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9.1 最低だな

 この街に来たばかりの頃、しばらく日参していた屯所の門前は、あれから一年以上が過ぎたというのに何一つ変わっていなかった。


 建屋の入口にどっしりと構える木製の門の上には『西門州せいもんしゅう零央れいおう廂軍しょうぐん駐在所ちゅうざいどころ』と刻まれた板がかけられているし、すぐそばには『随時武官募集』と彫られた立て札も健在だ。


 それらを感慨深い思いで眺めながら、珪己はしばし荒ぶる呼吸と鼓動を整えるのにしばし専念した。


 初夏のひと時を珪己がこの門のそばで過ごしていたのは、敷地内から聞こえてくる木刀の打ち合う音に心惹かれたからだった。珪己にとっては日常の一部であった音、それを久方ぶりに耳にして懐かしさを覚え、やがてその音に癒されている自分に気づいたのが昨年のことだ。


 だが今は違う。ここにいても剣戟けんげきの類は一切聞こえてこない。なのに門前に立っているだけでもすさまじい圧を内部から感じる。最奥で建屋の一部が激しく燃え盛っている様も異様だ。うねる龍のごとき炎は近場の餌を飲み込むように周囲に襲い掛かっている。


 じり、とわずかに後退してしまったのは本能ゆえだ。これまでこんなにも大きな炎に直面したことはないし、これほど規模の大きな争いの場へ立ち入ったこともない。


 額にじわりと汗が浮かんできた。


 今ならば、まだ退ける――。


 だが珪己はその考えを即座に捨てた。そして覚悟を決めて門をくぐった。



 *



 騒がしい気配を感じた空斗が昏睡に近い眠りの世界から覚醒したのと、弟の空也が室内に入ってきたのはほぼ同時だった。


 空也の腕の中では赤子がぎゃんぎゃん泣いていた。だが空也はそれどころではないという鬼気迫る表情をしていた。


「兄貴っ……!」


 ただならぬ様子に、起き抜けだというのに空斗の上半身が跳ねるように持ちあがった。


「何があった?」

「屯所で十番隊が暴れているらしいんだ」

「……十番隊が? なぜ?」


 こういう時に理由を尋ねてしまうのが空斗という男だ。


「今はそんなのどうでもいいだろう?」


 たまらず空也が地団駄を踏んだ。


「問題はそこじゃないんだ。それを聞いた珪亥が屯所に行っちゃったんだよ」

「は? なぜだ?」

「だからそれもどうでもいいんだって! 珪亥のことは梁さんが追いかけてくれているけど、心配だから兄貴も行ってやってくれよ」

「ああ。もちろんだ」


 空斗が脱ぎ散らかしていた武官の着衣を手早く身につけていく。もめ事が発生した屯所に行くならこの恰好の方が都合がいいからだ。たとえ汗臭かろうとも、汚れていようとも。


「……しかしどうしたってあの娘はあんなに自分勝手なんだろうな」


 嘆息まじりの空斗のつぶやきに、赤子をあやす空也の手がぴたりと止まった。


「それどういう意味だよ」

「……ああー!」


 やや小さくなりかけていた赤子の泣き声が再度激しいものになった。だが兄弟間に生じたひずみの前では赤子の示す怒りも不愉快も色あせて見える。


「わからないのか?」


 こういう時だというのに、いやこういう時だからこそ、空斗は常々抱いていた不満を口にしていた。


「母親となったくせに今でもいっぱしの武芸者気取りだが、子を産んだのなら剣なんて握るべきじゃないだろう」


 帯を締める力がつい強くなる。


「あんなに素晴らしい夫がいるんだ、家で子を抱いて待っていればいいじゃないか。なのにどうして」


 ここが開陽ならば、この空斗の発言は一刀両断されるだろう。いかにも典型的な田舎者の発想だと。男は金を稼ぎ家族を護り、女は子を育て家を護る――それこそが理想的な夫婦、男女の姿だと刷り込まれている田舎者だと。


 確かに空斗は田舎出身の取り立てて学のない若者だ。ただ、不満げな口ぶりには弟に対する苦言も若干含まれていた。


『俺が護ってやるからお前はおとなしくしていてくれ』

『どうして俺が護ると言っているのに自ら危ない橋を渡ろうとするんだ』


 自分にとっての弟と、仁威にとっての珪己。双方の関係性には似ている部分がある。それゆえに珪己の言動に否定的な感情を覚えてしまう自分に空斗は気づいていた。弟に直接言えないからこそ、分かりやすい悪人である珪己に自分の矛先が向かってしまうことにも。


