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9.2 勝手に揺れ、勝手に震える

 門から入ってすぐのところに十番隊にあてがわれた建屋がある。そのことを珪己は知っていた。慮冨完が捕らわれているとすればそこにいる可能性が高いだろうとも思っていた。


 しかし、いざその建屋を目の前にすると、珪己は二の足を踏んでしまった。


「……っ」


 ここが自分にとって最大の分岐点となる――そのことを本能が悟ったのだ。


 一度入れば容易に戻ることはかなわなくなるだろうし、もしかしたら二度とここから出られないかもしれない。


「はあ、はあっ……」


 足は完全に止まってしまったのに呼吸が早まっていくという――矛盾。


「はあ、はあっ……」


 否応なしに緊張感が増していく。

 汗がこめかみを幾筋も伝い落ちていく。


「はあああっ……」


 一年ほど前、珪己は十番隊の面々と死闘を繰り広げている。それは文字通り、まさに生死をかけた闘いだった。そんな十番隊の住処にこれから踏み込むと思うと……なかなか次の一歩が出てこない。


(早く行かなくちゃいけないのに……!)


 なのにどうしても足が動かない。


 この場の異様な光景、雰囲気も珪己をおびえさせるのに一役買っていた。敷地の奥の方に建屋が連なっているのだが、すでにその半分ほどが炎に飲まれてしまっているのだ。まだ敷地内に足を踏み入れたばかりだというのに、ここからでも炎が爆ぜる音がはっきりと聞こえる。火の勢いにはすさまじいものがある。


 普通の人間ならばこのような場からは即刻立ち去るだろう。いつこちらに飛び火してくるかわかったものではない。しかも火の元の方からは争う者たちが発する声が今も途切れることなく聞こえている。屯所内で乱闘が生じているという話は真実で、それは現在進行形で続けられているのだ。


 不特定多数の怒号。時折あがる苦悶の叫び声。そして金属と金属がこすれ合い、ぶつかり合う音。金属音はまごうことなき剣戟だ。争いが終わりそうな気配は一切ない。彼らの争いに決着がつくのが先か、火の手が回り屯所が全焼するのが先か――まったく予想がつかない。


 珪己は無意識に唾を飲み込んだ。


 闘っているのは十番隊とそれ以外の隊だろうか。動かない体を補うように、珪己の思考がぐるぐると動き始めた。


 一番隊と二番隊は不在らしいから、この屯所では最大で三から九までの七つの隊の武官が十番隊に応戦している計算になる。ならばいくら獰猛な十番隊といえども時をおかずに制圧されるはずだ。それにあの騒がしさ、双方全勢力を傾けているがゆえの喧騒だろう。これほどの火事まで起こっているのだから、短時間で決着をつけたいのはどちらも同じはずだ。


(だったら『ここ』には誰も残っていないかもしれないし、いても少人数に決まってる)


 だが――理性で結論づけても動悸が速くなっていくのを珪己は止められなかった。


 本物の殺し合いがすぐそこで行われている、そう実感したことで余計に平常心ではいられなくなってしまっている。


 一年前の鯰池楼ねんちろうでの闘いも非常に厳しいものだったが、あれは少人数での闘いであり、私闘に近いものだった。だが今ここで勃発している争いは……たとえば九年前、楊武襲撃事変並みの規模の反乱だ。何十人、いや、百を有を超える人間が闘っているはずなのである。


 また珪己の喉が無意識に鳴った。


(あの日は私だけが生き残ったけれど……)


 九年前と違って今度こそ自分が死んでもおかしくない。いったんそう思うと、珪己の背筋を悪寒が走った。


 死をこれほどまでに間近に、確かに感じたことはない。


 だが今回は寝台の下に隠れることはできない。ここには寝台なんてないし、『また逃げたら誰にも顔向けできない』という思いが晃飛と別れて以来ずっと胸に住み着いている。とはいえ鯰池楼の時のように都合よく誰かが助けに来てくれるとも思えない。……いや、今度こそ自力でこの場を乗り越えなくてはいけない。


(そのために武芸者になろうと決めたのだから……!)


 両手で思いきり強く頬を叩く。


(私はここから絶対に逃げない……!)


