9.3 突然の帰還
「袁さん……! どうしてここにあなたがっ?」
突然目の前に現れた仁威に空也があっけにとられた顔になっている。驚きが強すぎて、先ほどまでの兄との諍いもすっかり頭から抜け落ちている有様だ。
「まだあっちにいるんじゃなかったのか?」
兄から詳しい話は聞いていないが、そういうことだろうと思っていたのだ。
「船で追いかけてきた」
「船?」
そう、仁威は培南にて早朝の船を予約した芯国人一行を一人で待ち伏せしていたのだが、その船に自らも乗り込み、ここ零央に戻って来たのである。川の流れや天候が味方すれば、船の方が馬よりも断然速い。
下船後、陸路には船に乗せてきた馬を使った。だから仁威の手には今も馬の手綱がしっかりと握られている。馬の吐く白い息の速さが、ここまで全速力で駆けてきた証だ。
「いいかよく聞け」
馬が大きく身震いするのをなだめながら仁威が言った。
「この街にあの男が……王子が来ている可能性がある」
「えっ……」
聞くや、空也の顔から色彩が消えた。自分を斬った張本人がすぐそばにいるかもしれない、そう思っただけで腰から力が抜けていくのを感じる。
どくん――。
以前、斬られた背中が急速に熱を持った。まるでたった今斬られたかのように。
そこにいまだ泣き続ける赤子を抱いて空斗が現れた。やはり弟のことが心配だったし、できるものなら追いついて仲直りもしたかったのである。
「あ」
空斗は仁威の存在に気がつくと目を見張った。
「もうこっちに戻って来たのか。だったらあの船に乗ったという芯国人は王子やその関係者ではなかったんだな。安心したよ」
久方ぶりに見る赤子に仁威の目がやや細められる。だがそれは一瞬のことで、空斗の問いに仁威が小さく頭を振ってみせた。
「いいや。いた」
「いた? それでどうしたんだ。……殺したのか?」
「いいや。三人はただの商人だった」
「商人?」
そこまで話して空斗はようやく弟の異変に気づいた。やや背中を丸めて口元を抑える空也の顔色はかなり悪い。
「どうした。空也」
「あ、兄貴……」
「今、空也にも伝えたんだが、この街にあの男がいる可能性がある」
「あの男……まさか!」
「そうだ。三人はこの街で王子と待ち合わせをしているらしい」
そう、あの三人はただの商人だった。だが王子の知り合いでもあったのである。
出航を待つ三人のそばで耳をそばだてて聞いた話からも、彼らは単に莫大な儲けを求めて無断でこの地へやって来ただけのようだった。そこまではとんだ肩透かし、自分の勘が間違っていただけと笑い話にできる。だが一人の男が『王子は今頃どうしているだろう』と漏らしたことで事態は一変した。しかも『探し人は見つかっただろうか』とも聞こえた。
人目のつかないところに半ば強制的に三人を誘導し、なるべく穏便に問いただした結果――彼らがイムルの知り合いであることを仁威は知り得たのだった。
「あの三人は砂南州にて王子率いる一行と一時行動を共にしていたらしい」
当然イムル一行も何らかの抜け道を使って湖国内に侵入したのだろう。広い国土ゆえに、ある程度の金と伝手があれば湖国に侵入すること自体は造作もない。
「商人達と別れた王子は、毘天国との国境近くに向かったそうだ」
毘天国とは、砂南州のさらに西に位置する、湖国の隣接国である。
「だが商人達の旅程に合わせて一か月後には零央に行くことを約束したと言っていた。知り得た情報があれば教えてほしいと言い残して」
「情報?」
「王子は別れる前日に彼らに珪己の捜索を依頼したそうだ」
「なっ……!」
探し人の容貌、名前、いずれをとっても仁威が愛する女のことで間違いなかった。いや、あの王子がこの国にいる理由など分かりきったことだったが。
その珪己がここ零央にいることを知ったら、あの王子のことだ、「運命だ」と歓喜するだろう。その光景が容易に瞼に浮かぶ。ただ、それは珪己やこの家の人間にとっては不運の連鎖としか思えないことなのだが。
「分かった。だったらやはりすぐにこの街を出よう」
空斗の発言に空也もかくかくとうなずいた。
「ところで、珪己は家にいるんだよな?」
問いつつ、仁威が首をひねった。その視線の先にあるのは煙たなびく屯所だ。
「それと屯所の方で火事が起こっているようだが何か知っているか?」
これに空也があっと声を上げた。
「そう! 珪亥は屯所に行ってしまったんだ!」
「あいつが? 屯所に? なぜ?」
「十番隊が反乱を起こしたらしくて、それで」
「あなたの妻は正義感が強いからな」
「兄貴は黙ってろ」
半分ため息まじりにつぶやいた空斗のことを、空也がきっと睨んだ。そして仁威に向き合うや頭を下げた。
「袁さん、ごめん。俺、あの子のことを止められなかったんだ。それで梁さんがあの子を追いかけてくれているんだけど、やっぱり俺も心配だから今から行こうとしていたところで……」
「状況は分かった」
すべてを言わせず仁威がうなずいた。
「なら珪己のことは俺に任せろ」
「でも!」
「お前には荷が重いかもしれない。それよりも家で出立の準備をしていてくれ」
ふてくされた顔になった空也に仁威が安心させるように微笑む。そして空斗の腕の中で泣き続けている赤子の頬に人差し指の腹でそっと触れた。
「お前の母は俺が連れ戻すからおとなしく待っているんだぞ」
