10.1 逃走
「あ……」
じり、と珪己が後ずさる。ただ、その目は食い入るように目の前の異人――イムルに向いていた。そう、彼こそが開陽にて珪己に執着していた芯国の王子だ。
『なぜ今、あなたがここにいるのですか』
問いかけた珪己の唇がきゅっと閉じられた。理由など聞いても意味はない。さっきも半身云々と言っていたイムルのことだ、次は運命を持ち出してくるに決まっている。一年半ぶりの再会だというのにイムルの本質はまったく変わっておらず、そのことに珪己は恐れとともに虚しさを覚えた。
武芸に通じる自分に興味を持ってくれたこと自体は光栄だった。だがそこにゆがんだ愛情が加わると到底受け入れられるものではなかった。愛されたい人以外からの執着など、ただの暴力、迷惑行為だ。
だが、開陽では、珪己はイムルのことを強く拒めなかった。その理由はいくつもある。当時自己評価が限りなく低くなっていたがゆえに他人からの好意が希少に思えたのもそうだし、その少し前に李侑生からの恋情を自分勝手な理論で信じてやることができなかったことも一因だった。他にも……。
無意識に両手に力が入る。
それによって珪己は自分が短剣を携えていることを意識した。
(……今ここでこの人と闘うべき?)
久方ぶりの再会ではあるが、珪己はイムルへの憎しみと嫌悪感をはっきりと自覚していた。正しさをしるべとしてきたような仁威を夫にしたことも影響しているのかもしれないが、ここまで強い闘志をぶつけたくなる相手と相対した経験は今までにない。
「……ほお?」
挑戦的な意思を感じ取ったのだろう、イムルの様子がはっきりと変わった。だがイムルの変化は珪己の態度をたしなめるものでも不快感を示すものでもなかった。逆だった。
「なるほど。それでこそ俺の半身だ」
イムルが一瞬で身にまとったものは、闘気。
そこからじんわりとにじみでてきたものは――殺気だ。
イムルが懐から細身の短剣を音もなく取り出した。短剣といっても、珪己が持つような湖国で一般的なものとは違う。短剣どころか懐剣よりももっと短い、手のひらと同じくらいの長さの剣だ。
「では語り合おうか。刃は言葉に勝る。ああ、大丈夫だ。お前のことを殺したりはしない」
大胆にも鋭利な刃先を舐めてみせるイムルは嬉々としている。その様子は開陽での出来事を珪己に思い出させた。道場にて鄭古亥をなぶっていた時もイムルは同じ表情をしていた。
(……やっぱりこの人とは永遠に理解し合えない)
「さあ。闘おうか」
「……は?」
「俺の強さを実感すれば、お前も俺と一つになりたくなるはずだ」
甘く酔いしれた声音に、珪己の背筋にぞっとした何かが走った。向けられるなまめかしい視線も生理的に受け付けられるものではない。全身から嫌な汗がにじみ出てきた。
ただ、猟奇的な発言とは裏腹に、イムルのまとう闘気は刻々と膨張していた。表情には性的な興奮がしっかりと現れ出しているというのに、だ。複数の性質を有するイムルならではの変化である。
(ダメだ)
わずかな時間で珪己は悟った。
(今の私ではこの人と闘っても勝てない)
十番隊も相当手ごわかったが、イムルは次元がまったく違っている――。
十番隊相手ならば、油断せず最適な状況下で闘えば勝てる自信が珪己にはあった。もちろん、好条件がそろわなければ負ける可能性も十分あり、それゆえに珪己は何度も迷い、足を止めてしまったわけだが。
だがイムル相手では、奇跡が起こらない限り、負ける。まず間違いなく負ける。万に一つの可能性にかけて闘うこともできるが、それはよほどのことがない限りしたくはない。……いや、してはならない。負けを覚悟して闘うのは最終手段だし、ここで闇雲に闘って敗れても得することは一つもない。
(だったら……)
一つ息を吸うや、珪己は踵を返した。
(ここは逃げるに限る……!)
