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10.2 間違いだなんて言わせない

「ぎゃあああ……!」


 その叫びはまさに絶叫と呼ぶにふさわしいものだった。


 耳につんざくほどの金切り声は聞くに堪えない類のものだ。


(今のは?)


 とっさに珪己の足が止まる。すると先ほどの叫びを皮切りに、珪己が見据える上階から次々に声があがり始めた。


「うわああ!」

「誰だお前はっ!」

「俺たちは十番隊じゃないっ!」

「やめろっ……!」

「やめてくれえ……!」

「うああああ……!」


 死や苦痛を目前にとらえてしまったがゆえの、響き。

 死や苦痛をその身に受けてしまったがゆえの、響き。


 誰かが声をあげれば、別の誰かが叫び。

 その誰かが悲鳴をあげれば、また別の誰かが叫び。


 ――虐殺。


 その単語が脳裏に浮かんだ瞬間、珪己は進路を変えて駆け出していた。


(まさかそんな……!)


『それ』を実行しそうな人物に珪己は心当たりがあった。


 自分がいなければここまでたどり着くことのなかった、あの人物のことが――。


(嫌だ……!)


 生物のようにうごめく炎をかいくぐり、すでに火のついた階段を珪己は躊躇なく駆け上がっていった。


(そんなの嫌だ……!)


 舞い散る灰や火の粉が髪や肌、着衣に張り付くが、気に留める余裕などない。一度大きく息を吸いこんだ瞬間、熱と煙を吸い込んでしまい、これには背を丸めてせき込んだが、立ち止まった時間はごくわずかで、珪己は涙目になりながらもすぐに走り出した。そうしている間にも絶叫は絶え間なく続いていたからだ。


 時間はそんなにかからなかったはずだ。だが現場にたどり着くまでの時間は珪己にとっては無限に思えた。そして――そこには予想通りの最悪の光景が広がっていた。


「あ……」


 開陽の宮城、礼部の執務室を思わせる大広間――そこには大勢の人間が倒れ伏していた。全員、武官だ。ここにも、あそこにも、そこにも。どうしてと思うくらいに大勢の武官が伏す光景は地獄を模したかのようだった。


「な、なんてことを……」


 だが、広間の奥の方にはいまだ生きている者がわずかにいた。


「もうやめてくれよお……!」


 顔面をぐしゃぐしゃにして泣く男の頭頂部、結わえた髪をつかんで持ち上げているのはイムルだった。


「俺達があんたに何をしたって言うんだよおっ……!」


 薄暗い室内、立ち上がる炎にわずかに照らされた男の顔は血まみれだ。男の顔の造形がゆがんでいるその理由は――。


 ひゅっと、イムルが空いている方の手で男の顔にこぶしを入れた。


「ぎゃあっ」


 つぶれた鼻から新たな血が噴き出し、男が後ろに倒れかかる。だがそれをイムルはゆるさない。再度男の上半身を自分へと引き付けて――。


「がはあっ……!」


 再度殴った。


 もう抵抗することもできなくなっているのか、男は声は上げるものの殴られるがままになっている。そのそばでは完全に腰のくだけた男が二人、何もできずに茫然とイムルの行いを見上げている。


「さあて。お前はどこまで耐えられるかな」


 無抵抗な男を殴り続けるイムルは、そんなことを言うと鼻歌を始めた。軽快な調べはこの場ではひどく違和感がある。


(やっぱりこの人はおかしい……!)


 珪己はあらためて嫌悪感をおぼえた。だがすぐに嫌悪感よりも強い感情がその身に湧き上がってきた。恐怖だ。


(どうして?)

(そんなふうに楽しそうに殴ることができるの……?)


