9.5 伝えてくれ
珪己は当然知らない。まさかこの街に袁仁威が、そして李侑生までもが集っているとは。それどころか、珪己はこの局面を自分ひとりで乗り越えなくてはならないと思い詰めて事に当たっていた。
そんな珪己だが、書物が積み上がった薄暗い部屋でとうとう慮冨完を発見するに至っていた。
だが待ち構えていたのは非常によくない現実だった。
「そ、そんな……」
水たまりのように広がった血の中に頭を置き横たわる姿に、彼の命を救う方法は皆無であると珪己は瞬時に悟った。……悟ってしまった。
「大丈夫、ですか……?」
それでも声をかける。
「すみません。触ります」
膝をつき冨完の首に手をやると、脈は遅く、体温はだいぶ低下していた。
「あ……」
この瞬間まで張りつめていた気が――限界まで張りつめていた気がぷつりと切れたのを珪己は感じた。
(……もうこの人は助からないんだ)
その事実の前では、高ぶる闘志も悲壮な覚悟も信念も……何もかもが無意味だった。
「ああ……」
どうにかして助けてやりたい。だが彼にしてやれることは……もうない。
「ああ……」
冨完のことが心配で単身ここまで乗り込んできた珪己だったが、現実を前に想像以上に動揺していた。確かに『これ』は起こりえる現実だった。だがどこか楽観視していたのかもしれない。自分が動けば冨完を救えるはずだ、と。そうとは限らないのに。
「冨完、さん。冨完さん」
声をかけ、肩をゆする。だが反応はない。
「冨完さん! 起きてください!」
最初は控えめな動作も、次第と遠慮のないものとなっていった。
「起きて……!」
現実の前では自分はあまりにも無力で、それを認めたくなくて――力をこめずにはいられなかったのだった。
「起きてください、起きて……!」
泣きそうになりながらも珪己が必死で声をかけ続けると、昏睡状態に陥っていた冨完の瞼が小刻みに震えた。
「冨完さんっ?」
「あ、ああ……」
「冨完さん……!」
「君は……あの時の……?」
見知った人間だと気づくと、冨完の頬がごくわずかに緩んだ。
「どうして君がここに……?」
「あ、あの」
応えあぐねた珪己に「いや……それよりも今は……」と冨完がやっとの思いで言葉を吐き出した。
「楊珪信に……伝えてくれないか」
「……珪信に?」
またその名を聞くとは思わず、珪己はつい問い返していた。
これに冨完はその目で一つ瞬きをすることで認めた。
「袁隊長がここに……零央にいた……と。第一隊の高、浪、獏……周……。四人の誰かに伝えてほしいと……ぐうっ」
喉をつまらせた冨完が苦し気に眉をひそめた。これだけのことを喋るのもやっとだったのだ。
「頼む……」
吐息交じりにそうつぶやくと、冨完は痛みに耐えるように全身を大きく震わせた。それきり冨完は動かなくなった。この場で風が一陣通り過ぎていっただけのような、そんなあっけない最期だった。
「冨完……さん……」
冨完の死に顔を見つめる珪己の胸に、ひたひたと、たとえようのない悲しみと虚しさが押し寄せてきた。近衛軍第一隊に所属していたこの人がどうして零央で死ななくてはならなかったのか。その運命の数奇さと理不尽さに、珪己はぐっと拳を握りしめた。
「どうしてこんなところで、こんなことに……?」
たとえ今この街に左遷めいた人事で流れ着いていたとしても、ゆくゆくは開陽に戻れたはずなのに。なのに……どうして。
そう、左遷といっても、冨完が十番隊というやっかいな組織をたばねるに足りる人物だと評価されていたことには変わりはないのだ。ならばこの街での滞在は彼の長い人生における通過点でしかなかったはずなのである。
なのに……なのに冨完は死んでしまった。こんなところで、こんな風に。この年若さで、よく知りもしない女一人に見守られながら。
自分もいつか冨完のような人生の終え方をするのだろうか。なぜかそんなことを珪己は思った。そしてこの妄想に薄ら寒い恐怖を覚えた。道を違えなければ今も開陽で暮らしていたのは、冨完だけのことではない。
(……でも私は何度生まれ変わってもきっとこの道を選ぶの)
嗚咽が出そうになるのを珪己はこらえた。
(……それはあの人もきっと同じだから)
涙がこぼれないよう、ぐっと顎をあげる。
(私は運悪くこの街にやってきたわけじゃない。それはきっと冨完さんだって同じ)
(どの道を選ぼうとも結末まで選べるわけじゃない、ただそれだけのことなのだから)
そして一つ思った。人が死に方を選べないように、人が生まれること自体にも意味はないのかもしれない、と。
もしもどちらにも意味があったとしたら、冨完はこのような死に方にふさわしい人生を歩んできたことになる。または、そのような人生しか歩めないことが生まれた時から定められていたことになる。だが珪己にはそうは思えなかった。
このような緊迫した状況で、また何をのんきに考えているんだと自分でも思う。だがそのように思うことで珪己は少し救われたのだった。
実際、冨完の死に顔は穏やかだった。言いたいことを言えたからだろう、満ち足りた顔をしている。ならば本人にとっては意義のある人生だったのだろう。たとえ年若くこのような死に方をしようとも。
そんな冨完が最期まで気にしていたのはたった一つ、仁威の行方だった。
「あ……」
思い至ると、珪己は両手で口元を覆っていた。
これほどまでに他人に影響を与える男を夫に持っていることに、戦慄とも畏怖とも違う、ある種の恐ろしさを感じたのだ。
(あの人と夫婦でいるということは、冨完さんのような人の生き方にも影響するということなんだ……)
そのような人は、少なくともあと四人いる。それは先ほど冨完が言っていたことだ。高、浪、獏、そして周。
まだ四人の姓と顔は結びついていない。一度は見かけたことがある人物なのかもしれないし、または知らない人物かもしれない。だが四人はいずれも近衛軍所属であり、仁威の知人でもある。話の流れからそれは確かだろう。
(このことを知ったらあの人はどう思うだろう……?)
