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10.3 剣を持たなくてもお前はお前だ


 のちに珪己はこの日の出来事を回顧する。


 幾度も幾度も思い出す。


 そのたびに必ず後悔する。


 いくつもの出来事について後悔する。


 その一つは――。


「はあああ……っ!」


 この時、怒りに身を任せてしまったことだ。



 *



「はあああ……っ!」


 無防備なイムルに対して、珪己は問答無用で剣を振り下ろしていた。


 気合を込めた剣筋には常にない加速度が生じている。相手によっては即死するに足る一筋だ。


 だがイムルは刃が届く寸前ですり足で半歩下がり、かわした。


「ふっ」


 薄く笑う様にも余裕がある。


 もちろん珪己も負けてはいない。というか、イムルならばそうするだろうと見当はついていた。だからすぐに刃を返し、返しがてら再度すり足で一気にイムルに近づいた。


「はああ……っ!」


 だがこれもイムルは難なく避けた。避けながら、懐から例のごく短い細身の剣を取り出した。そして、三筋目――今度は下がらず、鞘から抜いたばかりの剣で珪己の攻撃を受け止めてみせた。


 びいいいん、と、双方の手の平に剣を通じて衝撃が伝わった。


 だが珪己は引かない。


 引くという選択肢は今の珪己にはなかった。


「てやああっ……!」


 勢いのままに剣に体重をかけていく。


 珪己の方が当然体重は軽い。だが受け手であるイムルと違って珪己には加速度が味方している。その分、打撃力が増しているから、自然とイムルは膝を曲げていた。


「……っ!」


 直角に交差する二本の刃がぎりぎりと音を立てる。


「いい動きだ……!」


 いつからだろう、珪己の打撃を受け止めるイムルは歯を食いしばっていた。対する珪己は、優勢ながらもイムル以上に必死の相貌をしている。呼吸は荒く、目は大きく見開かれている。激しい怒りが全力以上の力を引き出しているのだ。


「会わないうちにしっかりと鍛錬を積んでいたようだな」


 剣を交えているさなかだというのにイムルが満足げに目を細めた。


「……ふはっ! さすがは俺の半身だ!」

「私は私よっ……!」


 燃え盛る炎にさらなる薪が投下されたかのごとく、珪己のまとう闘気が膨らんだ。


「私は私、それ以外の何者でもないんだから……っ!」

「まだそんなことを言っているのか」

「黙れっ!」


 肩をいからせ、剣を持ち上げる。

 そして再度振り下ろす。


「黙れえ……っ!」


 だが珪己が思い描いた行動は実践できなかった。


 剣を持ち上げる、つまり剣を自らに引き寄せる瞬間、イムルも同じ方向に剣ごと体を移動させてきたのだ。先ほど珪己は進行方向に対する加速度を利用してイムルの膝を曲げさせたが、今度はその逆の行動をとられたのである。


 細い剣といえど支点にかかる力そのものを減ずることはない。


 珪己の体勢が途端に崩れた。


「くっ……!」


 だが後方の足裏に力を入れてなんとか耐える。


(このままではダメだ……!)


 今すぐ体勢を立て直す必要があるし、間合いが近すぎるのもまずい。


(ならば……!)


