9.6 祈り、願う
その頃、侍御史である習凱健の元には部下が入れ代わり立ち代わりやってきては報告をしていた。
「火は消えるどころか勢いを増しています」
「民家への延焼はすでに十数軒にのぼります」
続々と届く報告からは事態が時々刻々と悪化していく様しか伝わってこない。そのすべてを凱健は眉間に人差し指を当てながら聞き続けていた。
「ただいま戻りました。屯所内では今も激しい争いが続いています」
別動隊からも矢継ぎ早に報告があがってくる。
「ですが中で何が起こっているのかまでは把握するすべもなく、火の手が回ってきたため我々も現場を離れざるを得ませんでした」
途切れることのない現状報告にはいい意味での変化は一切ない。火事が広がっている。争いは続いている。そればかりだ。
「報告です。監視対象の女が一人、屯所に入っていったとのことです」
この新たな情報を聞くや、凱健は辛抱ならず立ち上がった。
もう限界だったのだ、ただ『報告』を聞き続けることに。
「私が現場に行こう」
「は?」
「聞こえなかったのか。私が屯所へ行くと言ったんだ。このままでは埒が明かない。女が死ぬのをむざむざ見過ごすわけにもいかんだろうし、少なくとも暴動は早急に沈静化した方がいい。消火の妨げにもなっている」
「……待ってください! 廂軍の内乱程度で御史台が動けば、それは地方への過干渉になります!」
目の前に立ち塞がった一人の部下を凱健がぎろりと睨んだ。
「それを私が知らないとでも?」
「そういうわけではっ」
「ここまで大きな事態となったのだ、力ある者が動かねば民への被害が広まるばかりだろう。今、この街にそれができる者が我々以外にいるか?」
「ですが我々は……!」
「ああ。我々は御史台だ。だがその前にこの国の民であり人間だ。違うか?」
「そ、それは」
言いよどんだ男を別の男が押しのけた。
「いいえ。違います。我々は人間である前にこの国の民であり、この国の民である前に御史台の官吏です」
「……なんだと?」
きっぱりと告げた部下に、凱健は言いようのない怒りを覚えた。
確かに御史台に配属された者は皆すべてこの男のような思想を植え付けられる。凱健も数年前までは同じ思想を有していたし、疑うこともなかった。
だが彼にもいろいろあったのだ――官吏としての自分よりも個としての自分、人間としての自分に寄り添いたいと思うようになるきっかけが。誰にも打ち明けることのゆるされない身であるがゆえに自分一人で抱え込んできた事柄が。
からっぽの器に砂を流し入れていくかのごとく、少しずつ少しずつ、これまでの生き方に疑問を持つようになり、やがて自らの器に収まりきらなくなり――。
「お前達、そんなに規律が大切か?」
激情のままに周りを見渡せば、凱健を囲む誰もが今発言した男の方に同調する態度、表情を示していた。それは御史台の官吏として当たり前の反応だった。
「ならばその屯所に入った女をお前達は見捨てるのか? 廂軍を鎮圧する武力を持っているというのに、その力を使わず、か弱い女を見捨てるのか?」
「か弱いって……」
たまらず誰かがつぶやいた。
その女が武芸に通じていることは、梁晃飛の家を監視したことのある者ならば誰でも知っているがゆえのつぶやきだった。
ただし、その女の素性――楊珪己という名であり枢密使の一人娘であること――まで知るのはこの場では凱健だけだった。
十番隊隊長である慮冨完と珪己が楽器店で親し気に会話をしていたことは凱健にも報告されている。だから、二人が以前からの知り合いである可能性も考慮していた凱健にとっては、珪己が屯所に飛び込んだ目的は想像に難くなかった。
だが他の者は違う。なぜ珪己がこの非常時に屯所に入ったのか、さっぱり分かっていない。同じ家に暮らす男二人――廂軍所属の者と、その者を補佐する者――の所在を心配して彼らが勤める屯所に入ったのか、それとも好奇心ゆえか……。とはいえ、いずれにせよ、誰も珪己の行動の理由には興味を持っていなかった。それもまた御史台の理念によるものだ。
「習侍御史。それは過干渉です」
今、凱健は正義という盾をかざす部下に完全に取り囲まれていた。