 顔を上げた珪己の表情は引き締まったものになっていた。


 晃飛の手を振り払った時に誓ったのだ――目的を達するまでは絶対に戻らないと。くじけないと。後悔しないと。それだけのことをした自覚が珪己にはあった。


 手を振り払った瞬間に垣間見た晃飛の顔が忘れられない――いや、忘れてはならない。背を向けた瞬間に泣きだした赤ん坊のことも、そう。


(だけどあの人もきっと私と同じことをするはずだから……!)


 それが武官というものであり、武芸者というものだから。


(あの人を愛しいと思うのは、あの人がそういう心を持つ人だから。そしてそういうあの人のようになりたいと私はいつだって思っていた)

(あの人を好きでい続けたい。誇りをもって好きでい続けたい)

(恥じることなくあの人のそばにいたい)

(そのためにも……絶対に逃げない!)


 意を決すれば行動は早かった。十番隊の建屋の戸は乱暴に押し開かれたままになっており、そこに素早く侵入する。中に入ると外の喧騒が一段階小さくなり、代わりに内部の様子がよりはっきりと察せられた。


(……やっぱりここには誰かがいる)


 つい落胆してしまい、珪己はそんな自分に嫌悪感をもった。


(ああもう! 自分でそうすると決めたくせに今更!)


 武官にとって闘いはあくまで手段だ。だが目的を達成するためには闘わなくてはならないこともあり……今回は闘いを回避できないことが分かったというだけのことだ。なのに……。


(弱気になるな、私!)


 とはいえ、気配を探ると多くても二、三人のようだった。二、三人といえば想定よりもかなり少ない。心が緩みかけ、珪己は再び気を引き締めた。いちいち一喜一憂する自分が心底情けないが、今は負の感情に浸っている場合ではない。


 さて、闘いは避けられないことが分かった。その覚悟で進むべきだ。


 ならば武器がいる。


 だが珪己は武器になりそうなものを何も有していなかった。髪に刺さっているのは木彫りの簪だけだし、他には筆や貨幣すら身に着けていない。だが手ぶらで来たことを悔いても仕方がない。あの状況で家から持ち出せるものは何もなかったのだから。


 何か使えるものはないかと珪己の視線が素早く動く。


「あ……!」


 珪己が戸のそばで発見したのはまさに武器――それも刃剣だった。


 問題児的な扱いを受ける十番隊だが、そこは腐っても武官、任務となれば帯刀する必要があるわけで、出入りしやすいここに剣が並べられていたというわけだ。


 ただ、刀剣はたったの五本しかなかった。空間の広さに対して明らかに少ない。多くの剣が持ち出されている――そう考えるのが自然だ。五本のうち一本が長剣、残りは短剣だった。


 短剣はその名のとおり刀身が短いものを指す。懐剣よりも長く長剣よりも短いそれは、低身長の人間が用いることが多い。武官といえば一般的には体が大きい男の職だが、禁軍の第一隊にいた新人、周定莉のように十代前半で入隊するものもこの頃では増えつつあった。


 ちなみに短剣にはもう一つ用途がある。


 いわゆる二本差し、防御用だ。


 この時代、ほとんどの武官が切れ味の悪い剣を使うがゆえに、その剣技は『斬る』というよりも『叩く』行為に近かった。だから普通は一本の剣を両手で持つことになるのだが、『斬る』ことのできる剣を有するような人間であれば、利き手に長剣を、もう一方に短剣を持つ場合もあるというわけだ。しかし実際にはそんな者は十番隊にはいないから、こうして隊がわずかに有する短剣すべてがここに残されていたのである。


 珪己が迷いなく短剣を手に取った理由は当然前者だ。木刀ですら少年用のものを使っているくらいだし、長剣を扱った経験はほとんどない。ならば体格にあったものを持つべきだ。


 鞘から抜いた刀身は意外なほどきれいだった。錆びもない。いや、錆びどころか最近砥いだばかりのようだった。薄暗い屋内において心の臓が震えるような輝きを放つ両刃は、禍々しいほどの美しさをまとっている。


 普段用いる木刀よりもやや軽く、扱いやすいそうだ。そんなことを思いながら、鋭い剣先から根本に向かって刀身を眺めていく。と、柄に付着する血痕を発見し、この剣が研がれた理由を珪己は知った。その瞬間、ずっとうるさいくらいに鳴っていた心臓がどくんとひときわ大きな音を鳴らした。


(最近、この剣で誰かが斬られたんだ……!)


