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9.4 奇跡的な遭遇

 珪己が勇猛果敢に活躍しているその時、晃飛は屯所にたどりつくどころか、ざわつく街の一画、家と家との隙間に入り込み力なく座りこんでいた。


「うう、う……」


 両手で覆う顔の下、左目からは一切の視力が奪われている。


 衰える一方だった左目がこのような非常事態においてとうとう死してしまったのである。


 弱っていたとはいえ片目から完全に光が奪われた結果、晃飛は動くことすらままならなくなっていた。頭痛もそうだが、視界がぼやけ、距離感がおぼつかないのだ。正常なはずの右目すら、この状況についていくことができず悲鳴をあげている。


「くそっ……!」


 悔しさといら立ちとで太腿を強く打ち叩く。この足もここ最近の寒波のせいか古傷が痛んで仕方がない。


(俺はまた役立たずになるのか……!)


 毛との闘いにおいて、自分一人だけ何もできなかったことを晃飛は今も忘れていなかった。悔しかった。恥ずかしくもあった。次こそは自分の番だと思ってもいた。なのに――またも何もできずにいる。


「くそくそくそっ……!」


 だがいくら自分を叱咤しても、叩いても、体のどの部位も言うことをきいてくれない。


 鼻につく煙の臭いはどんどん濃くなってきている。その分、往来の道をひた走る人間の数は随分減った。大方はこの街から離脱したのだろう。


 火事と、十番隊の反乱と。今、この街に敢えて居残る者は年寄りや体が不自由な者だけかもしれない。……それと、この街ですべきことがある者くらいだ。


 早く立ち上がりたい。立って、妹を――珪己を追いかけたい。ひっ捕まえて、泣いてもわめいても家に連れ帰りたい。だがいくら焦ろうとも、体が一切言うことを聞いてくれないのだ。まるでそれこそが己の無力さの証明であるかのように。


「……おや? 晃飛かい?」


 聞き覚えのある女の声に晃飛が瞬発的に顔を上げると、そこには久方ぶりに見る実の母の顔があった。


「ああ、やっぱり晃飛だ。どうしたんだい。こんなところで」


 化粧の濃い面立ちは環屋の中では違和感はないが、昼間、外で見るにはうるさく感じる。それでも見知った人間と再会したことで晃飛は小さく安堵した。ただ、


「そっちこそ何してるんだよ。こんなところで」


 言い返しながら強引に腰を上げていくのは、この女に弱っているところを見られたくなかったからだ。だが体は正直で、半分腰を浮かせたところで体が傾いだ。


 ぐらついた晃飛の腕をとったのは――芙蓉ではなかった。


「おっと。大丈夫?」


 芙蓉の後ろから手と顔を出した男は随分と恰幅がいい。年のころは三十歳前後か。


「ね、芙蓉さん。この人が例の息子さん?」

「……おいっ!」


 男ののんきな一声は晃飛の怒りに触れた。


「他人に何勝手にしゃべってるんだよ!」

「あ、ああ。ごめんよ」


 気おされた芙蓉だったが、そんな芙蓉と晃飛の間に男がそれとなく割って入った。


「ああもう、芙蓉さんを責めないで。これだけの騒ぎが起こってるんだもん、芙蓉さんが君のことを心配するのも当然だろう? ほんと、すごく心配してたんだよ。分かってあげてよ」


 男の年の割には純な瞳で見つめられ、諭され。その隣では芙蓉が珍しく頬を赤く染めてうつむいていて。晃飛は仕方なく口をつぐんだ。


「ありがとう。分かってくれたんだね」


 男はにっこりと笑うと「でもこんなところで君を見つけるとは運がいいのかな」などと独り言ちた。


「今ね、ちょうど君の家に行こうとしてたんだ。君の奥さんとお子さんのことも心配だから。……あれ? そういえば奥さんとお子さんは? 今も家にいるの? それとももう先に逃がしてあげたのかな」