こんな時、応双然のことを思い出してしまうのは最近の凱健の傾向だった。双然は十番隊の武官四人の命を『やむなくとはいえ』奪った咎で、現在は開陽にて謹慎処分の身となっている。双然の様子は元上司であった凱健の耳にも入ってきているが、なんと、日々楽しげに過ごしているという。
『あの男は何ら反省していないのですよ』
そう嘆息する同僚に表面上は同調しつつ、その実、凱健は双然のことを改めて見直していた。自分がすべきと思うことをし、達成する。それは当たり前のようでいて難しいことだからだ。だが双然はやりきった。その後の罰や処遇を恐れることなく。
凱健の脳裏に御史中丞である浪の物静かな表情と一言一言区切るように話す肉声が思い出された。
『幸せそうであれば見守るにとどめること』
『だが逆の場合は惜しみない助勢を与えてやること』
この年始、浪は宮城に集った選りすぐりの御史台官吏を前に、探し人の扱い方について新たな方針を示した。それを凱健は言葉通りに受け取った。部下としてそうすべきだという思いもあったが、そこには自分なりの哲学も関係していた。……幸せとは何かを知りたかったのだ。
双然を見習えば、幸せとは後悔しないこと、これに尽きる。浪もあのような命令を下したのだから幸せというものについて理解しているはずだ。だが凱健はその単純な言葉の真の意味をいまだ理解できていなかった。
幸せの定義は人によって違う。だが凱健は真の意味を知りたいと願っていた。
ただ、そんな凱健にも一つ分かっていることがあった。
今こそが惜しみない助勢を与えるときだ、と。
確かに楊珪己は武芸に通じている。袁仁威から直に手ほどきを受けているだけあって、女ながらに腕が立つようでもある。それは道場の外、塀のそばで耳をそばだてていても感じられていた。しかし、あの屯所は女一人で乗り込んで無事に帰れるような場所ではない。また、そのような状況でもない。
「……女一人なんだぞ?」
高ぶりそうになる感情を押し殺しながら、嚙み含めるようにゆっくりと言う。
「……まだ乳を飲む子を腕に抱いているような十代の女なんだぞ?」
言いながら一人ひとりの顔をしっかりと見つめていく。
「お前達、あの女が一人で屯所から無事に出てこられると思っているのか?」
だが部下の誰一人として凱健の言葉に心動かされることはなかった。それは世間一般の正しさを己が任務に持ち込んではならないことを誰もが心得ているゆえのことだった。
幾多の視線が凱健に向いた。
四方八方から冷水にように突き刺さる圧の前に、とうとう凱健は屈服した。……屈服せざるを得なかった。
「……悪かった」
このまま御史台の理念に反し続ければ、己が上司に多大な迷惑をかけてしまうことになる。部下の失態は部下自身と上司が連帯して償うものであるから、だから凱健は屈したのであった。
また、先日の応双然の一件以降、零央滞在者は一つの失点もゆるされない状況であることも凱健は承知していた。凱健の態度次第でここにいる部下全員が罰せられる、そのくらい切実な状況にあるのだ。
それに幸福の真の意味を追及したいのは凱健ただ一人の望みだった。そう、凱健は自分でも気づいていたのだ。あの女が死ぬことを恐れているのではなく、あの女が死ぬことでまた幸せの真の意味をつかみ損ねることを惜しいと思う自分がいることに。そんな自分はどこかおかしいのだろう。
(……だから自分には幸せを理解できないのかもしれない)
まずは人として正しくあるべきなのだろう。つまりは任務に忠実にふるまい、他人に迷惑をかけないように留意すべきなのだ。……たとえそれで自分は満たされなくても。
「皆、すまなかったな。引き続き任務に戻ってくれ」
凱健が冷静さを取り戻したことで皆が一様に安堵した。
ただ、彼らもまた心の底から安堵したわけではなかった。長年住んでいるのだ、大なり小なりこの街に愛着を持っているがゆえに、何もできない自分達に歯がゆさを覚えてはいたのである。
そして幾人かは心ひそかに願った。
誰かこの窮地を救ってくれないか、と。
そして幾人かは心ひそかに祈った。
誰かこの街のために動いてくれないか、と。
その願いが、祈りが――すでにかなえられているとも知らずに。
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次話からは第十章ですが、残酷描写のオンパレードですのでお気をつけください。