 押された勢いを使ってすり足で下がってしまうのがいい。


 考えるよりも先に珪己の体が動きだした。


 だがこれにイムルが反応した。

 さっと重心を下げたのだ。


 珪己の顔よりも下に頭が来るほどに腰を落とし、かつ一気に間合いをつめてきたのである。


 ――何が起こったのか、一瞬分からなかった。


 左の二の腕にぴりっとした感触が走ったと思ったら。


「……うああっ!」


 そこに焼けつくような痛みが生じた。


 斬られたのだ。


 すかさずイムルが珪己の持つ刀身の根本を蹴りつけた。痛みによって柄を握る手の力が緩みかけた、そのわずかな隙を狙ったものだった。


 カーン……。


 珪己の手から離れた剣が、遠く、壁の方まで飛んでいった。すでに広間にまで燃え広がっている炎をその刀身に映しながら。


 ついそちらに視線をやった珪己はその後のイムルの行動への対応が遅れた。


 珪己の左手に回ったイムルがその流れを殺すことなく背後をとりに来たのだ。


「遅いな」


 言いながら左腕を珪己の首に回し、さらに右腕で珪己の左肩をつかむ。まるで恋人に抱擁されているかのような体勢は、もはやどうあがこうと逃げ出せるものではなかった。


 絶対絶命――その陳腐な言葉が珪己の頭に浮かんだ。


「いいか。俺とお前は一つになるんだ」


 茫然とする珪己の耳元でイムルが言い含めるようにささやいた。


「それが運命なんだ」


 抱きしめるイムルの両腕に、じわじわと力が込められていく。


「ああ……。ようやくお前を取り戻せた……」


 ため息交じりの声には抑えきれない歓喜が含まれている。


「もう二度と離さない」


 万感の思いを込め、イムルは珪己の頭上に唇で触れた。


 すると、イムルの腕の中、珪己が震えだした。


「は……」


 珪己が感じたもの――それは恐怖などではない。


 抗えないほどの怒りだ。


「離せえ……っ!」


 叫ぶや、まだ正常に動く右手で肩をつかむイムルの右手を包む。包むや、手のひらの内側でイムルの親指を一気に押し込んだ。


「ぐっ……!」


 がくん、とイムルの体が傾いた。


 不意打ちで親指の関節をきめられると誰でもイムルのような体勢になる。この業を珪己は晃飛と空斗にも使ったことがあるが、二人とも右にならえの状態だった。


 拘束が緩んだ瞬間、珪己は即座にイムルの腕の中から逃れた。


 だがイムルはあきらめなかった。


 いや、イムルという人間のことを正確に理解していれば、イムルが次にどのような行動をとるか予測できていたはずだ。もしくは闘いの経験を重ねていれば。もしくはどんな時でも冷静に考えようとする習慣があれば。


 だが今の珪己には何一つ当てはまらなかった。


 イムルが己が生死を懸けて切実に半身を――珪己を求めていることを理解していなかった。


 半身を得るという目的のためにイムルが幼少期から相当な鍛錬を積んできたことを理解していなかった。


 しかも珪己はイムルのことをただのおかしな人物だと決めつけていた。


 イムルの言動に怒りを覚え、怒りのままに剣をふるい、体術をしかけてしまった。


 平常心で闘っても勝てる見込みが薄い相手だと――察していたのに。


 格上の相手に対して、さらにまずい対応をとってしまったことに珪己が気づいた時には――もう遅かった。


 想像をはるかに超える速さで珪己に追いすがるや、イムルが珪己の左の二の腕をつかんだのである。


 つかまれた場所は、まさに先ほど斬られた部分だった。


「うっ……!」


 痛みの衝撃が珪己の動きを鈍らせた。


 だがイムルは止まらない。二の腕を引き寄せることで珪己を自らの胸に納め、かつもう一方の手で右手に触れてくる。愛を乞う仕草のように、下の方から掬いとるように、そっと。


 だがそれは勘違いだった。


 イムルは珪己の右手をとるや、寸分たがわず珪己の技を真似たのである。


「……うああああっ!」


 親指から心臓に杭を一気にたたきつけられたかのような、耐えがたき激痛――。


 珪己の瞼の裏に深紅の熱がぱっと灯った。


 稽古において、仁威や他の面々にこの業を仕掛けてもらった時も相当痛かったが、イムルの一撃はそれとはまったく別次元のものだった。つまり――手加減なしだ。


 ただ関節部分に痛みを感じただけではない、関節部分から心臓に痛みが転移したかのような、摩訶不思議な衝撃を前にして――。


「……あああああっ!」


 とうとう、珪己が崩れ落ちた。


 だが斬られた左の二の腕はいまだイムルに掴まれている。掴まれていなければ、珪己は床に完全に倒れ伏していただろう。この広間にいる大勢の男達に倣うように。


「この業は湖国のものか?」


 頭上から問うイムルの声が遠くから聞こえる。そんな風に錯覚してしまうくらい、今の珪己の状態は悪い。気絶する直前、失禁する一歩手前に近い状態だ。そして心臓があり得ないほどの速さで鳴っている。


「なかなか面白い業だ。だが俺に対して少しやりすぎだと思うぞ。ん?」


 掴まれたままの二の腕を揺らされたが、珪己は声も出せない。激痛の衝撃によって脳震盪に近い状態に陥っているのだ。


「うん……そうだな。もうお前は二度と闘うな」


 何か考えていたと思ったら、イムルが突拍子もないことを言い出した。


「俺とお前、これからは闘うのはどちらか一方で足りるしな。二人は一つになるのだから」


 またいつもの不愉快な夢物語的発言である。だがそこに不穏な気配を感じ、珪己は冷や汗をびっしり浮かべた顔をなんとかイムルに向けた。


「俺が闘えば済む話だしな」


 語るイムルと目が合う。


「お前は俺に護られていればいいんだ」


 見下ろしてくるイムルの視線に突如好色めいたものを感じた――と思ったら。


 二の腕の斬られた部分、血まみれの肉に指をぐっと差し込まれた。


「……うあああああ!」


 珪己は喉が枯れるほどに絶叫した。


「痛いか?」


 問うているくせにイムルは二の腕から手を離さない。そして指先に込めた力も一向に緩めない。


「……ああああ!」


 痛みが強すぎて珪己は叫ぶのをやめられずにいる。開けっ放しの口からよだれが伝い落ちていく。だがそれを気にする余裕はない。指で痛めつけられている部分が燃えるように熱い。なのに体中に悪寒を感じている。本能で分かる、この痛みは人間が耐えられるものではないということが。


「この腕を折っても子を産むことに支障はないしな」


 くらくらとする頭で珪己はおぞましい発言を確かに聞いた。


「安心しろ。腕が動かなくてもお前は俺の半身だ」


(嫌、だ……)


 つうっと、こらえきれない涙が珪己の頬を伝い落ちた。


「剣を持たなくてもお前がお前であることには変わりはない」


(こんなの、嫌だ……)



 *


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