開陽に戻りたくなるだろうか。
(……ううん、それはない)
たとえ目の前に元部下の遺体があったとしても、仁威は開陽に戻ることを選ぶような男ではない。
そのことが嬉しいのに、同時に怖いと思う。申し訳なくも思う。あなた方が崇拝するあの人を私の人生に巻き込んでしまったことを謝罪したくなる。
「……すみません」
震える声は声量が問題ではなく、冨完には聞こえていない。しかし珪己は声に出さずにはいられなかった。
「……すみません。私のせいで」
ここに仁威がいれば「お前のせいではない」「すべては俺が選んだことだ」と言い切るだろう。それでも自分さえいなければと思ってしまうのは条件反射のようなものだった。
特に今のような状況下では「仁威さんが選んだことですから」と開き直れるわけもなくて。
ただ――申し訳ないとは思うけれども、前に進むことしかできないのも事実だった。過去は変えられないし、誰もが望むままに生きているだけなのだから。
うるんだ瞳のまま、珪己がきっと顔をあげた。
「伝言、受け取りましたね」
もうめそめそするのは終わりだ。
少なくとも今は泣いている時ではない。
それが闘うということだ。
「いただきますね」
そっと冨完に声をかけ、頭頂部に丸く結わえられていた髪を切り落とす。それと、腰帯に結んである紅玉。そして、笛。珪己が冨完に選んでやった笛はまだ新しいから遺族にとっては無価値かもしれないが、冨完は他に何も身に着けていないから仕方がなかった。そう、冨完は剣も扇子も筆も金子も、手巾一枚すら持っていなかったのである。こんなことからも気が緩んでいる時に不意打ちでやられたのだと察せられ、珪己の瞼の裏がまた熱くなった。
感傷を飲み込み、珪己は三つの遺品を自分の手巾に包んで懐に入れた。そして立ち上がった。ここにこれ以上滞在する理由は、もうない。冨完を救出することはかなわなかったが、遺品と遺言を得た以上、これからは無事にここを脱出することに集中すべきだ。持ち帰ることのできない冨完の体に一礼をすると、珪己は踵を返して部屋を出た。
どのようなことがあろうとも冷静に行動し続けること、それは武芸者に必要な素質だ。周囲の気配を読みながら珪己は足早に出口に向かって進んでいった。外部の音――建物が燃え崩れる音や戦闘特有の音――がかすかに聞こえるが、門にほど近いこの建屋とあちら側はいまだ別世界のようだった。行きでは十番隊の面々に遭遇したが、今は人の気配すらしない。
歩みを進めながら、正直に言えば珪己はほっとしつつあった。まだ手には短剣を納めた鞘を握りしめているものの、もうこれを使う必要はないのだと思うと、やはり安堵する。もう人を傷つける必要はなさそうだし、自分が傷つけられることもないだろう。殺されるのではないかとおびえる必要も。……この局面でもこんなことを思ってしまうあたり、まだまだ半人前ということか。
平和な世界へと近づくにつれ、珪己の足は自然と速くなっていった。
早くあちら側に行きたい。あちら側に行って、屯所を出て、家に帰りたい。赤ん坊をこの手で抱きしめたい。晃飛や氾兄弟に会いたい。郷愁めいた思いがはちきれんばかりに膨れ上がって苦しいほどになっていく。
(早くここを出たい……!)
みんなに会えたらまずは詫びよう。そして起こったことを説明しよう。晃飛はカンカンに怒るだろうし、空也は泣きそうな顔になるだろうし、空斗はあきれた顔になるだろう。でもちゃんと説明して、ちゃんと詫びよう。そんな先のことばかりを考えてしまう。
(早くみんなに会いたい……!)
みんなと合流したらすぐにこの街を出よう。もう荷造りは済んでいるはずだ。
正直に言えば離れた地にいる仁威のことは気がかりだ。でも、きっと大丈夫。そう信じよう。信じると決めたのだから信じなくては。
(早く……!)
ああ、これから向かうことになっている空斗の地元とはどんなところなのだろう。雪が降るとは聞いているがどこなのかはまだ聞いていなかった。北だろうか、西だろうか、東だろうか。意外と南か。でもどんなところだってきっと大丈夫だ。私は独りではないのだから。
珪己は気づけば早歩きになり、早歩きが駆け足になっていた。だがそのことに珪己自身は気がついていなかった。
息が荒い。鼓動がうるさいくらいに高鳴っている。早く早くと、気が急いて仕方がない。まだ屯所内にいるというのに、あれほど意識して保っていた平常心は失われつつあった。
だからそれは不意打ちだった。
これ以上は驚くことはないと思えるくらいに心底驚かされた。
建屋から出て、すぐそこの門前に立っていた男と目が合い――珪己はひゅっと息を飲んだ。
「あなたは……!」
ここにはいないはずの男がそこにいた。
この街、この国に不似合いな高身長。若干褐色めいた肌。やや大きな目と鼻、それに口。結われていない短髪。それに――深い青の瞳。
男は何やら興味深そうに、それどころか愉快げに屯所の奥の方――大火事と争いの両方が起こっている現場――を見やっていたが、突然自分の前に現れた珪己を認めるや、その青い瞳で弧を描いた。
「おお。こんなところで会うとはな」
男は組んでいた腕を解くとひどく満足そうに微笑んだ。
「さすがは俺の半身だ」
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