イムルが門を塞いでいるせいで屯所からは出られない。だから珪己は屯所の奥の方へ向かって一目散に走り出した。
屯所の奥にはまだ一度も立ち入ったことはないから、最適な逃走経路を珪己は知らない。最悪、袋小路に追い詰められる可能性も無きにしも非ずだ。だが他に選択肢はなかった。イムルと闘うこと以上に悪い選択などないのだから。探せば屯所の外に出られる戸を見つけられるかもしれないし、うまくやればイムルの追跡をかわすこともできるだろう。
なお、珪己はとっさに良い判断を一つしていた。さっき出てきた建屋に戻るのは危険だと、そちらに向かわなかったことだ。あの中はそれほど広くないので逃走にはまったくもって不向きだ。
走る珪己の眼前では連なる複数の建屋が煌々と燃えている。そこに今から飛び込もうとしている自分は、はたから見ればおかしくなっていると思われるだろう。だが珪己はためらわなかった。炎は、怖い。だが背後に立つ男の方がよほど恐ろしい。
イムルが自分と同じく全速力で駆けているのか、それともゆっくりと歩いているのか、珪己には分からない。だが振り返る余裕はない。追いかけられていることは間違いないと確信しているから、全速力で逃げ続ける他ないのだ。
「はあっ、はあっ」
進めば進むほど、向かいから放たれる熱風の温度が高くなっていくのを珪己は感じた。まだ寒気が支配する時期だというのに、体が一気にほてってしまうほどに。炎は向かって左側の建屋をすでに飲み込み、今は屯所の外にまで這い出している有様だった。民家がいくつも延焼している様が揺れる炎と煙ごしに見えた。
これほどの大火事だ、そう簡単には消火されないだろう。十番隊の反乱と、この火事と、揃って何十年と語り草になる未来が容易に想像できる。さて、この屯所にいる人間の何名が生き残れるのだろうか? 珪己自身も含めて。
だが、生と死がここまで身近に迫った状況下において、それでも珪己は走り続けた。どこかに必ず一筋の光が――逃げ切れる道があると信じて。
道がなければ、焼け死ぬか、イムルに捕らわれる他ない。
小池のある庭の隅を通り、樫の大木のそばを駆け抜ける。そして珪己はぱっと見でもっとも火の勢いが弱そうな二階建ての建屋の中へ勇気を出して飛び込んだ。
「はあっ、はあっ……!」
様々な理由で流れる大量の汗を手の甲で乱雑に拭いながら周囲を素早く観察する。
この建屋には確実に人がいる――まずそのことに意識がいった。しかも複数人だ。上の階から踏み鳴らすような足音と声がひっきりなしに聞こえる。
威嚇、雄叫び、そして苦痛をともなう叫び――。
火が回りきっていない場所だからこそ人が集まっているのだろう。
とはいえ上階の争いに参加する気概など今の珪己にはなかった。イムルから逃げきること、この唯一の願いで頭がいっぱいになっている。それは九年前の夜の再現のようだった。今はイムルこそが実物の悪鬼だ。しかもその鬼が狙うのは自分ただ一人である。
「はあっ、はあっ」
上階の争う気配を感じながら、珪己は建屋の奥へと慎重に入りこんでいった。外観からしてこの屯所の主たる建屋だと思っていたが、中は予想通り広々としていた。これならうまく逃げおおせることができるかもしれない。
「はあっ、はあっ」
まだ怖くて一度も振り向けていないが、背後からはイムルの気配はいまだ感じられない。
「はああっ……」
大きく息を吐きだしたことで、珪己は少しの冷静さを取り戻した。
(……よし。ここからは)
しばし考え、珪己は向かう先を熱風の流れを感じる方向、つまり炎が勢いづいている方向へと変えた。 そう、敢えて進路を変えたのである。このままもっとも安全な道を進む方がイムルに見つかりやすいのでは……ならば異なる道へ進むべきでは……と考えて。
(あっちだったらあの王子も来ないはず……!)
だが、まだ進める余地のありそうであったその方向も、少し進んだだけで息苦しくなってきた。
「うっ……」
焦げ臭い空気が喉に張り付く感覚に、珪己は袖で口元を覆った。かなり炎に近いのだろう、それほど進んでいないのに体感温度もかなり上がってきている。熱気が随分こもっているから、噴き出す汗の量もだいぶ増してきた。
(……あまり長い時間をここで過ごすのは危険だ)
頭上からは今も騒々しい足音が響いている。この暑さの中でも闘いは続いているのだ。おそらくは十番隊を主とする反乱軍と、これに対抗するその他の隊、武官という構図で闘っているはずだが、彼らの忍耐力と精神力は相当なものだと察せられる。近衛軍第一隊のことを知っているがゆえに、つい廂軍のことを軽んじていた珪己だが、闘うべきときに闘える胆力を備えているだけでも彼らは立派な武官だと考えを改めた。
今からでも彼らに助勢できたら――ふとそんなことを思い、珪己は小さく首を振った。
(ダメだダメだ。それはダメだ!)
そんな騒々しい場所にとどまっていたらイムルに見つかってしまう。
イムルならば戦闘に手一杯の珪己を嬉々として捕えるだろう。大した労苦もなく、ほかの闘う者達の存在など気にも留めず。
それでは懐にある遺品を冨完の家族や知人に届けてやれない。遺言を誰にも伝えてやれない。それに仁威や我が子に二度と会えなくなる。晃飛や氾兄弟とも会えなくなる。
だが一度上階にいる人間に意識がいったせいで、もやもやとする気持ちが珪己の中で膨らんでいった。
本当は助けに行った方がいいに決まっている。足手まといにしかならないかもしれないが加勢してやるべきだ。それが武官というものであり、武芸者というものだから。自分の側の事情はさておき。
誰をも平等に救いたい――そういう人間になりたいと、こんな非常時でも珪己は思っていた。噓偽りなく。
でもそれでは駄目な時があることも分かってはいて。
優先順位をつけざるを得ないときもあって。
それもまた武官というものであり、武芸者というもので――。
ここに晃飛がいればまず間違いなく「逃げろ」と一喝されるだろう。氾兄弟がいても逃げるよう忠言されるはずだ。仁威は……「俺に任せてお前は逃げろ」と言いそうだ。
しかも上階のような場での闘いは珪己にとって不得手だ。音と気配からして、だだっ広い空間で多数と多数で闘うという構図が繰り広げれられているはずだが、その普通の武官ならば当たり前に経験する構図を珪己は想定したことすらなかった。
「はあっ、はあっ」
暑い。苦しい。よどんだ空気で目も痛くなってきた。
「はあっ、はあっ」
こんなところで立ち止まっていたら危険だ。迷っているくらいなら今すぐ逃げた方がいい。少なくとも動いた方がいい。いつまでもこんなところにいたら、イムルか炎、いずれかに捕らわれるだけだ。
「はああっ……」
口元を覆う袖ごしに、深く、深く息を吐く。
(……ごめんなさい)
迷いつつも珪己の足がようやく動き始めた――そのとき。珪己の耳に突然異質な叫び声が入ってきた。