 足元に伏す動かない者達すべてになんらかの闘いの跡が見える。斬られた痕、または殴られた痕が。死屍累々、とはこういうことを言うのだろう。ほとんどが虫の息のようだが、珪己が茫然と眺めている間にも、命の灯がぽつぽつと消えていく気配があった。


「ああああっ……!」

「ほら、もっと声をあげろ!」


 イムルは今度は男の肌を短剣で細かく斬り刻みはじめた。


「ははは、もっと声をあげるんだっ……!」


 目の前の光景は現実のことなのだろうか――。


(だって……)

(だって今朝までは普通だったのに……)


 赤ん坊の世話をしたり、料理をしたり。掃除をしたり。稽古をしたり。晃飛と、空斗と、空也と、どうということのない会話をして、どうということのない話題で笑い合っていたのだ。


 なのに――すべてが変わってしまった。


 つい変わらないものを求め、こんなときだというのに珪己の視線が窓の外へと動いた。だがそこにも求めるものはなかった。龍が命を食らっていくかのような、現実とは思えない光景が地上でも広がっていただけだった。


 すべての窓が開け放たれているから、外の様子がよく見える。曇り空と煙によって、天から地まで、何もかもが灰色がかっている中、街の方まで続く炎の連なりは痛いほど鮮やかに見えた。


「う、うう……」


 聞こえたうめき声に珪己がはっとした。


 今は外の様子に茫然としている場合ではない。


 火事はもうどうしようもない。だがイムルのことは自分でもどうにかできるかもしれない。いや……しなくてはいけない。それがここにいる人間の使命だ。


(ううん。『私』がすべきことだ)


 なぜイムルがここにいるのか。なぜここで大勢の人間を殺し、なぶっているのか。


 理由が察せられるからこそ、珪己はイムルと闘う覚悟を決めた。


 勝つか、負けるか。

 生きるか、死ぬか。


 ――もうそれ以外に選択肢はない。


 逃げるという選択肢はない。逃げ続けるかぎりイムルによって殺される人間が増えるだけだし、この国に、自分に、平穏は訪れない。


 珪己がイムルに近づこうとしたのと、珪己の存在にイムルが気がついたのはほぼ同時だった。


「おお。ようやく来たな」


 にっと笑ったイムルは短剣を振るう手を止め、なぶり続けていた男の髪をつかむ手をぱっと離した。ようやく解放された男は、地面に落とされると奇妙な体勢のまま動かなくなった。


 珪己はたまらず目を伏せた。


(助けて……あげられなかった……)


 だが悲痛な面持ちの珪己とは対照的にイムルの表情は晴れやかだった。


「どこに行っていたんだ。随分待ったぞ」


 短剣を軽く振り、血を払い、イムルが悠然と近づいてくる。


「お前ならもっと早くここに来ると思っていたんだがな」


 イムルの着衣にも、肌にも、かなりの血しぶきがついている。両の目はぎらぎらと血走っている。なのに……笑みを浮かべている。その相違がイムルをひどく恐ろしい存在に感じさせた。まだイムルから離れて四半刻もたっていないのに、その変わりようにはすさまじいものがある。


 珪己もあれから灰にまみれて随分薄汚れたが、イムルはまるで別人のようだ。いや、もう人ではないのかもしれない。人であればこのような悪行をしておいてほほ笑むことなどできはしない……。