 誰にも口を挟む間を与えずぺらぺらと喋り出した男だったが、


「あ、そうそう。呉隼平という人もまだ君の家にいるのかな」


 そう問うた時だけ、やや言葉を濁した。


 それはまさに出会った当初の珪己と同じ態度で――晃飛はピンときた。


「ねえ母さん」


 晃飛がにっこりと笑う。なお、晃飛が芙蓉のことを『母さん』と呼ぶのは腹に一物を抱えている時だけだ。


「いろいろ勝手に喋ってくれたようだけど、この人はいったい誰なのかな?」

「あんたが心配するようなことはないから」


 答える芙蓉は半ば呆れ、半ば恐れを覚えている。


「この方、こう見えて開陽の枢密院にお勤めの偉い方だからさ」

「うん。そうなんだ」


 芙蓉の紹介に気負うことなくうなずいた男は、強い警戒心でもって息を止めた晃飛に向かってにかっと笑ってみせた。


「俺、枢密院事の呉隼平といいます。えっと、君の家にいる呉隼平とは多分友達だから。あ、多分っていうのは、俺が勝手にそう思っているだけかもしれないってことね。知り合いなことには間違いないよ」


 そこで男――隼平が後ろに振り向いた。


「そうそう、紹介するね。こっちは正真正銘、俺の本物の友達」


 まだ腰が上がりきっていない晃飛は、上背のある隼平の背後にもう一人の男がいることにようやく気がついた。


「友達っていっても、俺の元上司でね。今は吏部りぶの官吏をしているんだ」

「……吏部?」


 思わずといった感じで晃飛の口から零れた問いかけは、その男もただの文官ではないと一目で察したからだ。


 麗しい顔の造形も、涼し気な額も、博識そうな雰囲気も。目視できる特徴のすべてが男が知力に秀でていることを裏付けるかのようだ。だが男からはそれ以上に力強い気――燃えるような生命力、みなぎる力が感じられた。衣の下には武芸に秀でている者特有の体が十中八九隠れているし、実際、ちらと見えた手の感じは剣を握ることに慣れていそうだった。


 しかし、何よりも晃飛の目を引いたのは彼の失われた瞳だった。


 闘いのさなかに瞳を失ったのだとはっきりとわかる傷によって、彼の瞳の一つは先程からずっと閉じたままでいる。


 その彼だが、一度晃飛と目が合うと不躾なまでに晃飛を見つめだした。


「……あの?」


 普段の晃飛ならば「あんた、俺に喧嘩売ってる?」くらいのことは言う。だがこの男相手には言えなかった。闘い以外の場面で身の危険を感じることはそうそうないのだが。


 その隻眼の男は晃飛を見つめたまま――ゆっくりと口を開いた。


「君は楊珪己を知っているね」



 *



 なぜ彼が――李侑生がここ零央にいるのか。


 そこには複数の理由がある。


 まず、零央における十番隊四名が死した事件――これにきな臭さを覚えないものは枢密院の上級官吏にはいなかった。日々仕事に追われている彼らであったが、零央でのこの一件は自分達の無能さを新たに突きつけられるものだったのである。


 地方をきちんと管理できていればこのようなことにはならなかったのに、他の優先すべき業務のためにこれまで地方を疎かにしてきたのは、間違いなく彼らの失態だった。


 いや、例外が一人いた。


 一向に我が身を反省しないものが、一人。


 それは侑生の吏部移動とともに枢密副史となった徐承賢のことである。


 地方に関する仕事を任されていた枢密副史は当時の侑生であるが、零央での一件が起こった当時、そして今に至るまで、本件は承賢の担当である。


 枢密院という組織において、承賢は巨大な敷布に唯一空いた穴のごとくだった。その究極の穴をつくように、零央での一件について報告を受け取った承賢は、「それがどうした」とこの件について深く考えることをしなかったのである。


 承賢は自分が賢いことを知っていた。それゆえ得られた情報から一つの推測をすると、その一つの推測を唯一の結論としてしまう癖があった。地方の軍のことなど部下の隼平や良季ほどに知るわけもないのに、報告書や手持ちの資料を眺め、いくつかの数値を見比べ、「このような隊では起こりうるべくして起こった事例だ」「だから仕方のないことだ」と結論づけてしまったのである。そして何も手を打たなかった。


 だが事件のほぼ一年後――十番隊隊長がいつまでも決まらないことに不安をおぼえた廂軍の事務方の訴えにより、とうとう枢密使である楊玄徳が腰をあげた。放任主義とも思える態度を一転し、承賢に教育的指導を施したのである。ただし二人きりの場で、内密にではあるが。


