1.5 天と地が裂けようとも
空斗に伴われ産婆の豪雨渓がやって来たのは、珪己がまたもうつらうつらし始めた頃だった。
深夜だというのに雨渓は相も変わらず溌剌としていた。珪己の状態を慣れた動作で確認すると「明け方まではお産になることはなさそうだあね」とのんきな声で告げた。
「それまではよく寝て体力を温存しておくことだなあ」
後者の忠言は珪己のみならずこの家にいるすべての人間に対するものだった。本人がしわくちゃの顔を家屋の至るところに突っ込み、そのたびに出会った人間に同じことを言ったからだ。これにより、いまだ尖ったところのあった全員の神経がようやくほろほろと緩んでいった。そうか、もう山場は過ぎたのだな……と。
今、施術を終えて眠る空也の隣では兄の空斗が泥のように眠っている。やるべきことを終えたと判断した韓も自宅へと帰っていった。元々夜道を怖がるような男ではないし、毛に逆らったことで気が大きくなっているのかもしれない。晃飛も、晃飛にしては深い眠りに入っていった。いい加減限界だったのだ。
珪己もまた、痛みの合間にいい具合に眠ることができている。
ただ、仁威だけは違った。珪己に言われたとおり、体を清め、着衣を清潔なものに換え、髪を洗い髭も剃り――その後は居間で一人じっと考え込んでいた。以前よりも痩せこけた顔は凛々しさが増し精悍なものに変貌している。
この静かに思索を深めていく行為は、零央を離れて以来の仁威の癖のようなものとなっていた。それに考えることは山のようにあった。この家に戻り珪己と再会することは、当初、仁威にとっての最大にして唯一の目的であったが……今は違う。現状はあくまで通過点に過ぎなくなっている。
まずは珪己と想いを通じ合えたことについて自然と考えていた。……その事実一つで己の内に生きる活力が際限なく湧き上がってくるようだ。あれほどの大事があった直後だというのに、眠るどころか大声で叫んで走り回りたいくらいである。この幸福について、誰に、どのように感謝すればいいのだろうか。まるで奇跡だ。
それは孤独な旅の最中にはけっして味わうことのなかった感覚だった。
(俺はまだ生きることができる)
(生きたいと……思える)
途方もない幸福に浸りつつ、それでもどこか冷静な頭は考えるべきことについて順繰りに思いを馳せていった。それもまた仁威らしい思考の癖だった。
今すべきことは現状に酔うことでも過去を振り返ることでもない。今後について検討し対策をたてておくことだ。
まずは近隣の人間について。
珪己の話を元に整理すると、今、この家には晃飛と珪己以外に、二人の若者が住んでいる。名前は氾空斗と氾空也――どちらも開陽にて都と呼ばれる警備団に所属していたそうだ。だが二人ともなんらかの事情で武官を辞したらしい。……いや、正確には弟の空也の方だけか。それについては兄の空斗の方に秘めた事情があるようだ。それが御史台に関係するものであることは、まだ知り合って半日もたっていない仁威にも明白だった。
(……まあ、あの二人については問題はなさそうだがな)
ここまでの帰路で珪己がぽつぽつと語ったところによると、二人は珪己の命の恩人なのだそうだ。それにあの晃飛が自宅に住まわせているくらいだ、難のある人間でないことは察せられる。
(ではあの御史台の官吏は……どうだ?)
抜け目のない男だ、というのが仁威が受けた印象だった。
やや天然の入った楽天的で明るい性格――そんな風に見えなくもなかったが、『御史台の官吏』という枕詞をつければ、そんな単純な人物であるわけがない。武芸の腕も当然立つはずだ。
(……もしかして)
楊武襲撃事変に関わった近衛軍第一隊――その生き残りを捜しているのかもしれない。その可能性に思い至ったのは、その生き残りの一人と半年前にここ零央で遭遇しているからだ。
正規の手続きがされていれば、あの時の男は開陽にて尋問され、すでにそれなりの裁きも受けて監獄に収容されているはずだ。
さすがに自分や珪己の捜索のために御史台が派遣されたわけではないだろう、と思う。御史台は皇帝の手足だが、皇帝が私的に利用できるものではないからだ。
(……いや。珪己を捜している可能性はあるな)
まだ珪己の口から直接聞いてはいないが、これから珪己が産もうとしている子の父親は皇帝・趙英龍なのだから。
自分が関係をもった女人が他国とのいざこざの末に失踪したとなれば、あの人間味のある皇帝のことだ、捜索し保護してやりたいと思うだろう――。
ふ、と薄暗い感情が仁威の胸中に芽生えた。
皇帝と珪己がそのような関係となっていたことに、仁威は今日までまったく気づいていなかった。
あの当時、周囲では様々な出来事が起こっていたし、仁威自身も内面を強く揺さぶられることが多かった。だから余裕がなかった。気が回らなかった。それよりなにより、あの皇帝と珪己がそのような関係になるなど、想像すらしていなかった。だから気づけなかったことは仕方がない……そう割り切れたらどんなにいいだろうか。
もしも――あの日。
あの夜、あの古寺で。
自分が珪己のそばにずっとついていてやったなら、このようなことにはならなかったはずだ。自分がそばについていてやったなら……。
仁威は強く頭を振った。
過去をなかったことにはできないのだから、今さらそれを考えても仕方がない。
今考えるべきことは他にたくさんある。
だがなかなか考えを精査できず、仁威は悶々としながら時を過ごした。
ただ、一つのことは分かっていた。赤子の父親が誰であろうとも、珪己を想うこの気持ちが揺らぐことは決してない、と。
たとえ天と地が裂けようとも、この命を失おうとも、もはやこの気持ちを打ち消すことはできない、と。
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