! 私を後宮に入れたのは父様だったじゃない!」


 あの初春、突然珪己に女官になる話を持ち掛けてきたのは当の玄徳だ。


「だから私は後宮に入ったのよ? それなのに今更……」

「珪己が動かなければよかったんだ」

「え?」

「おとなしく過ごしてくれていればよかったんだよ。でも珪己は動いた。自分の足りない頭で考えて、自分のやりたいように動いた。その結果が『あれ』だったんだよ?」


 再度絶句する珪己に、玄徳がふっと笑った。


「あの時、珪己が剣を握る必要性はなかったんだ。それはこれからも同じだよ。どこに嫁ごうと、または婿をとろうと、珪己が剣を握らなくてはならないような状況は死ぬまでない。そうじゃないかな」


 辛辣でありながら――正論。

 正論すぎて二の句を継げない。


 でも――。


「でも武芸を続けていない私は私じゃないもの……!」


 珪己は椅子を蹴って立ち上がっていた。


「武芸を続けてきたから今の私があるのよ……!」


 それは突然着火した炎のごとく、衝動的な感情の爆発だった。


 天窓から柔らかな日差しが差し込む気持ちの良い朝、なぜか激しい応酬が行われている。それは珪己にとってはひどく非現実的な光景だった。いつの間にかすべての家人の姿が消えている。


「本気で武芸者になることを目標にしてきたからこそ今の私があるのよ? 父様はそのことを知っているはずよ?」

「うん。わかってるよ」


 なだめるような声音で返す玄徳は今も冷静なままだ。


「でも目標なんて時と場合に応じて変えていいんだよ。目標を掲げ続けることや固執することには何の意味もないのだから。大切なのは結果だ」

「そういうことじゃない! どうしてわかってくれないの?」

「わかるよ。一度自分で決めたことを容易に覆したくないんだろう? 後悔したくないから。蔡蘭さいらんの時のようにね」

「だったら……!」

「でもね、自分で決めるということは、その結果起こりえる最悪の事態も引き受けるということなんだよ」

「そんなのわかってるっ……!」

「本当にわかっているのかい?」

「わかってるわ!」


 鼻息荒く言い切った珪己に玄徳が口をつぐんだ。


 あれほど激しい応酬をしていた二人の間に奇妙な沈黙が訪れた。


「なるほど。ならいいんだ」


 そう言うと玄徳が形だけの笑みを浮かべたままで珪己を見据えた。


「ではこれから起こることのすべてを受け入れるんだよ」


 魂の奥底まで見抜くような視線に、珪己の中でうずまいていた怒気が一瞬にして冷えた。


「大切なものほど護るのは難しいんだからね」




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