 承賢には中書省長官、中書令である柳公蘭からもなんらかの指導があったようだが、この点に関しては定かではない。


 とにかく、承賢は数十年ぶりに上司に手取り足取り指導されるはめになったのである。零央の視察実行もその一例だ。ようやく物事が正常に動き始めようとしていた。


 なのだが……承賢は視察の全責任を部下である枢密院事に押しつけた。地方に赴くような泥臭い仕事は自分の領分ではないと硬く信じて。幸い、彼の二人の枢密院事のうち、呉隼平が『自ら志願して』本件を引き受けたのだが。


 そこに「私も行こう」と手を差し伸べたのが侑生だったというわけだ。


 元部下を心配してのことであり、自分が責任を負っていた地方での問題であり……侑生が思わず同行を希望したというのもうなずける話だ。そこには敬愛する玄徳の心労を減らしたいという思いもあっただろう。または、吏部侍郎としてそろそろ地方に目をやる頃合いだと判断したのかもしれない。つまり、本業のついでだ。そのように多くの者は推測している。だが実態はやや違っていた。


 吏部侍郎となってからの侑生は多忙を極め、常に宮城内にて過ごしてきた。それでも一年が経てば、元から器用で才のある彼のことだから余裕が出てくるのも当然で。そしてそんな彼が開陽を出て愛する女性に関する手がかりを得たいと願うのも至極当然のことだったのである。そう、この件は侑生にとって渡りに船だったのだ。侑生は今も変わらず珪己を愛していた。


 さて、それぞれ五名の部下を引き連れて零央に赴いた二人は、州城にて知州(州の長官)を含む関係者を招集し活発な議論を行った。侑生が吏部侍郎としての任を遂行している最中、隼平は枢密院事として廂軍に赴いたり、橋や街道、河川といった軍事的に重要な拠点を見て回ったりした。


 なお、新たに十番隊隊長となった慮冨完と会ったのは隼平ただ一人であり、その際に本人の素質には問題なさそうだと判断している。だが十番隊の面々は確かに一癖も二癖もありそうな者ばかりで、これに隼平は一抹の不安をおぼえてはいた。武官の採用方法、教育方法の改善は今後の最重要課題であると強く認識させられもした。


 そうやってすべての仕事を終えた夜、隼平は年の離れた同僚に教えられた、もとい命じられたとおり、この街一番の妓楼である環屋へ遊びに行った。朴訥とした隼平だが、これでも女性を抱いたことは皆無ではないから嫌悪感などはない。


 まだ恋とか愛とかに興味がない隼平ではあるが、家族がほしいとは常々思っていて、『そういう行為』をすることで女性のことを欲しくなれたらいいなと思いつつ、環屋の戸をくぐったのである。


 そう、若くして高位にある隼平には以前から結婚を希望する家からの釣書の類はひっきりなしに届いており、あとは隼平自身が『是』といえば次の段階へと進める状況にはあったのである。ただ、生粋の庶民、元浮浪児の隼平にしたら、家柄と容姿だけで生涯の伴侶を決める気にはどうしてもなれず――婚姻するならば生涯ただ一人の相手だけでいいと思っている――それでこの年まで独身を貫いてしまったというわけだ。


 しかし、いっときの快楽と少しの刺激を得るために訪れたはずのその店で隼平が自らの名前を名乗った瞬間、すべては変わった。


 その店には以前、自分と同姓同名の用心棒がいたというのだ。めっぽう腕が立ち、寡黙で、しかもいい男が。


 店員達が何の気なしに語るその男の正体は袁仁威に違いない――そう隼平が悟るのは早かった。


 毎日朝から晩まで州城に詰めている李侑生を早急に呼び出し、口を濁す女将・芙蓉を二人がかりで説き伏せて口と割らせ――その直後、屯所での騒動が店にまで伝わってきて。


「うちの息子が」「嫁が」「孫が」と青ざめる芙蓉が行きたい場所は、隼平や侑生が行きたい場所でもあったから、三人そろって外に出て――そこで奇跡的に晃飛と遭遇したのだった。



 *


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