その瞬間、不思議なことに赤子がぴたりと泣き止んだ。熟れた柿のように真っ赤に火照らせていた顔も、数回瞬きするうちに涼やかなものへと変わった。
「……もしかして母親の危機を察して騒いでいたのか? 現金な奴だな、ったく」
空也がつんつんと赤子の頬をつつくと、赤子は満面の笑みを浮かべた。
と、空斗が言った。
「空也。赤ん坊を頼む」
「え?」
少しの沈黙ののち、空斗が困ったような表情になった。
「俺はこの人と一緒に行くべきだと思う。だからお前が赤ん坊を見ていてくれないか。それと出立の準備も。お前ひとりに任せて悪いとは思うが」
これに空也は一瞬迷った。兄の言うとおり、兄こそがこの街の武官として屯所に向かうべきなのに――なぜか迷った。それは空斗の腕に抱かれている赤子が微笑みを消し、不安げに空斗を見上げたからかもしれない。
だが迷っている時間も言葉を重ねる時間もなく。
「ああ。任せておけ」
あとでどれほど後悔することになるかも知らず、空也は力強くうなずいてみせたのだった。
*
さて、屯所で孤軍奮闘している珪己だが、何度も迷いながらも定めた覚悟がさっそく試される時がきていた。
稽古場を出て少し廊下を進んだところで一人の男に遭遇したのだ。
「女、ここで何をしてやがるっ……!」
粗野な顔つき、表情、動作からも、この男は十番隊所属の武官で間違いない。だから珪己はためらわなかった。もうためらわないと決めたから。
短剣を鞘から勢いよく抜く。抜きながら、次の動作を決めかねている男の右手親指に躊躇なく刃を振り下ろした。
「ぐああっ……!」
「なんだどうした? ……女かっ?」
続けざまに廊下の角から現れた男も明らかに同類だ。男の踏み込みが一歩遅れたのは驚愕によるものだ。その隙に珪己は即座に刃を振った。狙った場所は先ほどの男とまったく同じ。
「ぐうっ……!」
俊敏さと正確さなら晃飛と互角だと仁威に評価されているだけあって、その剣技は実戦、実剣でもいかんなく発揮された。
痛みにうずくまった男二人は隙だらけだ。珪己は剣を持ちかえると、柄の裏で男たちの後頭部を思いきり叩きつけて気絶させた。
瞬間的に騒々しくなったこの場にまた静寂が戻った。
さきほどから珪己の頭の奥には澄んだ感覚が住み着いている。驚異的な集中力と興奮によって、異様なほどに脳が活性化されてきたのだ。
(……私、女で幸運だったのかもしれない)
自分よりも一回り大きな男二人を見下ろしながら、珪己は我が身の幸運に初めて思い至った。
男になりたいと思ったことはこれまで幾度もあった。自分が男ならばもっと強くなれるのに、と我が身の運命を呪ったこともある。
男ならば少年用の軽い木刀ではなく普通の木刀を扱える。簪や懐剣、短剣ではなく長剣を扱える。拳と蹴りで敵を屠ることができる屈強な体を作り上げることもできる。それが男の武芸者だ。珪己には真似することすらできない、いわゆる一般的な武芸者の姿である。
しかしこの街での闘いすべてにおいて、自分が女であるがゆえに相手の油断を誘えたことに珪己は思い至ったのだった。
自分が女だから――だから相手が驚いた。平常心を崩した。
その隙に先手を打つことで勝利を収めることができた。
それもまた自分の特技、特性なのだ――。
(ああ、私……女でよかった……)
愛する人に女として愛されることも、子を産むことも、女でなければできなかった。
そもそも女でなければ、あの初春、後宮に女官として入ることもできなかった。
男であれば、珪己はまず間違いなく武官を志していただろう。父に触発されて文官を志していたかもしれないが、少なくとも後宮に入ることはなかったはずだ。ならば珪己は今もずっと開陽で暮らしていたはずだった。過去への後悔を胸に抱きながらも、順当で平和な日々を過ごしていたはずだった……。
だがそこには仁威と夫婦になるという未来はなかった。零央にたどり着くことも、様々な人と知り合うことも。
なんとはなしに感傷的な気分になりかけ、珪己は小さく頭を振った。考えるのは後回しだとわかっているのについ考えてしまうのは長年の癖だ。
(次、仁威さんに会ったら訊いてみよう)
私以上に考え込んでしまうあなたは闘っている時に何を考えているのですか、と。それとも何も考えていないのですか……と。
軽く深呼吸をして、気分を切り替える。今は闘いの真っ只中であることをあらためて意識しつつ、珪己は剣に付着した血を倒れた男の裾でぬぐった。
「……うん。まだ大丈夫そう」
目の前に掲げた刃渡りはどこも欠けておらず、まだまだ使えそうである。
たとえば袈裟斬りで肉体を大きく斬ったり、刃が骨に当たるようなことがあればすぐに刃こぼれしてしまう。だが親指のみを狙ったことが功を奏したようだ。
珪己は鞘に剣をおさめ、あらためて周囲の気配を探ろうと試みた。だが他の人間の気配を掴むことはできなかった。
掴めないということは――慮冨完はここにはいないのかもしれない。もしくは気絶している、あるいは息絶えているのかもしれない。何が正解かは分からない。だが答えを知るには自らの足で探すしかない。一室一室、確実に。
判断するや、珪己は足早に歩きだした。
もしも冨完が重傷の場合、命を救えるかどうかは時間との勝負となるからだ。
(お願い、無事でいて……!)
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