 それゆえ研ぎ直さなくてはいけなかったのだ――。


(これを振るうということは……私も誰かを斬るということなんだ)


 こんな些細な気づき一つでまた怖気づいてしまう自分を、珪己は心底憎いと思った。しかし心は言うことをきいてくれない。勝手に揺れ、勝手に震える。どれほど覚悟を決めようともそれは意志の問題でしかなく、珪己の心は本能にこそ忠実だった。


 あの十番隊が短剣を使ってまで斬りたい相手は誰だったのか――そんなことにまで意識が飛んでいく。さながら現実逃避のように。


(ああもう! 今更ぐだぐだ考えていたら本当に駄目だ!)


 迷いを振り切るために強く頭を振る。つい考え込んでしまう自分の癖は今は絶対に封印すべきだ。それよりも動くべきだ。考えるよりも先に動いた方がいい。


(そうだ。あそこなら)


 周囲を見渡すや、珪己は素早い動きで稽古場へと向かった。十番隊に潜入していた仁威が稽古台にさせられていた、あの稽古場へと。


 わずかに開いた戸の隙間から中の様子を覗くと室内は無人だった。人の姿、気配どころか物音もしない。それでも珪己は用心しつつ足を踏み入れた。そして見つけた。木刀を。


 ぶわっと、顔面が紅潮した。


(木刀なら斬らなくて済む……!)


 迷いながら短剣を使うくらいなら木刀の方がよほどいい動きができる。それは心理的には随分救いとなる。


 しかしざっと眺めて珪己は落胆した。


(……少年用のものはないのね)


 どれもいわゆる正規のもの――つまり成人男性が使うことを意図したものばかりだった。


 一度希望の光を掴みかけたがゆえに珪己は落胆と焦りを覚えた。そして迷った。手中にある短剣と、ここにある木刀。自分はどちらを使うべきなのだろうか、と。


 重みも長さも、扱いやすさで軍配が上がるのは短剣だ。抜刀の仕方も習得済である。しかし鋭利な刃を人間相手に振るった経験が珪己にはなかった。


 寸止めも、相手の肉をわずかに斬ることも、命を奪うことも、それ自体は積み重ねてきた稽古の動きをなぞることで実行できるだろう。しかし『本物の刃』を有する武器を冷静に使いこなせるか――その自信がない。


(……どうしよう?)


 考えることをいったんやめようと思ったのも束の間、また珪己は悩み始めていた。


 と、以前仁威に言われたことを思い出した。


『誰でも最初は知らないものだ』

『殺し殺される場に出て、何度も経験して、ようやく心が定まっていくんだ』

『それができなければ、武官としてのお前はもとより、武芸者としてのお前も消失する』


 それは出会ったばかりの頃、酒に酔った珪己を背に抱えた仁威が語ったことだった。


(ああ、そうだ――)


 武芸とは楽しさだけを追求できるものではないのだ。かといって贖罪だけを目的に続けられるものでもないのだ。振るった剣はいつかは相手の骨肉に食い込むものだし、そのために剣は存在しているのだから。


 珪己はあらためて自分の覚悟のほどを試した。


(私は何のためにここに来たの――?)


 それは慮冨完を救うためだ。


 そしてそれはここに来るまでに見かけた多くの人々を救うことに繋がると信じてもいる。


(理由なき暴力に傷つく人がいないように、かつての母のような思いをする人が現れないように――そのために私はここに来たんだ)


 武芸を続けてきた最大の理由もこれに尽きる。


(子を産んでも、愛する人がいようとも――私は『そういう私』でいたいから)


 初めて剣を用いて人を殺すことになるかもしれない――そう思うと身震いがした。だが震えたその手で短剣を握り直すと珪己は踵を返した。その横顔はひどく冴え冴えとしたものになっている。


(今度こそ――もう迷わない)


 だが毛との闘いと違って自分の命を捨てるつもりは珪己にはさらさらなかった。武芸には他者だけではなく自分をも救う力がある――そう信じているから。無策な行動で命を散らすつもりは珪己にはなかった。そう、確かな剣技を元に勝ち抜くのだ。


 そして――護るべき人々を護りきったら戻るべき場所へと戻る。


(私には戻るべき場所があるのだから……!)


 

 *


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