「お前が来るまで何人殺したと思う?」


 世間話めいた口調で言いながら一歩一歩近づいてくるイムルは――本物の鬼だ。


「どれほど殺せばお前への愛を理解してもらえるのだろうな」


 鞘に短剣を納め、懐にしまい、イムルは珪己の前に立つと大きく腕を広げてみせた。


「さあ。俺の元へ来い」


 まっすぐな言葉、迷いのない意思。深い青の瞳は相変わらず美しい。


 だがいくら美しかろうが――。


「ん?」


 珪己が無言で鞘から剣を抜いたことで、イムルがやや目を見開いた。


「どうした?」


 それでもまっすぐに剣を向けられたことで、イムルは珪己の意図を察した。


「ほら。こっちに来るんだ」


 困ったように眉を下げ、広げたままの両腕をさらに大きく広げてみせる。


「これ以上刃で語りたいことなどないだろう? ん?」


 これに珪己は返事をすることなく重心を落とした。腰を下げ、かつ両の足を肩幅に広げて軽く前傾姿勢になる。細く長く息を吸い、息を吐く。これを静かに繰り返していく。


 全神経を傾けて目の前の男を倒す――この一点のみに珪己は集中している。


 がらがらと、視界の隅、奥の方で屋根が崩れ落ちた。ぽぽぽっと火の粉が舞う中、現れた空間にはたぎる炎があふれかえっている。かなり危険な状況だ。


 それでも珪己は心を動かすことなくイムルに向かい合い続けている。


「……そうか」


 珪己の本意を理解し、イムルがゆっくりと両腕を下した。


「どうしてもこの俺と闘いたいのか」


 くしゃっと、自分の頭をなでながら、イムルが切なげに珪己を見つめた。


「なるべくお前のことは傷つけたくないんだがなあ……」

「私のことはいくら傷つけてもかまいません」


 珪己の即答にイムルの表情が変わった。


「ほお?」

「傷つくことは怖くないです。でも結末は変わらない。私はあなたを殺す。絶対に」


 少しの沈黙があった。


「……なるほど」


 また自分の頭に手をやり、短い髪に指を入れる。


「だが俺を殺すということはお前も死ぬということだぞ。俺とお前は半身なんだからな」

「それは違います。あなたが生きようと死のうと私には関係ありません。私とあなたは別の人間なんですから」

「……ああ。お前にはまだ理解できていないようだが」

「いいえ。理解できていないのはあなたです」


 駄々をこねる子供をなだめるようなイムルに対して、珪己は容赦なく否定の言葉を浴びせていった。


「私とあなたは別の人間です。そして私はあなたのことを好きではありません。はっきり言えば嫌いです」


 するとイムルが頭にやっていた手で突然顔を覆った。


 何事かと珪己が身構える中、やがてイムルがくつくつと笑いだした。両手の奥に潜む表情はいまだ見えない。だがその笑い声には聞く者の心を不安に陥れる何かがあった。


「……はっ」


 珪己の剣先が少しでも動けば、イムルは斬られる――そんな間合いにいるというのに、イムルはとうとう腹を抱えて笑い出した。


「ははははは!」


 突然の奇怪な行動に珪己は動くことができずにいる。


 と、やがて笑いの収まってきたイムルが顔を覆う両手の指の隙間から珪己を見上げてきた。


「……っ!」


 目と目が合った瞬間、全身の血液が逆流したかのような錯覚に珪己は陥った。


 じり、と後ろ足が下がりかけたのは本能に近い。


 それでも歯を食いしばってイムルを睨み続ける。


 対するイムルは余裕しゃくしゃく、さらに豪快な笑い声をあげ始めた。そうしてひとしきり笑い、ぞんざいなしぐさで髪をかき上げた。


「こんなに愉快だったことはないなあ」


 背筋を伸ばしたイムルは、今、堂々とした態度で珪己を見下ろしている。


「お前はまだ自分のことが好きではないのだな」

「……え?」

「ああ。確かに俺とお前は完全に同じ存在ではない。お前が言ったとおりだ。だがそれは俺たちが個々で生まれ、離れた場所で暮らしてきたからだ。しかし共に生きることで俺とお前は一つになる。半身とはそういうものだ」

「私には……っ」


 たまらず珪己は叫んだ。


「私にはもう夫がいます……っ!」


 ぴくりとイムルの瞼が動いた。


 怒りに触れたのだと、はっきりと分かった。


 だがそれも一瞬のこと、イムルは一転して柔らかな笑みを浮かべてみせた。


「誰しも間違えることは往々にしてある」

「なん、ですって?」

「俺も何度も道を誤ってきた。それが人間というものだ。だが間違いは正せばいい。俺は罰という概念は好まない」


 これに珪己の頬がひきつった。

 肩が、腕が小刻みに震えだす。


「……間違ってなんかいない」


 確かに人間は間違えることがある。それは正しい。珪己も数々の間違いをおかしてきた自覚はあった。たくさん、たくさん間違えてきたし、その都度後悔してきた。だが。


「私は間違ってなんかいない……っ!」


 少なくとも仁威と夫婦になったことは間違っていない。


「間違いだなんて言わせない……っ!」


 

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