 それでもいったん堰を切った言葉は止まらなかった。


「ただでさえ女で武芸を嗜むなんてひんしゅくを買いやすいのに、いいところの娘だとそういうところが普通と違うのかもしれないな。それとも山で俺達に襲い掛かってきたあの姿があの娘の本性に近いのかもしれない」


 雄弁な空斗の口が突然塞がれた。


 空也に頭をはたかれたのだ。おそらく全力で。


「……何をするんだ!」


 だが当の弟は何も言わない。言わずに空斗を睨みつけている。ただ、その表情から本人の怒りと悔しさは容易に読み取れた。だから空斗の方も「そういうことか」とすぐに察した。


「……ああ。お前の惚れた女のことを悪く言って悪かったよ」


 これに空也の顔が真っ赤に火照った。しかしそれは恥ずかしさによるものだけではなかった。


「珪亥のことを侮辱するな……!」

「侮辱なんてしていない。俺は一般常識を語っただけだ」

「一般常識? それって誰が決めたことだよ! 俺は珪亥がああいう女の子だから救われたんだ! 珪亥がその辺にいる普通の女の子だったら俺はとっくに死んでたんだぜ?」

「それはそうかもしれないけどな」


 でもあの娘が常識人であれば開陽でおとなしくしていたんじゃないか?


 芯国の王子に見初められても拒むことなく運命を受け入れたんじゃないか?


 そしたらお前はあの寺で王子に斬られることはなかったんじゃないか?


 そしたら俺達は今も開陽で笑って暮らしていられたんじゃないのか?


「……兄貴、最低だな」


 言葉には出さずとも空斗の瞳は本人が思っている以上に雄弁で、とうとう空也の堪忍袋の緒が切れた。きつく睨むその目には涙すら浮かんでいる。


「俺と珪亥の人生が繋がったのは珪亥のせいなんかじゃない! 俺が斬られたのも、今こうしてこの街にいるのも珪亥のせいじゃない! 悪い奴らが俺達の人生を変えただけで、その責任をとるのは被害者である珪亥じゃない……!」


 言い返したいことはいくつもある。だが空斗は何一つ言い返さなかった。物事の解釈の仕方は人によって違うし、自分と弟は同じ人間ではないからだ。


 空斗はどうしても弟ありき、弟優先で物事を見てしまう。そういう癖がついてしまっている。そして弟も初恋ゆえに目が曇っている。また、お互いにはお互いの価値観がある。これまで沁みついてきた習慣だとか哲学もある。だからすべてを分かり合うことはできないのだ。


 しかし分かり合う必要もないと思っている。ただ解釈の仕方が違うだけなのだから。……そう思わなくては辛すぎる。本当はもっとも理解し、理解されたい相手なのに。


 見返す空斗の態度から、空也はまたも兄の意志を察した。譲るつもりも謝罪するつもりもないのだと。だがそこまでが限度だった。兄の抱く辛苦にまでは気づかなかった。……いや、気づきたくなかったのかもしれない。


「だったら兄貴は行かなくていい。俺が行く。俺が珪亥を助ける!」


 そう言うや、腕に抱えていた赤子をぐいっと空斗に押しつける。


 ここまで二人が対立するのは知り合って以来初めてのことだった。


「……そうしたいならそうするんだな」


 吐き捨てるように言うと、空斗もまた乱暴な仕草で赤子を受け取った。短時間で次々と世話人が変わったせいか、赤子は疲れをものともせず、ひときわ甲高い声で泣き出した。


 二人、にらみ合う時間は短く、やがて空也は踵を返して室から出ていった。だから空斗のつぶやきは誰にも聞こえなかった。


「……俺はただお前を護りたいだけなんだよ」


 赤子の泣き声はもはや断末魔のごとき様相となっている。 


「……やっぱり俺、お前がいなければこの世がどうなろうとも構わないみたいだ」



 *



 勢いよく外に飛び出した空也であったが、その勢いはすぐに減じられた。門前で既知の青年とぶつかりかけたのだ。なんとか踏みとどまった空也は相手の顔を見るや思わず大声をあげた。


「えっ? どうしてあなたがここに……っ?」



 *

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